黒と太陽と鉛筆とドクロの帽子
俺は20歳のバリバリ大学生だ。成人したからには酒やら煙草を買いあさっている、ごく一般の人間。
そんな俺が、今日からちょっとしたお小遣い稼ぎをする。かれこれここに座ってから一時間は経つんだが、一向に客が来る気配はない。
「……やっぱ、似顔絵はそんな稼げねーか」
俺はじょりじょりと不快な手触りの顎を撫でた。
そう、俺が始めたのは『似顔絵』だ。これでも美大を通っているため、絵には自信がある。だが、忙しそうに足を急ぐ人々は、地面にある俺のサンプルには一切目を向けてくれない。
青いレジャーシートの上にある、俺が長年かけて作り上げた、デフォルメされた芸能人たちの似顔絵。有名な俳優やら司会者、芸人のイラストも何枚かある。どれも自信作なのだが、誰も見てくれないとわかると涙が出てくる。
ふと、天を仰ぐと、そこには見渡す限りの青空と、白く輝く太陽。帽子越しに感じる熱は、とても暑い。
髑髏の模様が特徴の、白と黒を基準としたキャップ。俺のお気に入りの帽子だ。だけど、こんなに暑いのなら、もう少し涼しげな物にすればよかった。
「場所も悪いよな」
溜息まじりにこぼして、視線を地面へとやったら、太陽の光が地面に反射した。反射的に目を反らしても、ブルーシートも光輝いており、なかなか目の休める場所がなかった。
日陰のひとつでもあればいいのだが、いい場所はそうやすやすととれないものだ。先程辺りを見てみたら、日陰には白いポニーの姿があった。なんの宣伝か全く分からないが、俺も動物と戯れたいものだ。
「くっそー。次はぜってぇ日陰取ってやる。てか、客こねー」
肩を落とす俺。真昼間にやったのがいけなかったのか。いや、夜では手元も相手の顔も見えない。昼間で良かったのだが、やはり肉体的にも精神的にも、この暑さはきつい。
もう止めちまおうかな、とか思ってたら、目の前に天使が。
「すんませーん、似顔絵ってやってるんスか?」
体育会系のようなしゃべりで、目の前に現れたのは、真っ黒の物体だった。いや、顔はちゃんと着いていた。だが、本当に顔だけ。長袖長ズボンで、全身真っ黒。さすがにこの暑さでこれは、ないだろう。
「あー、やってますよ。一回二百円。やるかい?」
「やるっス! おねがいしまーす」
言葉の後半に敬語が抜けたのは、お客が中学生ぐらいの子供だったからだ。ちなみに、二百円というのは、さすがに安すぎてお小遣いにもならないとは思ったのだが、下手に高くするとお客が来ないと考えたからだ。
「じゃ、そこに座って」
目の前の子どもはニコニコと笑い、用意されてあったキャンプ用の椅子に腰かけた。
俺はスケッチブックを取り出すと、早速ペンを取り出して、黒い線を書き綴った。
じっくりと、子供の顔を良く見た。ショートカットでパッと見、男の子かと思ったが、骨格からにしてどうやら女の子らしい。良く見れば、黒の服に纏われた華奢なラインは、女の子だとすぐにわかるものだ。
目は少し釣り目ぎみだな。でも、瞳が大きくてよく笑って明るいから、きついイメージはない。鼻は高い方で、唇は薄め。お、右目の下に泣き黒子発見。ついでに鎖骨にも一個あるな。眉は手入れしてないみたいだけど、奇麗な形だ。顎は細めで、髪は全く染めてないだろうな。茶髪も一切ない真っ黒だ。肌は白くて、後は真っ黒。
観察すると、なかなか彼女は顔が整っているのがわかる。これは、将来に期待だな。
「その格好、暑くないのかい?」
