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ノーブルロット家のメイドの仕事は、月が空に顔を出す頃から始まる。痩せた体に飾り気のない紺色のエプロンドレスを着た少女は、手にした蝋燭の火を頼りに、暗闇に包まれた長い廊下を一人歩いていた。肩の辺りでふわふわ揺れる柔らかな茶髪。表情の少ない漆黒の瞳。真面目そうに引き結ばれた小さな唇。不器量という程ではないが、特徴のない平凡な顔立ちをした彼女が目指す先は、屋敷の最奥に位置する主人の寝室である。やがて、固く閉ざされた重厚な扉の前に辿り着いた少女は、その子供のように小さな手で静かにノックをした。
「おはようございます。旦那様、コハクです。入りますよ」
コハクと名乗った少女は、返事を待たずに部屋の中へ入った。分厚いカーテンが閉め切られた室内は、真っ暗で何も見えない。コハクは手にした蝋燭を掲げて慎重に足を進め、壁にかけられた燭台へ手元の火を移していく。徐々に様子が明らかになっていくその部屋は見渡せるほどに広く、血のような深紅色を基調とした贅沢な家具で統一され、まるで時が止まっているかのように静謐としていて生活感がない。それらの中心に溶け込むようにして、他とは明らかに異質な物が置かれていた。それは六角形を縦に引き延ばした形をしていて、人一人入れる程の大きさがある木製の箱―――つまり、棺桶である。漆黒に輝く表面に繊細な彫刻が施され、塵一つ残さず隅々まで丁寧に磨き上げられている。
「――――」
コハクは棺桶の側に跪き、慎重な手つきでそっと蓋を開けた。中に横たわっていたのは、死体のようでいてそうではなかった。夜の闇を孕んだ長い黒髪。蜜蝋のように白く濁った肌。熟れた果実のごとき赤い唇。思わずぞっとするほどに美しい男が、安らかな寝息を立てて静かに眠っていた。
「旦那様。朝………ではなく夜です。お目覚めください」
コハクが遠慮がちに呼びかけると、伏せられた長い睫毛が微かに震え、ゆっくりと両目が開かれる。現れたのは、鮮血よりも濃厚な紅の瞳。それは、男が人ならざる者である証。
「―――コハク」
「はい」
低く艶やかな声で名を呼ばれ、コハクは小さく頷く。次の瞬間、するりと伸びてきた冷たい指に手首を捕らえられ、棺桶の中に引き込まれていた。
「旦那様………」
白い美貌を間近に見下ろし、コハクは狼狽える。不可抗力ではあるが、無礼にも主人である男の上に跨がる姿勢になってしまった。すぐに退こうとしたコハクの華奢な腰を、けれど、男は逃すまいと強く抱き寄せた。
「お前は、私の名を知っているか?」
「はい。ハインリヒ=ノーブルロット様」
「そう、良い子だ」
ハインリヒは満足げに笑うと、コハクの細い顎を持ち上げ、褒めるように指先で撫でた。そのまま指を滑らせ、コハクの襟元に形良く結ばれたリボンタイに手をかける。
「あの」
制止の声は無視された。するすると見せつけるように解かれたそれが、戸惑うコハクの瞼の上に当てられ、頭の後ろで結ばれる。こんな時、ハインリヒはコハクから自由を奪うことを好むのだ。視界を失ったコハクは、不安げに主の名を呼んだ。
「ハインリヒ様」
「腹が減った」
「今、セバスチャンが食事の用意をして―――」
「違う」
コハクの言葉は最後まで続かなかった。唇に、柔らかな感触。呼吸を奪うようにねっとりと執拗に口付けられ、たちまち何も考えられなくなる。その間にゆっくりと胸元の釦を外され、露出した首筋が冷ややかな外気に晒される。脈打つ血管のすぐ上に柔く爪を立てられ、コハクは命の危険を感じてざわりと肌が粟立った。
「血が欲しい。今すぐ」
「あ」
耳元で艶やかに囁かれると、コハクの体から呆気なく力が抜けていく。腕を引かれ、そのままハインリヒの胸の上にゆっくりと倒れ込んだ。
―――もう、逃げられない。
ハインリヒが耳元で小さく笑い、爪よりも鋭く尖った何かが、コハクの首筋に突き刺さった。深く。
「ん………」
痛い。いや、それ以上に熱く、どこか快い。きつく食まれた場所から血がだらだらと溢れ出し、胸元まで伝い落ちていくのが分かる。それをまるで甘い蜂蜜であるかのように追いかけていく悪戯な舌の動きに、気が遠くなっていく。知らず、濡れた吐息が漏れ、コハクは縋るようにハインリヒの長い髪を掴んでいた。
「ハイン、リヒ、さま。もう………」
目が回る。これ以上血を流しては、意識を失ってしまう。コハクは弱々しい声を上げたが、すでに手遅れであり、そのままぐったりと動けなくなってしまった。ハインリヒは名残惜しそうに顔を離し、力尽きたコハクを腕に抱いてゆっくりと体を起こした。
「コハク」
どこか甘い声で名を呼ばれ、優しく目隠しが外された。自由になった両目に、今しがた、コハクの血を啜っていた唇の生々しい赤色が焼きつく。
―――やっと、解放される。
主人の『食事』は終わった。職務を果たしたコハクはそっと安堵のため息を吐き、急激な貧血でふらつく体を無理やり起こそうとした。
「あっ」
しかし、ぐらりと視界が揺れ、天地が逆さまになる。気がつけば、コハクはハインリヒによって棺桶の中に組み敷かれていた。
「………まだだ」
ハインリヒの紅の瞳がじわりと濃度を増し、呆然と見上げるコハクの黒い瞳を真っ直ぐに射る。
「まだ、足りない」
ハインリヒの声は、欲望に濡れていた。先程解かれたばかりのリボンタイが、今度はあっという間にコハクの両手を戒める。再び体の自由を奪われたコハクは、これから全身に刻みつけられるであろう快楽への恐怖と期待に震えた。ハインリヒは不気味なほど美しく微笑み、コハクの甘い悲鳴を飲み込む。口づけは、苦い血の味がした。