終わらない夕焼けの国
僕は、夕陽のピアノを弾くカラスに会ったことがある。
そう言っても、誰も信じてくれない。
母さんには夢でも見たんだろうって言われたけれど、あれは確かに現実だったんだ。
***
僕がはじめて家出をしたのは、僕が小三のときだった。
僕には年の離れた体の弱い弟がいて、母さんは弟にかかりきりだった。数日前からひどい風邪をひいて、なかなか熱が下がらなかったのだ。いつもは「お兄ちゃんだから」母さんに甘えるのは我慢していた。でも、そのときは違った。
僕の絵が賞をとったのだ。夏休みの宿題で提出した水彩画で、家族で旅行したときに見た夕陽を描いたものだった。僕は賞状を片手に何度も母さんに話しかけた。たった一言「よく頑張ったね」と言って欲しかっただけだったのだ。でも弟の看病で疲れていた母さんは、僕の話を聞いてくれなかった。
母さんも弟も許せなかった。弟にかかりきりで僕のことなんて見てくれない母さんも、病気ばかりしている弟も嫌いだと思った。僕は遠足のときに使っている仮面ライダーの絵が描いてあるリュックに、ありったけのお金と服とお気に入りの漫画をつめて家を出た。
補助輪を外したばかりの青い自転車にまたがって、ひたすら真っ直ぐ進んだ。とにかく家から離れたかったのだ。それに知り合いに見つかって連れ戻されるのが怖かった。行く宛もなく、ただただ前に進んだ。
何時間も――当時の僕はそう思っていたけれど、実際は一時間くらいだった――走ったあと、喉が渇いた僕はコンビニで飲み物を買うことにした。空の色は橙色に変わり始めていた。傾きかけた太陽を見て、何故だか泣きたくなった。僕は必死で涙を堪えて自転車を止めて、コンビニの中に入った。
普段は飲まない炭酸入りのジュースを買って店を出る。一口飲んでから自転車のところに戻った僕は、異変に気づいた。家を出る前に空気を入れなかったせいなのか、後輪がパンクしていたのだ。これじゃあ走れない。僕は溜息をついた。既に僕の行動範囲の外に出てしまっている。自転車屋の場所がわからない。それにずっと家を出たままで生きていくために、あまりお金を使いたくないと思った。
どうしようかと悩んでいると、自動ドアのガラス越しにメガネの店員と目が合った。店員は不思議そうな顔をして、レジから出て来る。きっと僕の様子が変だったから心配になったのだろう。捕まると思った。連れ戻されてしまう。僕の居場所なんて全くない、あの家に。
気付いたときには、パンクした自転車で走り出していた。後輪がガタガタ言うたびに泣きそうになった。それでもそのときの僕は、逃げるしかないと思っていた。夕陽の方向に脇目もふらず進んだ。
しかしパンクした自転車、しかも子供用のそれでは、坂道を登ることは出来なかった。長い登り坂の途中で、何かに躓いて僕は転んでしまった。勢い良く転んだせいか、プラスチックのカゴにヒビが入っていた。
僕はとうとう泣きだした。アスファルトに打ちつけた体はあちこちが痛かったし、何より僕を慰めて「痛いの痛いの飛んでけ」とおまじないをかけてくれる人がいなかった。僕は世界中でたった一人なんだと思った。
――そんなとき、あの曲が聞こえてきた。
それは今まで聞いたことのない音楽だった。
テレビで流れているようなものとは違うし、学校の音楽の時間に聞かされるようなものとも違う。父さんの部屋にあった古いCDの中の音楽と少し似ているけれど、どこか違うような気がする。懐かしいのに初めて聞くメロディーと、ピアノそっくりだけど、ピアノよりくぐもった音色。
僕の涙は、気づかぬうちに止まっていた。
その音楽は耳からだけじゃなく、僕の中に入ってきた。例えば、すりむいた膝から。例えば、むき出しになった二の腕の皮膚から。そして僕の中に入ってきた音楽は、体中を巡って僕の細胞のひとつひとつに浸透していく。
僕の鼓動が、音楽とシンクロしていくのがわかった。まるで心臓が楽器になったかのようにリズムを刻む。言い表せないような気持ちが胸に広がった。
僕は自転車を置いて走り出した。同じような家が立ち並ぶ坂道を抜けて、音楽が聞こえてくる方へ。巨大な夕陽が輝いている方に向かって。
坂を登りきったところに、海を望む高台が見える。坂道の両側にあった家はそこで途切れていて、代わりに石碑が聳え立っていた。そしてその石碑に寄りかかるようにして、黒づくめの男が佇んでいたのだ。