沈黙続きはまずいだろうと思い、話題をだした。すると、女の子は笑みを浮かべてブンブンと首を振る。
「ううん、全然暑くないっすよ!」
元気いっぱいの少女だ。暑さを感じさせない少女につられて、俺も笑みを漏らす。
「えー、そうかい? でも、暑くないと言っても、日差しが強いからね。そんなに時間はかからないけど、それまでここで座ってられるかい?」
「大丈夫っス!」
「それはよかった」
それから、イラストに支障がでない程度に、会話を楽しむ。なかなかおしゃべりな子で、自分からいろいろなことを話してくれた。
「俺、学校で一番足が早いんスよ。で、この前陸上部に来ないかって誘われちゃった」
「へぇ、それはすごいな。入部するのかい?」
「考え中っす! あ、さっきあっちでポニー見たんすよ! めっちゃ可愛かったっす!」
「あぁ、あそこの。あそこ日陰で羨ましいよね」
「そっすねー。でも、俺は日向好きっすよ。それに、明るい方が手元見えるんじゃないっすか?」
「それもそうなんだよねー。でも暑いからね。ちょっと帽子とかないときついかな」
「あ、その帽子かっこいいっすよね! 俺、髑髏とか大好きなんすよ! 俺もそんな帽子欲しいっす!」
「ははは、俺も結構気に入ってるんだよね。ありがとう」
この少女はとても男勝りだ。俺とも趣味が合いそうだが、女の子ならせめて一人称は変えた方がいいと思うけどな。
「さて、できたよ」
「やった、見してくださいっす!」
そうこう話している間に、俺の初めてのお客の似顔絵が完成する。泣き黒子と、笑顔が特徴的な少女だ。
手元をくるりと回して、少女に見せると、それはもう感動したように目をキラキラさせている。あからさまに喜びを表現してもらい、照れてしまう。
「それじゃあ、名前も入れとこうか。名前は?」
「サキです」
「サキちゃんか。うん、可愛い名前だ」
そう言うと、サキちゃんはニカリと笑った。
どうやら、サキちゃんは本当に俺にとって天使だったらしい。
俺のイラストを手に持って彼女が去った後、お客さんが次々とやってきた。といっても、片手で数えられるほどなんだが。お客さんが話しているところを聞くと、どうやら彼女が持っていたイラストを見て、興味をもったらしい。知らずのうちに宣伝をしてくれるとは、俺は心の中でサキちゃんに感謝をした。
一週間後。俺はまた駅の傍でブルーシートを取り出して、今日も今日とてお客を待つ。
今日は雲が多い日だった。だが、多いと言っても曇天というわけではない。時たま太陽が隠れるぐらい。やはり夏の日差しは暑いな。
やはり、今日も日影は取れなかった。だが、今日は雲とお気に入りの髑髏の帽子がある。先週のように、滝の様な汗をかくこともないだろう。
「すんませーん」
おや、聞き覚えのある声だな。そう思って、顔を上げたら納得した。
「似顔絵ってやってるんすか?」
先週の初めてのお客さん兼俺のお小遣いの天使様こと、サキちゃんが目の前に相も変わらずの黒ずくめで立っていた。
「やってるよ。似顔絵、書こうか?」
親しみをこめて笑いかけると、彼女は嬉しそうに頷いて椅子へ腰かけた。
「今日はそれなりに涼しくてよかったね」
「そうっすね!」
今週の彼女は、先週と何一つ変わっていなかった。眩しい笑顔も、真っ黒な服も。何も変化なし。それにしても、二回もお客としてやってくるなんて、物好きなものだ。俺のイラスト技術に惚れこんだのだろうか?
