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扉を開けた瞬間、頬に強い衝撃がぶつかり、コハクは床に倒れ込んだ。咄嗟に体勢を立て直そうとするも、ハインリヒの長い足に素早く肩を踏みつけられ、あえなく失敗する。そのまま容赦なく体重を掛けられ、コハクは痛みと息苦しさに呻いた。
「コハク。お前は誰の許しを得て、私の元を離れたのだ?」
コハクを見下ろす真紅の瞳が、激しい怒りに燃えている。コハクは主人に黙って屋敷から姿を消した。取るに足らない奴隷に裏切られる形となったハインリヒにとっては面白いはずがない。
「好いた男でもできたのか? 暫く見ぬ間にいやらしい体つきになったものだな」
ハインリヒの冷たい眼差しが舐めるようにコハクの体を隅々まで眺める。コハクは顔がかっと赤くなるのを感じた。少年のように痩せていたコハクは、今では胸が豊かに膨らみ、腰つきは女らしい丸みを帯びている。だが、それはヒスイを産んだためだ。決してハインリヒが邪推するような理由からではない。しかし、それを説明することは出来なかった。コハクは屈辱で潤んだ瞳に気づかれたくなくて、顔を背けた。
「旦那様には、関係のないことです」
「ほう………」
ふいに、肩の圧迫が消えた。かと思うと、今度は片手で首を掴まれ、一気に締め上げられた。情事の際、戯れに縊られることは何度もあったが、それとは全く違う。骨が軋み、視界が澱む。ハインリヒは本気でコハクの息の根を止めるつもりらしい。不思議と、恐ろしくはなかった。意識が朦朧とする中、ふっと美麗な顔が近づいてきて、先程殴られた衝撃で切れた唇をぺろりと舐められた。肌の上を掠める鋭い牙の感触に、ぞわりと肌が粟立つ。
―――そのときだった。
「母さま………?」
幼い声が響き、ハインリヒの動きが一瞬止まった。その隙を突いて、我に返ったコハクはハインリヒの手から必死に逃れた。そのまま駆け出し、ハインリヒの目から隠すようにヒスイを胸に抱きしめる。ハインリヒに背を向ける形になったコハクは、すぐ後ろまで迫りくる足音を心臓が止まる思いで聞いた。
「………ダンピールか」
―――気づかれた………!
コハクは目の前が真っ暗になるのを感じた。
「それは、私の子なのか」
抑揚のない声が夜のしじまに溶けて消える。
―――ああ。
コハクは深く項垂れた。終わった。何もかも。吸血鬼にとってダンピールが最大の弱点であるとは言え、生まれたばかりで魔力の弱いヒスイと、悠久の時を生きてきたハインリヒでは力の差は歴然だった。
背後から、ゆっくりとハインリヒの手が伸びてくる。
「かあさま」
コハクは腕の中で震えるヒスイを強く強く抱きしめた。可哀想に。この子は何も悪くないのに。コハクにはもう、一緒に死んでやることしかできない。迫り来る死を予感し、コハクはぎゅっと目を瞑った。