第10話『崩壊する日常』
真夜中の3時。俺はまだ起きていた。
ちっとも眠れなかった。愛用の抱き枕を抱き締めても、どれだけ寝返りを打っても、瞼の裏に浮かぶのは依織の真っ赤な顔だ。あのキスの感触が、舌の感触がまとわりついて離れない。
結局、一睡もできないまま朝になった。
「サボりてぇ……」
体が重い。天宮や先輩との関係だけでも手一杯なのに、そこに依織まで加わったら俺の日常はどうなってしまうのか。
3人の女子に囲まれて――なんて言うと、まるでラノベの主人公みたいだけど、夢のような毎日とは決して言えない。
俺の場合、その全員がメンヘラなんだから。
しかし学生である以上、学校には行かなくちゃいけない。依織と会うのはすこぶる気まずいけど、一生休み続けるわけにはいかないのだ。
着替えを済ませて部屋を出る。廊下で心愛とすれ違った。
「おはよう、心愛」
「――――」
返事はない。目も合わせてくれない。昨日の一件以降、心愛は一度も口を利いてくれなかった。
リビングに向かう。いつもなら心愛が作ってくれた弁当がテーブルに置いてあるのに、今日はなにもなかった。
弁当ボイコットか……。
昼飯は学食で済ませることになりそうだな。
玄関で靴を履く。振り返ると、心愛が階段の上から俺を見下ろしていた。
「行ってきます」
「――――」
外出時にも、やはり返事はなかった。
肩を落としながら、重い足取りで家を出る。
住宅街の細い道を歩く。通勤通学の時間帯だが、この辺りは表通りから少し外れている。人通りも疎らだった。
そんな狭い道で背後から車の走行音。
バンが俺の横を通り過ぎ――はせず、真横で急停車した。
なんだ?
横開きのドアが開く。
「失礼します」
「うわっ! なんだよ!」
スーツ姿の女に車内から腕を掴まれる。抵抗しても、女とは思えないほど力が強い。格闘技の投げ技みたいな手際で車内に押し込まれ、俺は後部座席に転がった。
ドアが閉まる。車が走り出す。
――えっ。
これ、拉致?
朝の路地裏で白昼堂々と拉致?
俺の家、そんなに金持ちじゃないと思うんだけど……。
体を起こすと、後ろから聞き覚えのある声がした。
「ご機嫌よう、青鳥くん」
一番後ろの後部座席に、優雅に足を組んだ夜美先輩が座っている。制服姿だ。
この人の仕業か……。
横目でスーツの女を見る。完璧な無表情だ。この状況にも微動だにしていない。ボディーガードかなにかだろうか。
「なんの真似ですか、これ」
「まあまあ。そう警戒なさらず」
先輩は手をひらひらと振った。
「安心なさって。悪いようにはしませんから」
「いや、すでに十分悪いことしてますけど。これ拉致ですよね?」
「人聞きの悪い。ただの送迎です」
「送迎で人を無理やり車に引きずり込みますか?」
「緊急事態でしたので」
先輩の表情が真剣になる。
「昨日のこと、まだ整理がついていないでしょう?」
「それは……まあ……」
今まで依織から好意を向けられていることも気づいていなかったのだから、たった一晩で整理などつくはずもない。
「私もです。一晩中考えていました。どうしてあんなことになってしまったのか」
先輩が胸元に手を当てる。
「そして、ひとつの結論に達しました」
「結論?」
「青鳥くんは優し過ぎるのです。誰にでも優しくするから勘違いされるのです。昨日の音塚さんもそう。青鳥くんの優しさを、特別な好意と誤解してしまったのでしょう」
「でも、俺は普通に生活してるだけで」
「――だから」
相変わらず人の話を聞かない。
先輩は真っ直ぐに俺を見据えながら言った。
「これからは、私だけに優しくしてください」
「は?」
「他の女には冷たく接して、私だけに優しく接する。そうすればもう、誰も勘違いはしません」
なにを言っているんだこの人は。
俺は去年から何度も伝えている言葉を、ここでも口にした。
「先輩を恋愛対象としては見れません」
「付き合ってしまえば、それも変わっていきます」
「だから、そもそも付き合えないって何度も……」
人間関係にお試し期間など存在しない。サブスクじゃあるまいし、夜美先輩との契約となると解約も簡単ではないだろう。
「慣れます」
「慣れの問題じゃ」
「大丈夫です。私が青鳥くんを幸せにしますから。――杏子」
先輩が、俺の隣に座るスーツ姿の女に合図した。
「お願い」
「はい、お嬢様」
途端、杏子と呼ばれたスーツの女が素早く動いた。狭い車内で、俺はあっという間に組み伏せられてしまう。
「ちょっ……! なにを!」
「申し訳ございません」
顔を上げたところで、湿った布が視界に入る。
まさかこれ、映画とかでよく見るアレじゃ……。
「んむっ……!」
鼻と口が布に覆われる。
「んーっ! んんーっ!」
必死に抵抗するが、女の腕はビクともしない。プロだ。この人、絶対なにかのプロだ。夜美先輩、一体どこからこんな人を……。
意識が朦朧とする。視界がぼやけて、体から力が抜けていく。
「おやすみなさい」
頭を撫でられている。夜美先輩の手だろうか。
……どうして俺の周りにはまともな女がひとりもいないんだ。
その思考を最後に、意識は闇の中へと沈んでいった。