「学校は楽しいかい?」
「楽しいっすよ! 今体育でハードルやってるんスけど、そのタイム見て陸上部の顧問が、入らないか? って言って誘ってきたんスよ!」
「ははは、その先生はどうしても君に入ってもらいたいんだね」
「入ってもいいんだけどなー。あ、さっきから思ってたんスけど、その帽子めっちゃカッコイイっすね!」
「そりゃどーも。君も、その黒い服似合うよ」
「あざーす!」
一度書いたことのある顔だったためか、今回はそんなに時間がかからなかった。
サキちゃんに見せてやると、先週と同じリアクションでお礼を言われた。もちろん、今回の絵は全開とはバリエーションを変えた物だ。
「あれ?」
完成品を手渡した後、何やら不思議そうにサキちゃんは首を傾げていた。なにか手抜かりな部分でもあったのだろうかと、彼女の反応を待つと。
「俺の名前、ちゃんと書いてあるー! うわ、感動!」
感嘆するサキちゃん。なんだそんなことかと、安堵の息を吐き、喜ぶ少女を微笑ましく見守る。
すると、彼女はイラストから目線を俺の方に切り替え、こう言った。
「なんで俺の名前知ってたんスか!? もしかして、超能力っすか!」
俺が呆けるのも無理がないだろう。あまりにも真剣に(だがこちらから見ると、その真剣さが笑いを呼んでいる)、訊いてくるので、一瞬間を開けてから俺は苦笑した。
「そんなわけないよ。俺はいたって普通の一般人さ」
「じゃあ、なんで知ってるんスか!」
「だって、前に自分で教えてくれてただろう?」
そう言えば、サキちゃんは首を捻り、頭上にクエスチョンマークを飛ばす。
「そうでしたっけ?」
「もう忘れてしまったのかい? おもしろいな」
くすくすと笑うと、彼女はまだ納得できてないようで首を傾げる。だが、気にしても仕方ないと言いだして、お礼を言ってその場を去っていた。
「すんませーん」
俺の三回目のお小遣い稼ぎ。今日も、彼女は前回と同じ時間にやってきた。
「似顔絵ってやってるんすか?」
「もちろん」
彼女は今日も百円玉を二枚俺に手渡して、椅子に腰かける。
「この前体育だったんスけど、顧問の先生に陸上部に誘われたんスよ! 俺ってば、めっちゃ脚早いんスよ! 俺の自慢っす!」
「はは、その話本当に好きだね」
「え、俺話しましたっけ?」
「いや、何回も話してただろう」
「えー、そうでしたっけ?」
「わすれっぽいんだな。はい、完成したよ」
「ありがとうございます! うわ、すっげぇ! あ、俺の名前書いてある! てか、俺いつの間に名前教えたんだ?」
手渡されたイラストを、大事そうに抱えて彼女は立ちあがった。そして別れ際に、こう言う。
「その帽子カッコイイっすね。何処で買ったんスか?」
「すんませーん。似顔絵ってやってるんスか?」
「やってるよ。そろそろ来るころだと思ったよ」
「え、わかるんすか!?」
「もちろん。常連だからね」
「え、俺初めてっすよ? てか、お兄さんの帽子カッコイイなー。俺も欲しい」
「ありがと」
「そうだ、聞いてくださいよ、俺の自慢! この前体育だったんスけど」
「陸上部に誘われたんだね」
「え、なんで分かったんスか!?」
「もう、耳にタコができるほど聞いてるからね。この前もその話しばっかりだったろう」
「え、この前っていつっすか? 前に会いましたっけ?」
「…………」
「すんませーん。似顔絵ってやってるんスか?」
「…………」
「あれ、やってないすか?」
「……いや、やってるよ」
乾いた笑みを浮かべて、もはや常連客となってしまったサキちゃんに俺は言った。すると、サキちゃんは変わらない笑顔を見せて椅子に腰かける。
「この前陸上部に誘われたんスよ! 俺、学校で一番早いんスから!」
「……すごいね」
イラストは完成する。そして今日も、彼女はその絵に感動して、俺の帽子を褒めるのだ。
「その帽子、カッコイイっすね! 俺も欲しいっす!」
最初は、ただ単に忘れっぽいのかと思っていた。だが、これが2カ月近くも続くとなると、誰だっておかしいと思う。
彼女の笑顔はとても明るい。だが、最近はその笑顔が不気味で仕方がない。邪気なんてものはないんだ。だが、逆にその無邪気さが末恐ろしい。
今日も俺は金を稼ぐ。バイトでもやればいい話なのだが、人と多く接することができるこの場所を、俺は気にいっていた。――――彼女を抜かせば、の話だが。
