第25話『水曜日、すなわち綾倉夜美デー』
――珍しく夢を見た。それも、ひどく懐かしい夢を。
最寄駅から高校に向かうまでの通学路。
雨の中、傘を差して信号が変わるのを待っていた俺の視界に、車道に傾いていく人影が映った。傘も差さず、車が行き交う道路にふらふらと。
そのとき、走行車のクラクションが鳴り響いた。
「ちょっと! 危ないですよ!」
咄嗟に腕を掴み、歩道へと引き戻す。勢い余って、その人影が俺の胸元に頭を預ける。
「なにやってんすか……!」
そこで初めて自分と同じ学校の制服を着た女子であることに気づいた。同時に、その人が校内随一の有名人であることも。
「……空っぽなんです」
「は?」
「私にはなにもない。演じるだけの時間ばかり、期待に応えるだけの毎日なんです」
語る表情は抜け殻のようだった。
「疲れました。だからもう、壊れてしまいたかったのに……」
当時の俺は先輩の抱える重圧なんて一切知らず、生徒会長をやっていて色々悩みが多いのかな、ぐらいにしか捉えていなかった。
ただ、だからこそ言えたこともあって。
「疲れたなら休めばいいんじゃないですか」
「……はい?」
そのときの先輩は、未知の言語でも聞かされたような呆気に取られた顔をしていた。
「あなたウチの生徒会長ですよね? なにを悩んでるのか知りませんけど、身投げしたくなるほど辛いならボイコットでもした方が健全だと思いますけど」
「なにを言ってるのですか。模範となるべき存在がそのような……」
「つっても所詮は学生ですし。一国の代表でもないんですから、はっちゃけたって誰も困りませんよ」
「で、ですが……私の家は少々特殊でして……弱音を吐くことなど許されるはずが……」
「家柄がなんであれ生徒会長さんは学生でしょ。ってことは子供なわけで、サボったって誰も文句は言わないでしょう」
「サボる……はっちゃける……」
「風邪引いちゃいますし、とりあえず休めるところ行きましょ。俺も今日は学校サボりますから」
高校1年次の夏。雨の日。
それが夜美先輩との始まりだった。
*
窓を叩く雨音で目が覚めた。
時計を見る。朝の7時前だ。
あんなことになっても日常は続いていく。
「はあ……」
体には未だ倦怠感がまとわりついている。当然、そこには罪悪感も。
一晩寝たぐらいで依織との一夜を忘れられるはずがない。忘れるどころか、今この瞬間ですら依織の顔がチラつく。
本当に、どうして欲に負けてしまったのか……。
ああクソ……俺の馬鹿野郎……!
――ピンポーン。
と、自罰的な思考を遮るようにインターホンが耳に届く。
モニターを確認するまでもない。
今日は水曜日。ならば、訪問者の正体など決まっていた。
*
身支度を整えて下に降りる。エントランスの自動ドアが開くと、マンションの屋根下に制服姿の夜美先輩が立っていた。通学鞄と傘を持っている。
「おはようございます、青鳥くん」
「おはようございます。……あれ?」
車が見当たらない。側近である杏子さんの姿もなかった。
「今日は車じゃないんですか?」
「杏子は帰らせました。ここからは歩きです」
「車で来てたなら学校まで送ってもらった方が楽だったんじゃ……」
今日は雨も強い。徒歩で行ける距離になったとはいえ、学校まで大体10分ぐらいかかるわけだし。
「駄目です。それでは青鳥くんとの1日が楽しめません」
先輩が傘を開いて、一歩こちらに近づく。
「恋人同士の登校といえば相合傘でしょう?」
また変なのが始まった……。
「俺たち付き合ってませんけど」
「細かいことはお気になさらず。さあ、入ってください」
「いえ、傘なら自分のが」
手持ちの傘を開こうとすると、先輩は目を細めた。
「私の傘には入れないとでも? 担当日はなんでもしてくれるという話でしたが」
「……失礼します」
「はい。喜んで」
観念して先輩の傘の下に入り、俺たちは並んで学校までの道のりを歩き始める。
肩と肩が擦れ合う距離。雨の匂いに混じって先輩の爽やかな香りが鼻に届く。匂いといえば、昨晩の依織もすごくいい匂いがしたな。
……俺はなにを考えているのか。駄目だ。日常のひとコマを取っても依織の情報が割り込んでくる。完全に思考を浸食されている。
「ふふっ」
俺の内心などつゆほども知らず、先輩はなにやら上機嫌だ。
「機嫌いいですね」
「当然です。また青鳥くんと相合傘をするのが夢でしたから」
先輩はどこか遠い目をしながら言った。
「こうしていると、あの日のことを思い出しますね」
「なんのことでしょう」
「とぼけなくてもいいんですよ。あなたが私を救ってくれた日のことです」
ちょうど信号が赤になって立ち止まる。
先輩は尊ぶような口調で続けた。
「ファストフードを口にしたのも、ゲームセンターで遊んだのも、補導されそうになって逃げたのも……全部全部全部、あの日が初めてだったんです。あなたが初めてだったんです」
当時の俺は、高潔な生徒会長が雨に打たれているのを見て、ちょっとした息抜きになればいいと些細なお節介を焼いただけに過ぎない。他意はなかったし、まして人生を変えてやろうなんて大それた考えは微塵もなかった。
それがまさか、こんな重い執着に繋がるとは。
「俺としては本当に軽い手助けのつもりだったんですけど」
「だとしても、私はそれに救われた。世界が色づいて見えるほどに」
「文学的な表現をしますね」
「だから、なんとしても青鳥くんが欲しい」
「一気に狂気的な表現になったんですが……」
濡れた地面を見つめながら、先輩は自嘲気味に笑った。
「頑張って、頑張って、お母様の期待に応えようと必死になって、綾倉家の名に泥を塗らないよう優秀であり続けて――そんな私が今では留年ですよ? 笑っちゃいますよね!」
からりとした声だった。死のうとしていた過去を笑い飛ばすような、底抜けに明るい。
「留年するほどサボれと言ったつもりもなかったんですけどね……」
「まあ、こうなったも青鳥くんのせいですけれど。私のすべてを壊した責任を、その一生で取ってもらいますから」
重いなぁ……。
ただでさえ依織の件で参っているのにこれ以上の追撃は勘弁して欲しい。メンタルのキャパが崩壊しそうだった。
信号が青に変わる。横断歩道を渡り切ったところで、先輩は足を止めることなく口を開いた。
「ですから青鳥くん、今日は少し学校をサボってみませんか?」
「はい?」
なにを言ってるんだこの人は。制服を着て、鞄を持って、今まさに学校に向かっている最中だというのに。
しかし、先輩は言葉を挟む隙すら与えてくれない。俺の前方に先回りすると、逆らうことが罪であるかのような魔性じみた美笑を浮かべた。
「担当日としての要求です。今からあの日の再現をしましょう」




