第15話『殺意を向けてくるヒロインには』
素っ頓狂な声を上げたあと、心愛はまるで何事もなかったかのようにベッドの上に正座した。どう考えても手遅れなのに。
「お兄ちゃん……。がっ、学校は……?」
心愛は絞り出すように言った。聞きたくないけど聞かずにはいられない、そんな様子だ。
「……色々あってサボった」
「い……、いつから……?」
「…………」
質問の趣旨は、いつから奇行を見られていたのか、だろう。見てたのは抱き枕に体を絡めているところからだが、ラブを叫んでいたところも聞いてしまっているから返答に困る。
いずれにせよ、本当のことなど言える空気ではない。
ただ、沈黙は逆効果にしかならなかった。
「あぁ……」
心愛の口から空気が抜けていく。途端、まるで破裂したみたいにベッドから弾け飛んだ。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……ッ!」
尋常じゃない絶叫と共に、心愛は俺の横を弾丸のごとくすり抜けていった。
「見られた見られた見られた見られたぁっ! お兄ちゃんに……! お兄ちゃんの匂いクンカクンカしてるの見られたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
2階の短い廊下を駆けながら狂ったように叫んでいる。
「おい! 待てって!」
階段を下りていく心愛の背中を俺は追いかけた。
「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬっ……ッ! もう生きていけない! お兄ちゃんに変態だと思われた! 絶対キモいって思われた……! どうしようどうしようどうしようどうしよう……!」
頭を掻き毟っている。しかしリビングに降り立ったところで、心愛の狂乱は不意に止まった。
「あっ」
「心愛……?」
「……そうだ」
ハッと、なにかに至ったように心愛はつぶやく。
そしてキッチンに向かって一目散にダッシュ。
すぐに戻ってきた心愛の姿を見て、俺は心底うんざりしてしまった。
「おいおい……」
銀色に光る刀身。心愛の右手には包丁が握られている。
どうして短時間のうちに2回も刃物を向けられなくちゃいけないんだよ……。
しかも別々の女から。
「もうヤるしかない……」
「心愛、とりあえず落ち着こう。な? 話し合えばわかるから……まずはその物騒な物をだな……」
宥めるように語りかけるが、説得は届かなかったらしい。
「お兄ちゃんを殺して私も死ぬの」
「なんでそうなるんだよ……!」
「そうだよ。そうすれば、あんな変な女たちにお兄ちゃんを渡さなくて済むもん。私だけの、お兄ちゃんになるの。一緒に死のう? ね?」
「だから落ち着けって!」
説得を続けるが、やはり言葉は届かない。
ハイライトの消えた瞳が俺を見据えている。
そして心愛は、包丁をこちらに向けたまま一直線に進行した。
えっ……さすがに冗談だよな……?
そんな、現代人として当然の発想に至るが、一切淀みのない足取りを見て、それが間違いだと悟った。
――本気だ。
「うわぁっ……!」
床を蹴り、心愛の突進をすんでのところで回避する。つい今しがた俺が立っていた空間を、銀色の一閃が奔り抜けていった。
グサリと、包丁はソファーの背もたれに突き刺さる。もし避けるのが遅れていたら、俺の腹部には風穴が空いていたかもしれない。
ヤバい……ヤバいヤバいヤバい……!
夜美先輩ですら俺を殺そうとはしなかったのに……!
心愛が包丁を引き抜く前になんとかしなければ。
「マジで落ち着けって……!」
俺は即座に背後に回り込み、心愛を羽交い締めにした。
「離して! 離してよお兄ちゃん……!」
「いい加減にしろ……!」
拘束から逃れようと心愛が暴れる。
なんつう力だよ……これが火事場の馬鹿力か……。
体重差があるとはいえ、このままだとジリ貧だ。
「あんなところ見られて生きていくなんて無理だよっ……! もうお兄ちゃんのお嫁に行けない……!」
「ぐっ……!」
心愛を抑え込みながら必死に思考を巡らせる。
どうすればいい。どうすればこの状況を打開できる?
ヘラった女に理屈は通じない。それは誰よりもわかっているつもりだ。
この手のやつらに効果的な手段は……。
その刹那、俺は先ほどの出来事を思い出した。
夜美先輩。ヘラった夜美先輩には飴が効いた。
なら、心愛にはどうだ?
心愛が今、喉から手が出るほど欲している飴を与えれば、少なくともこの場は――。
「やだやだやだぁっ! 恥ずかしい! 死にたい! 離してよお兄ちゃんっ……!」
考えている暇はない。殺されないために一か八かだ。
「わかった! わかったから! 添い寝してやるから……!」
「へぇぅっ!?」
あっ、効いた。間違いなく、効いた。
俺は畳み掛けるように追い打ちをかけることにした。心愛が俺の部屋で望んでいたことを、その欲望を的確に突くんだ。
「ぎゅーもしていい! 匂いも……! 匂いも好きなだけ嗅いでいいから! だから殺すとか死ぬとか物騒な話を持ち出すのはやめろ……!」
抵抗が完全に収まる。おそるおそる拘束を緩めると、心愛はゆっくりとこちらを振り返った。
「ほん、とうに……? お兄ちゃんを……ぎゅーして……添い寝まで……?」
強烈な既視感を覚える。抱擁を提案したときの夜美先輩と全く同じ顔だ。
悲しいかな、ウチの妹はあの人と同類というわけか……。
とにかく、今は一刻も早く心愛を包丁から遠ざけたい。
「とりあえず部屋に戻ろう! な? 添い寝するならベッドが必要だろ……!?」
「う……、うん……」
さっきまでの狂乱が嘘のように、心愛は照れ臭そうに頷いた。
俺が腕を引く形で、ふたりで2階の自室へと戻る。ソファに突き刺さったままの包丁は見なかったことにした。
部屋に入る。そのままベッドの縁に座ると、心愛も隣にちょこんと腰を下ろした。
「……本当に、ぎゅーしていいの?」
「あ、ああ……だから、もう刃物とか持ち出すのは――」
俺が言い終わる前にそれは起こった。
「お兄ちゃぁぁぁぁぁぁぁんっ♡♡♡♡♡♡♡♡」
心愛が全体重を預けるように飛びついてくる。俺は背中からベッドの上に転がった。
「あは、あははっ♡♡♡ お兄ちゃんの匂い……♡♡♡ 本物のお兄ちゃんの匂いだぁぁぁぁっ♡♡♡」
俺の胸に頬擦りしながら、心愛は何度も息を吸い込んでいる。
「ずっとずっとこうしたかったの……♡ ずっとお兄ちゃんにこうして欲しかったんだよぉ……♡」
全身全霊で甘える姿は、状況を度外視して考えるなら可愛らしいと思う。だが、つい数分前まで包丁を振り回していた狂気を、俺は忘れることができなかった。
諦観の中、そっと心愛の背中に腕を回す。
夜美先輩といい、今回の心愛といい、なんだか自分の体が底なし沼にハマっていくような感覚がある。
ヘラった女たちに飴を与えて、その場しのぎの平穏を保つ――こんな生活、長く続くはずがない。爆発するのが確約されている爆弾にダイナマイトを積み上げていくような行為だ。
そのときが来たら、俺は一体どうすればいいんだろう……。




