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京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂  作者: 柳澈涵


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第七話・京都駅・ナビゲーションされる人生ルート(三)

 「思ったより来るのが早いね。」


 高い位置の空中回廊には、すでにひとりの男が立っていた。


 後輩が無事、八条口へ向かうエスカレーターに乗り、その背中が最後にガラス越しに流れるように通り過ぎたとき、劉立澄は顔を上げ、その男を見た。


 ありふれたスーツ姿。そこに「交通行動研究員」と書かれた名札の下がった社員証。


 一見すれば、どこかの調査会社から派遣されてきた、駅構内でアンケートでも取っていそうな調査員だ。


 昼間なら、ここに立っていても誰も不思議には思わないだろう。


 せいぜい「人流解析のプロジェクトでもやっているのだろう」と思うくらいだ。


 今、彼は片手を手すりに置き、もう片方の手をポケットに突っ込んでいた。


 ガラスの隙間から吹き込む雨まじりの風が、彼の周りで小さな渦を巻く。


 「地下街で、僕らの『サンプルルート』を弄ったね。」


 彼は見下ろしながら言った。


 まるで、誰かが研究データを勝手に書き換えたのを指摘する研究者のように、淡々とした声だった。


 「礼儀がなってないよ、劉さん。」


 「そっちこそ、地下街で『出て行きたい人間』を素材扱いしている。」


 劉立澄は、上へ通じる階段を一段ずつ登り始めた。


 中央大階段の灯りは、一段登るごとに視界を少しずつ広げてくれる。


 地下街、コンコース、駅ナカ店舗、改札――それらが層を成して重なっていく。


 人の流れは、幾筋もの河のようだ。


 その河の背後で、ぬるりと蠢くものがひとつ。


 ――それは、人の流れの軌跡に書き込まれた術式。


 「僕らは、誰彼かまわずを対象にしているわけじゃない。」


 スーツの男は言う。


 「僕らが観測するのは、『本気で逃げ出そうと決心した人間』だけだ。」


 彼は口元だけで笑ってみせた。


 その笑みは、研修で覚えたような、マニュアルどおりの柔らかさを持っている。


 「君もよく知っているだろう。この街には、彼らを引き留めておく力なんて、ほとんど残っていない。」


 「でも、彼らの『逃走パターン』がきちんと記録できれば、今後のコントロール計画にとって――非常に価値がある。」


「誰をコントロールするつもりだ。」


「『自分で決めているつもり』でいる人間たちだよ。」


男はメガネを押し上げた。


その一瞬、シャツの袖口から覗いた手首に、薄い金属カードがバンドに挟まれているのが見えた。形は普通の交通系ICカードに似ている。だが表面には何も印字されておらず、縁を小さな光がかすかに走っている。


あれはただの入館証ではない。


ある種の「経路権限」だ。


「君の前の担当者は、伏見稲荷で狐たちを本気で怒らせた。」


劉立澄は、最後の数段を登り切り、男と同じ高さの空中回廊に立った。


空中回廊には壁がなく、透明な柵だけがある。


ガラスには無数の雨粒が張り付き、街の灯りを細かく砕いていた。


「そのまた前の担当者は、京大で人格実験をやりかけて、集団事故寸前まで行った。」


「ひとりずつ帳簿付けしてるなんて、律儀だね。」


男は小さく口笛を吹く仕草をした。


「感心するよ。」


彼は視線を下の人波へと滑らせ、次に駅構内の巨大スクリーンを見た。


スクリーンには、列車情報が延々と流れている。


発車時刻、到着時刻、遅延のアナウンス、乗り換え案内。


ひとつひとつの行の後ろに、極細の線が尾を引いていた。


それらの線は、スクリーンの裏でひとつの光点に集まり、それから上方――


この駅のはるか上空にある、かすかな裂け目へと伸びていく。


「伏見稲荷では、僕らの一つのプロダクトラインを断ち切った。」


男は続ける。


「京大では、人格コピーのテストを途中で止めてしまった。」


「だから『経路修正』を始めたわけか。」


そう言った瞬間、駅構内にアナウンスが響いた。


『……お客様にご案内いたします。線路点検のため、○○方面行き新幹線に二十分ほどの遅れが出ております。すでにご入場のお客様は、しばらくコンコースでお待ちください。』