音楽はまだ続いている。それは、黒づくめの男がいる方から聞こえてくるのだった。しかし男が楽器を持っているようには見えない。僕は逸る心を撫でつけながら、そっと男に近づいていった。
後ろから見ているときはわからなかったが、男はピアノを弾くように指を動かしていた。
もちろん、そこに鍵盤はない。あるのは、夕陽が投げかける橙色の光だけ。でも男の指の動きに合わせて、懐かしいけれど初めて聞く音楽が流れてくるのだ。
「あ……あの!」
思いの外、大きな声が出た。男は首を傾げて僕の方を見る。長い前髪の下からのぞく墨色の目が、僕の姿を逆さまに映しているのが見えた。
男に呼びかけたのはいいものの、何を言えばいいのかわからなかった。聞きたいことは山のようにある。さっきまで弾いていた曲は何なのか、どうやって演奏していたのか、そもそも彼は何者なのか。しかし、どの疑問も僕の中で浮かんでは消えて行くのだった。
「――そっちが話し掛けてきたくせに、何で無言になるんだ?」
心底不思議そうに男が言った。男は二十代くらいに見えるのだが、つやのない嗄れた声をしている。
「あ、あなたは一体……」
最後の方は口ごもってしまう。黒づくめの男は腕組みをしながら口を開いた。
「俺は夕焼けの国のカラスだ」
こともなげに男は言う。夕焼けの国のカラス、と僕は繰り返した。からかっているのだろうか。いや、そんな風には見えない。呼吸するように自然に、男はその言葉を口にしているようだった。
この男は頭がおかしいのだろうか、と一瞬だけ思った。何もない空間で指を動かしていたし、何より自らを「夕焼けの国のカラス」などと名乗るのだ。しかし僕はすぐにそれを否定した。この男が指を動かすと、ピアノよりも少しくぐもった音が聞こえてくるのは事実なのだ。
「お前は、こんなところに何しに来たんだ?」
僕が黙っていると、黒づくめの男――カラスが聞いてきた。その目は僕ではなく、やたらと大きい夕陽に向けられている。僕は家出したこと、自転車がパンクしてしまったこと、世界中でたった一人だと思ったときに、音楽が聞こえてきたことなんかを簡単に話した。
「お前と俺は同じだな」
カラスが柔らかい微笑みを浮かべながら言った。
「いつの間にか、この夕焼けの国には誰もいなくなった」
昔はお前みたいな子どもがたくさんいたんだけどな、とカラスは遠い目をした。彼が宙に浮いたままの指を動かすと、物悲しいワルツのメロディーが流れ出す。カラスは変わらず微笑みを浮かべていたけれど、それは泣きそうなのを堪えているようにも見えた。
でも、と僕は口の中で呟いた。僕も自分は世界中でたった一人だと思った。弟にかかりきりで僕を見てくれない母さん、ほとんど家に帰ってこない父さん。自転車屋の場所もわからない見知らぬ土地。僕は寂しかったのだ。
だけど、カラスの曲を聴いている今は、その寂しさが少し軽くなったような気がしている。音がゆっくりと細胞に染み込んで、体が満たされていくのだ。そんな音楽を奏でるカラスが、こんな悲しそうな顔をするなんて。
僕はカラスがしているように、空中に手を置いた。ピアノなんて弾けない。でもカラスにあの音楽を聞かせてやりたかった。一人ぼっちの心を包み込む、優しい音楽を。
――右手の人差し指を動かすと、綿のように柔らかい音が響いた。
カラスは驚いたように僕を見る。僕は彼を見つめ返して、にっこりと笑った。
***
僕の記憶はそこで一旦途切れている。
気付いたときには、僕は家のベッドで寝ていた。夢だったのかとも思った。でも体のあちこちに擦り傷が残っていたし、青色の自転車はどこを探しても見つからなかった。だからあれはきっと現実だったのだ。僕はそう思っている。
母さんはそんなことあるわけないわよ、と笑った。きっと夕焼けの絵を枕にして寝ていたからそんな夢を見たのよ、と言って、弟のための氷枕を作っていた。
でも、僕は覚えている。
夕焼けの国のカラスが奏でていた音楽は、今でもずっと僕の奥で響いている。
あれ以来、僕は夕焼けを見る度に、夕陽のピアノを弾いてみる。
音が出ることは一度もなかったけれど、その度にカラスのことを思い出す。誰もいないあの高台で、彼は今でも夕陽のピアノを弾いているのだろうかと。
そしてまた、夕焼けの国のカラスに会いたいと、思うのだ。