第5話『弱ったヒロインには看病が効く』
翌日の土曜日。その日は昼前からスマホが痙攣していた。
通知を開くと、天宮からのメッセージが50件を超えていた。
『青鳥』
『熱出ちゃった』
『39度もあるの』
『苦しい』
『青鳥に会いたい』
『なんで既読つけてくれないの?』
『お願い返事して』
『死んじゃうかも』
『青鳥が来てくれないと死んじゃう』
『本当に死んじゃう』
『青鳥青鳥青鳥青鳥青鳥』
以下、名前の羅列と不在着信が続いている。
最後のメッセージには『家ここだから』という文面のあとに住所が記されていた。
正直、お見舞いに行く義理など全くないと思う。
雨に濡れて帰ることを選んだのは天宮自身なのだから、完全に自業自得というやつだ。
ただ、その理由が俺である手前ちょっと断りづらい。
それに断ったら断ったで、月曜日の学校でなにをされるか……。
「しゃーねぇな……」
後頭部をポリポリ掻く。
俺は渋々、天宮のお見舞いに行くことにした。
中学は一緒だったから自転車で行ける範囲だしな。
身支度を終えたのが15時頃で、ズボンの懐に財布とスマホを入れる。
そうして家を出ようとすると、
「お兄ちゃん。どこ行くの?」
玄関で心愛に捕まった。
「友達の家」
「お兄ちゃんに友達なんていない」
せめて「友達なんているの?」と疑問形で頼むよ。妹にぼっちを断定される兄の気持ちも考えてくれ。
まあ、事実だから否定のしようもないけど……。
今度は訂正して伝える。
「知り合いが風邪引いたからお見舞いに」
「何時に帰ってくる?」
おお。通じた。
「暗くなる前には帰るよ」
「絶対だよ」
「絶対」
心愛が道を開けてくれた。
外は、昨日の雨が嘘のように晴天だった。
チャリで天宮家に向かいつつ、道中のスーパーに寄る。
店内でお見舞いの品を探す。
フルーツは高い。缶詰は他人の家だから論外。というわけで、ゼリーコーナーで足が止まった。
たしかブドウが好きとか言っていたような記憶がある。
ブドウ味のゼリーと、念のためにモモ味のゼリーをひとつずつ購入した。
15時半頃に天宮家に到着。
2階建ての一軒家だった。
自転車が置かれているスペースに自分の自転車を停めて、インターホンを押す。
『はーい』
スピーカーからおっとりした女性の声。
「あの、青鳥です。来夢さんのお見舞いに」
『青鳥くんね。待ってたわ』
やがて玄関から、天宮によく似た中年女性が顔を出す。
母親だろう。
「来夢から聞いてる。いつもお世話になってるそうで」
「いえいえ」
お世話というか、振り回されてるというか。
「どうぞどうぞ。上がって」
家に入る。
天宮の母親に先導されながら、リビングを通って階段を上がっていく。
「ここよ」
部屋の前で立ち止まると、母親はノックもなしに扉を開けた。
病床の娘を同級生の男に見せるというのに危機感がなさ過ぎる……。
視界が開いて、最初に目に入ったのは死体の山だった。
ゴミ箱に、てるてる坊主の残骸が詰め込まれている。ティッシュがぐちゃぐちゃになって、顔を描いたマジックが滲んでいた。
……怖いって。
本棚にはマンガと小説。
勉強机の上には俺の写真がいくつか飾られていて、体育祭のときの写真、文化祭のときの写真、普通に授業を受けているときの写真まであった。
いちいち驚かない。スマホのロック画面も俺の写真だったし。
天宮はベットの上で寝ていた。
顔が赤い。額には濡れタオルが乗っている。
「青鳥……?」
天宮が薄っすらと目を開ける。
「ああ」
「本当に来てくれたぁぁっ……」
涙目になりながら布団で口元を隠している。
いじらしい仕草だ。普段の天宮からは考えられないほどに。
天宮は小声で言った。
「お母さん。出てって」
「はいはい」
天宮の母親が俺の肩に手を置く。
「私、ちょっと2時間ほど買い物に行ってくるわね」
「はい?」
なんで俺に言うの?
「帰ってくるときはインターホン鳴らしてから家に入るから。安心していいわよ」
なにを?