聞こえてきた声は、ごく普通の放送だ。


だが、そのアナウンスのあとで、地下街やコンコースにいた何人かの動きが、同時に変わった。


改札を抜けようとしていた人が、突然足を止め、「もう少し何か買ってこよう」と売店に引き返す。


改札を通ったはずの人が、なぜかもう一度外へ出てきて、「ちょっと考え直そう」と引き返す。


ホームに向かっていた人が、スーツケースを持った手を緩め、ぐるりと向きを変え、人の多い方へと押し戻される。


さっきエスカレーターに乗った彼の後輩の周りでも、同じようなことが起きていた。


それは、あからさまな催眠ではない。


彼らの心の奥底にあった迷い――「本当に出て行っていいのか」「やっぱりやめた方がいいんじゃないか」――その部分に、そっと指先で圧をかけただけだ。


ただ、その「ひと押し」があればこそ、彼らの歩みは簡単に軌道から外される。


「手首をちょっと動かすだけで、放送経由で人の決心を上書きできるわけか。」


劉立澄の声は淡々としていた。


「違うね。僕らは何も変えてない。」


男は笑った。


「僕らは、もともとそこにあった想いを、少しだけ増幅しているだけさ。」


彼は手首を持ち上げ、金属カードをはめた腕を空中で軽くなぞった。


駅のスクリーンに映る路線図が、一瞬だけにじむ。


すぐに元どおりに見えるようになる。


だが劉立澄には、いくつかの線の色が変わったことがはっきり分かった。


一般向けに開かれた路線色ではない。


「内部用」の暗号色。


その路線は、駅のあらゆる出口から、じわじわと収束していった。


中央大階段の下――地下街とホームのあいだにある、細い分かれ道へと。


「誰を『ここに』留めるのかは、そこで決まる。」


男は低く言った。


次の瞬間、人の流れは微妙に偏り始める。


全員ではない。


「もしかして、出て行くのは良くないのかも」「わがままなんじゃないか」「もう一年だけ我慢すればいい」


――そういう思いが、本心のどこかに刺さっている人だけが。


見えない磁力に吸い寄せられたように、足を運ぶ。


案内板の矢印と、アナウンスと、たった二十分の遅れ情報に導かれながら、一歩ずつ、その細い分岐へと。


「ここで、どんな実験をするつもりだ。」


「単純さ。」


男は答えた。


「人間がどこまで歩けば、『もう逃げなくていい』と完全に諦めるのか――それを知りたい。」


彼は首を傾け、下の分かれ道を見下ろす。


そこは、本来なら駐車場とタクシー乗り場へと続くだけの、目立たない通路だ。照明はやや暗く、たまに忙しそうなサラリーマンが早足で通り抜けていく。


今、その通路は、術式による微調整で、そっと引き伸ばされている。


床のラインは細く伸び、天井の灯りは実際より遠く見える。


中を歩く者にとっては、一歩進むごとに時間が削られていくように感じられるだろう。


「ぼくらは、『ありふれた通勤ルート』の内側に、どれだけの制御指令を書き込めるかを試している。」


男は首をかしげ、笑みを浮かべたまま、劉立澄を見た。


「分かるかい? 『逃げようとする人間』ほど、理想的なサンプルはないんだ。」


ガラスのドームを叩く雨音が、さっきより少し強くなった。


劉立澄はそれ以上、彼を見上げなかった。


視線は、下に伸びる引き伸ばされた通路へと落ちていく。


彼の目には、その通路はもう普通の灰色の廊下には見えていない。


一筋、無理やり真っ直ぐにされた線として映っている。


駅の内部の、とある一点から伸び、街の外の、さらに大きな術式へと繋がる線。


その終端は、この街の龍脈にひび割れを入れている裂け目の一つに掛かっていた。


「時刻表を、陣の目盛りがわりに使って。」


彼は低くつぶやいた。


「人の足を、テスト変数にしている。」


男は片目を細めた。


「やっぱり、君はよく分かってる。」


心から感心しているような口ぶりだった。


「だからこそ、『上』が君に興味を持っている。」


「『上』?」


「そのうち、嫌でも目にするさ。」


男が手首を上げると、金属カードが、小さな「ピッ」という音を立てた。


次の瞬間、中央大階段の灯りが一斉に落ちた。


完全な暗闇ではないが、色温度が急に冷たく切り替わる。


駅中の電子スクリーンが一斉にちらついた。


刹那、すべての列車の発車時刻が「まもなく発車」に変わる。

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