本日は曇天。あの眩しい太陽は姿を隠し、俺は意味もなく帽子を被っている。サキちゃんお気に入りの、黒い髑髏の帽子を。
彼女が来る時間の、ちょっと前。俺の前に、一人の女性が来た。質素な服を着込んだ、中年の線の薄い女だった。
「似顔絵、書きましょうか?」
お客は大歓迎、そう内心喜びながら、にこやかに椅子をすすめた。だが、女は俯き加減の首をふるふると横に振る。
「え、じゃあどうしましたか?」
客ではないことに落胆するが、表には出さずに用件を聞いた。
女は黒い瞳を伏せて、俺を見下ろす。
「……今日は、あの子は来ません」
一瞬、何を言われたかわからなかった。だが、その言葉から連想される人物を脳内で見つけて、俺は目を見開く。
「サキちゃん関係、の方ですか……?」
女はゆっくりと頷いた。
「サキの、母です」
母といわれ、俺は更に目を丸くする。あの元気な子が、こんな物静かな人から生まれるとは。というか、俺になんの用だろうか。
「あの子は、今病院にいます」
「…………」
さして驚きはしなかった。薄々、何かしらはあると思っていたから。
「サキちゃんは、何かの病気を?」
「えぇ。あの子は―――――……」
「すんませーん。似顔絵ってやってるんスか?」
「あぁ、やってるよ。二百円だ」
俺は笑顔を貼りつけて答えた。
「やった。おねがいしまーす」
椅子をすすめて、もう空で描けるような見慣れた顔を、白い画用紙に描く。
「学校、楽しい?」
いつもは、彼女が話し出すのだが、今日は俺から話題を振った。
「めっちゃたのしいっすよ! そういや、この前陸上部に誘われたんス!」
「へぇ、走るのが速いんだね。運動とか好き?」
「好きっす! 昼休みとか、よく男子とまじってバスケとかしたり、ドッヂします」
「ドッヂボールかー。俺はちょっと、球技は苦手なんだよね。唯一できるのはサッカーぐらいかな」
「俺、サッカーも好きっすよ!」
そこで、俺はいつものように書いていたペンを止めた。何回も同じ人物を描いて、イラストのバリエーションがない、というわけではない。アイデアは次々と浮かんでくる。だが、何故かその様々なイラストは浮かんでは消えてしまう。
最近あまり直視しなくなった彼女の顔を、俺は改めて真正面から見た。すると、どうだろうか。今まで気付かなかったことに俺は気付く。
明るいサキちゃんの顔は、太陽の光にあたり赤く火照ってはいるが、よくよく見ればそれは青白くも見える。最初は肌が白いとしか感じなかったが、それはきっと不健康なため白かったのだろう。彼女は運動が大好きだ。きっと、元は日に焼けていたのではないのだろうか。
俺はサキちゃんに笑みを向けて、紙をぐしゃりと両手で固めた。
「ごめんねー、ちょっと書きなおしてもいいかい?」
「失敗でもしたんスか?」
「まぁ、そんな感じ」
丸めた紙を適当にそこらに放り、俺は真新しい紙を取り出し、鉛筆を握った。
「少し、時間かかるかもしれないけど、いいかい?」
「おっけーっす」
にこやかに笑う彼女の笑みに、俺も微笑んだ。
いつもより長い時間、俺とサキちゃんは向かい合わせに座った。
時折会話を挟んで談笑し、サキちゃんは始終笑顔で、俺も笑いながら線を描いた。
「よし、やっとできた。お疲れ様」
「おー、完成っすか。ありがとございます」
ようやっと完成した絵を見て、俺は満足げに笑んだ。
見せて見せてと期待に目を輝かすサキちゃんを見て、俺は目を細めてそれを手渡した。
「おおー! すっげぇ!!」
すると、彼女は今までで一番の歓声を上げた。
「すごいっすね。超リアル!」
そう、彼女が言うように、俺は今までの漫画風のイラストではなく、彼女の特徴を精密に鉛筆の線一つ一つで表現した、肖像画を描いた。もちろん、彼女は始終笑顔だったので、リアルなサキちゃんの肖像画も、眩しい笑顔のものだ。
紙は色紙ぐらいの大きさなので、胸から上ではなく、肩から上なのだが、十分彼女を描ききれたと思う。
「いやー、俺めっちゃ嬉しいっす!」
手放しで喜ぶ彼女を見て、俺も嬉しくなった。
「すっごいなー。これ、貰ってもいいんですか?」
「あぁ、もち……」
もちろんだよ、という言葉は途中で終わってしまった。サキちゃんは不思議そうに俺を見た。
「……ごめんね、それ、俺が貰ってもいいかな?」