いや、言わんとすることはわかるけれども……。
悪い冗談だ。
「じゃあ、ごゆっくり」
そう言い残して、母親が階段を降りていく。
下から玄関の扉が閉まる音。
本当に出かけてしまったらしい。
「そこ、座って?」
寝そべる天宮に目線で示されたのは、ベッド横の空間だ。
他に座るところもなさそうなので、言われた通りの場所に腰を下ろす。
「体調大丈夫か?」
「うん。青鳥が来てくれたからもう平気」
天宮は布団から腕を出した。
細い手が、俺に向かって伸びる。
「握って」
「は?」
「手、握って」
「なに馬鹿なこと言って」
「うぅぅっ……」
天宮の目に涙が滲む。
下唇を噛んでいて、今にも泣き出しそうだ。
普段は拒絶されると発狂するくせに、今日は子犬のようにいじらしい。
これを突っぱねるのは、罪悪感に耐えられそうになかった。
「……わかったよ」
仕方なく天宮の手を握る。
熱い。熱があるせいだろう。
「青鳥の手、冷たくて気持ちいい」
天宮は首を斜めにやって、もう片方の腕も布団から出した。
俺の左手が、天宮の両手に包み込まれる。
そのまま天宮は、俺の左手を自分の頬へと誘った。
「ちょっ」
手の甲に広がる熱い感触。
猫が毛繕いするかのように、天宮は俺の手に頬を擦りつけている。
「気持ちいい。ずっとこうしてたい」
うなされたような息遣い。
首筋を伝う汗が、鎖骨のくぼみに溜まっていく。
――それに気づいた途端、俺の五感が無意識に研ぎ澄まされた。
パジャマの襟元から覗く白い肌。
汗が蒸発したような、重量を伴った生々しい匂い。
天宮来夢の、体の匂い。
マズい……。
この空間にいたらヤバい。呑まれてしまう。
「青鳥」
熱で視界が霞んでいるのか、とろりとした瞳が俺を見つめている。
それでも、俺だけは鮮明に見えているような、そんな眼差しだった。
「好き」
「――ッ」
「大好き」
弱っているときの天宮は、普段とは本当に別人だ。狂気じみた執着も、周囲を巻き込む騒動も今はない。ただ俺を求めるひとりの女子がそこにいる。
危険だ。このままじゃ、天宮のペースに巻き込まれる。
なにか、なにか話題を変えるものはないか……。
逃げるように視線を彷徨わせ、ベッドサイドのテーブルに目が止まる。
コップに入った水と、濡れタオル用の氷水が入ったボウル。
そして未開封の薬が置いてある。
そうだ。薬だ。
「くっ……、薬は飲んだのか?」
「まだ」
「飲まないと治らないだろ」
「でも、錠剤苦手で」
天宮は困ったような顔をした。
「喉も痛くて、飲み込むのが辛いの」
言われてみれば、声が掠れている。
風邪で喉をやられたのか。
ちょうどいい。俺はゼリーの入った袋を左手で取った。
「見舞い品。ゼリー買ってきたからこれで流し込め」
「ゼリー?」
「ブドウ味とモモ味のふたつな。たしかブドウ好きだったろ」
「あたしの好物、覚えててくれたの?」
しまった。余計なことを言ってしまった。
「嬉しい」
天宮がふわりと微笑む。
普段の押しの強い笑顔じゃない、陽だまりのような笑みだった。
「じゃあ、ブドウ食べる」
ならモモの方は……まあ、置いとけば好きなときに食うだろう。
「手は離すからな」
少し不満そうにしていたが、珍しく逆らうことはしなかった。
本当に今日はしおらしい。
ゼリーのフタを剥がして、スーパーでもらったスプーンを渡そうとする。
だがそこで、天宮は寝転がったまま口を開けた。
「あーん」
「は?」
「食べさせて」
「自分で食え」
「体起こすの辛いの」
天宮の目にまた涙が滲む。
「お願い……」
潤みを帯びた瞳で見上げられる。
……反則だ、これは。
いや待て。まさかこいつ、わざとやって?
さすがに考え過ぎか。
「……わかったよ」
なんにせよ、ここで断ったら泣き出すだろうし、面倒を避けるためにも従っておく。
こいつとの日常は、つくづく消極的選択の連続だな……。
スプーンでゼリーを掬い、口元に運ぶ。
天宮はそれを、はむっと唇で挟み込むように咥える。
そのままスプーンを引き抜くと、ごっくんとゼリーが飲み込まれていくのがわかった。
「美味しい」
「喉、大丈夫か?」
「平気」
またゼリーを掬い、天宮の口に運ぶ。
この状況がおかしいことはわかっている。
だが、病人相手だから仕方ない。
本当は仕方なくないのかもしれないが、自分にそう言い聞かせることでしか気を紛らわす術がなかった。
ゼリーが残りわずかになったところで、テーブルに置かれた薬を手に取る。
「ほら。ちゃんと飲めよ」
「えぇー」
「ゼリーで流し込め」
「なんだかそれ、赤ちゃんみたい」
今さら過ぎる。
あーんを要求している時点で赤子だ。
「我慢しろ」
「じゃあ、ちょっと起こして」
……ここまで来たら、毒を食らわば皿まで、だ。
額から濡れタオルを取り、ボウルの氷水に浸しとく。
その後、背中とシーツの隙間に左腕を差し込み、天宮の上半身を傾ける。
枕の外にまとめてあった髪がバサッと俺の腕に垂れ落ちて、濃密な匂いが鼻腔を貫いた。
気を強く保て、俺……。
これは単なる看病だ。それ以上でもそれ以下でもない。
医療行為。そう、医療行為だ。
しかし、上からの構図だと胸元まで見えて……なるべく目を逸らしつつ、空いた右手を使ってゼリーと錠剤を口内に入れる。
最後にコップの水も飲ませておいた。
長い髪を枕の外にやりながら、天宮の体をベッドに横たえる。
濡れタオルを絞り、額の上に乗せ直す。
終わった……。
「青鳥と一緒だと病気も治っちゃいそう」
俺の心境など知る由もなく、天宮は微笑を浮かべていた。
その反応で少し気が楽になる。
「プラセボ過ぎるだろ、それは」
「でも、お見舞いに来てくれて、手まで握ってくれて……こんなに優しくしてくれて……本当に夢みたい。あれっ、夢なのかな? なんかフワフワするし」
現実をたしかめるように、天宮がまた俺の手を握った。
「青鳥。帰らないでね」
「お前のお母さんが帰ってくるまではいるよ」
「本当?」
「ああ。夜になる前にはさすがに帰るけど」
心愛との約束だしな。そこは譲れない。
「だから、天宮も安静にして寝てろ」
「わかった」
天宮は安堵したように目尻を落とした。
「じゃあ、それまで手握ってて」
「寝るまでだからな」
手のひらから伝わる熱は、先ほどよりも冷たくなっている気がした。
どっちの体温が下がったのか上がったのか、それはわからなかったけど。
「青鳥。今日はありがとう」
天宮は目を閉じた。俺の手を握ったまま呼吸を整えている。
何分後にそれが寝息に変わったのかはわからない。
窓の向こうでは、空が傾き始めていた。




