第二話・清水寺雨夜・何度も死んだ女(三)
清水坂の中ほどに並ぶ店は、花見小路に比べるとずっと静かだ。
その湯豆腐屋の軒先には、少し古びた木の看板がぶら下がり、「ゆどうふ」の文字が雨に打たれて色を落としている。入口の風鈴が風に揺れて、澄んだ金属音を二、三度鳴らした。
劉立澄は傘をたたんで店に入る。ドアの向こうは暖房がきいていて、豆腐と昆布の香りが一度に押し寄せてきた。
店内は広くない。小さな卓が四つ。窓際の席は空いていて、隅には旅館へ戻る前らしい夫婦が座り、明日の予定を変更すべきか小声で話し合っている。
「いらっしゃい。」
カウンターの奥で手を拭いていた中年の店主が顔を上げ、彼を一目見た。
「湯豆腐定食でいいかい?」
「湯豆腐だけで。小鉢を少し。」
劉立澄はそう答えた。
やがて、浅い口の鉄鍋が一つ、卓に置かれる。
白い鍋の中では、一口大に切られた絹ごし豆腐が乳白色の湯に浸かっている。湯の表には、細かく刻んだ葱と柚子の皮が数片、浮かんでいる。脇には小皿に入った醤油、ポン酢、胡麻塩。
湯は、かすかに泡を立てながら温度を保ち、豆腐の角は揺れもしないほど静かに震えていた。まるで目を覚ましたばかりの何かみたいに。
まず、レンゲを湯に差し入れ、一口すくってすすぐ。
昆布の旨味は、主張しすぎず、底に敷かれた掛け布団のように、湯の温度を柔らかく支えていた。塩気はぎりぎり「水ではない」と舌に思い出させる程度に抑えられている。
次に、豆腐をそっと箸でつまむ。
白さは濁りなく、角は崩れていない。火加減が的確な証拠だ。一口かじると、歯はほとんど抵抗なく豆腐を切り裂き、その瞬間、豆の甘みを含んだ熱い湯気が口の中に広がる――油揚げのように前に出過ぎず、冷奴のように味気ないわけでもない。ただひたすら、「濡れた身体をこの世側に引き戻す」ことに徹した味だ。
「うまいだろ。」
店主は、彼の表情を見てふっと笑う。
「ここは、雨にやられた人のためにやってるようなもんだからな。」
「……そうだな。」
劉立澄は、豆腐を飲み込みながら言う。
「失敗に打ちのめされた人間にも、よく効きそうだ。」
店主の笑みが、ほんのわずか揺らいだ。
「あんたも役者なのかい? それとも……あの子と同業か。」
「ただの通りすがりだよ。」
彼は湯匙を皿のふちに置きながら答える。
「西木屋で聞いた。最近、ここでよくぼんやりしてる女の子がいるって。」
店主は小さくため息をついた。
「ああ、一ヶ月くらい前から来てる子だ。近くの安宿に泊まって、あっちこっちオーディション受けてるんだと。昼間は姿を見ないけど、夕方になると清水さんのほうを何度か見に行って、夜になるとあの石段に座る。」
彼は指で、店の外側を示す。
「最初のうちは、きちんと湯豆腐の定食を頼んで、うまそうに食べてた。だんだん食べる量が減っていって、最後のほうはお茶か、一番安いつけものだけ。顔色があまりに悪い日があって、何度かタダで豆腐おまけしてやったよ。」
「それから?」
「そっからだ、へんな夢を見るようになったのは。」
店主は声をひそめる。
「うちのかみさんが先に気づいたんだけどな。あの子が店の前の石段を上ってるのを、何度も見たんだ。ある夜、急に顔色が変わってさ、欄干の手すりをものすごい力で握ったらしい。今にも落ちそうな感じで。でも、しばらくすると、何事もなかったみたいに立ってる。」
そこで一拍置き、店主は少し迷信じみた表情を浮かべた。
「一度なんか、オレにははっきり、後ろにすべって落ちるのが見えた。あわてて外に飛び出したら、本人はちゃんとそこに立ってて、靴だって動いてない。ただ、顔だけが豆腐みたいに真っ白でな。」
「本人は?」
「『夢を見てたみたいです』って。」
店主は答える。
「清水の舞台から転げ落ちて、何度も何度も死ぬ夢。どこをどんなふうにぶつけて、どの骨が折れたかまで、はっきりわかるのに――目を開けると、何も起きてない。」
彼は卓上の湯豆腐を見つめ、複雑な思いが入り混じったような顔で息を吐いた。
「その表情ってのが、実際に怪我してる人よりずっときつそうでね。うちのかみさんは、『本番前に監督に何十回も怒鳴られて、それでも舞台には笑って出ていかなきゃいけない役者』みたいな顔だって。」
「今日も来たのか。」
「さっき、上の方へ上ってった。」
店主は窓の外を見る。
「雨も強くなってきたし、今日はさすがに宿に引き上げると思ってたんだけどな。」
「いい湯豆腐を出す。」
劉立澄は立ち上がり、代金をトレイに置いた。
「少なくとも、本当に死ぬ前に、“失敗してない味”を一つ覚えられる。」
「おい、縁起でもないこと言うなよ。」
店主は苦笑いを浮かべた。
「あんた、西木屋の人間に聞いたが、“中華道士”なんだってな……。もしあの子をうまく説得できたら、次はタダで食わせてやるよ。」
「そのときにでも。」
劉立澄は、そう言って戸を押し開けた。
雨が顔に打ちつける。さっき口に含んだ豆腐の塩気が、舌の脇にうっすら残っていた。
彼は傘を握り直し、坂を上る。一歩上がるごとに、足裏から「この道は今日、何度も“死ぬ稽古”に使われた」という確かな感触が伝わってくる。