なんとなく、そう、本当になんとなくだ。何故だか、俺はその絵が欲しいと思った。自分の絵が欲しいだなんて、そんなことは今まで別に思わなかった。特別上手く出来たから、とかそういうわけではなく、彼女の絵だから、俺は欲しいと思った。
「あ、もちろん、お金は返すよ。だから……」
さすがの彼女も、俺の事を変だと思うだろうか。でも、何となく彼女の返事を予想できた。
「別にいいっすよー」
あぁ、やっぱり、彼女は笑顔で了承した。
「そっか、ありがとう」
「いやいや、こっちこそありがとございます」
お互いに礼を言った後、俺はやはり申し訳ないと思い、自分の帽子を彼女の頭にかぶせた。当然、彼女はきょとんと眼を丸くして俺を見る。
「お礼といっちゃあなんだけど、その帽子、あげるよ」
「えぇ!? マジッすか! ……いや、でも悪いっすよ」
最初は喜んだけど、すぐに申し訳なさそうに目を伏せた。俺は苦笑して、彼女の頭を髑髏の帽子の上から撫でた。
「長い時間付き合ってくれて、しかも絵を譲ってくれたお礼。受け取ってくれないかな?」
長い時間と言っても、まだまだ夏の太陽は高い。熱中症にならないか不安もあった。
俺の譲ろうとしない気持ちを解ってくれたのか、サキちゃんはようやくあの眩しい笑顔を見せた。
「ありがとうございます! 実は、さっきからこの帽子かっこいいなー、って思ってたんスよ!」
照れたような笑みで、帽子を大事そうに被りなおす彼女を見て、俺も満足した。
「それじゃあ、ありがとうございました。俺、もういくっすね」
立ちあがり、嬉しそうに帽子のつばを抑えたサキちゃんは、俺にもう一度礼を言う。俺は座ったままの状態で、その礼にこちらこそと言った。
「体に、気を付けてね」
軽く頭を下げた後、サキちゃんは上機嫌で去っていった。
帽子をなくした俺の頭には、ダイレクトに太陽の光が注がれて、汗が出てくる。俺は汗に貼りつく髪の毛をかきあげて、先程書いた絵を取り、鉛筆を持った。
「おし。完成だな」
彼女の笑顔の隣に、『Saki』とローマ字で彼女の名前を付け足し、並ぶイラストの隣に置いた。漫画風のイラストとは全く違う絵に、違和感を覚えたが、気にしない。
帽子の代わりにタオルを頭から被り、暑さに耐えていると、目の前に中年の男が立った。
「すみません、似顔絵を描いてもらえませんか?」
「もちろん、いいですよ」
俺はにこやかにその男性に椅子をすすめた。
「あの、こっちのイラストではなく、その女の子の様な絵を描いてほしいんですが」
女の子、と言って指差したのは、サキちゃんの絵だった。
「……全然、かまいませんよ」
そうですか、と笑みを見せた男性を見て、俺は鉛筆を取った。
それから暫く、何人かの人が肖像画を頼んできた。俺が絵を描いている姿を見て、若い人もイラストを頼んだりしてきた。今日が一番、客が多い日だった。
俺の小遣いの天使は、笑顔を通り過ぎる人たちに向けている。
彼女は次の日になれば、もう俺の事を覚えていない。だが、俺は忘れないだろう。そして、彼女の絵を見た人たちにも、彼女は記憶のどこかにいることができるんだろう。
さぁ、俺の天使を見て行ってくれ。そして、どうか彼女を覚えていてほしい。俺も、きっと一生忘れないから。
あの日以来、俺は似顔絵の小遣い稼ぎは止めた。もう場所が取れなくなったとか、暑さにやられたとか、様々な理由があったが、はっきりした理由はない。とりあえず、やる気が無くなったのだ。
そして、暫く立ったある日、俺は野暮用であの場所を訪れた。まぁ、ちょっと通りかかっただけだが。
そこで、俺は見た。太陽の熱にも負けずに、黒い長そで長ズボンの服をきて、髑髏の見知った帽子を被った女の子を。
人垣の中で見かけたので、もしかしたらそれは見間違いかもしれない。それでも、彼女の元気そうな姿が見れて、俺は自然と頬が緩んだ。
この場所でなくとも、家に帰れば彼女の顔が見える。あの絵はちゃんと、奇麗にしまってあるのだ。
人垣に消えても、俺は立ち止まったままサキちゃんがいた方向を見ていた。暫くたち、俺は踵を返して足を進める。
人垣に埋もれた俺は、太陽の光に負けじと空を見上げる。曇り一つとない、澄み切った青空が広がっていた。
END
記憶障害のある女の子のお話です。
一日しか記憶を覚えてられない少女。
もし、彼女のような子がそばにいたら、きっと切ないでしょうね。でも、僕は毎日同じことをその子に伝えたいですね。