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京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂  作者: 柳澈涵


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第六話・京都大学・複製人格の講義室(二)

 午後の医学研究科の建物は、空気の張りつめ方が少し違っていた。


 一階のロビーには、最新の研究プロジェクトを紹介するパネルが並び、ガラスケースの中には、精密機器のミニチュア模型がいくつも展示されている。廊下を、白衣を着た人々が足早に行き過ぎていく。靴底と床の擦れる音にさえ、どこか急いた調子が混じっている。


 「劉さん。」


 脳科学の講義を担当している准教授の一人が、廊下の角で彼と出くわし、プロフェッショナルで礼儀正しい微笑を浮かべた。


 「今日も聴講かね?」


 「はい。」


 劉立澄は軽く会釈し、「科目等履修生」の聴講証を上着のポケットから取り出して、ひらりと掲げて見せた。


 「先日お話しされていた、前頭葉の賦活と衝動抑制のタイムラグについて、少し資料を当たってみました。その上で思ったのですが、あの実験群のデータは、少し……」


 彼は言葉を選ぶようにして、短く間を置いた。


 「きれいすぎるように思います。」


 准教授は一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。


 「綺麗なデータを見たらまず疑う──若い研究者には大事な習慣だね。」


 それ以上踏み込んだ説明はせず、彼の肩を軽く叩くと、そのまま三階の角へと姿を消した。


 劉立澄は、その背中が視界から消えるのを見届ける。


 代わりに、別の側の階段を一人で上っていく。


 三階と四階のあいだ、ちょうど「三階半」に差しかかったあたりで、彼の足がふっと止まった。


 心理実験室へと続くあの廊下は、彼の目には、普通の階段よりいくぶん長く見える。


 物理的な長さが変わったわけではない。


 時間の質感の方が、引き伸ばされているのだ。


 照明の明るさは、数値上はきっと定格通りだろう。天井には、温かみのある黄色い灯りが一つひとつ、何事もなくぶら下がっている。床は丁寧に磨かれていて、靴音もはっきり響く。


 それでも、あの廊下には、妙な「余韻」がある。


 誰かがここで泣き、笑い、崩れ落ち、それを無理やり拭い取った──そんな痕跡が、目に見えない残滓となって、空気の隙間にこびりついているかのようだった。


 彼は廊下の入口に立ち、突き当たりの「人格投射実験室」と札の掛かった扉を見やった。


 扉は固く閉ざされ、横の表示板には「実験中につき立入禁止」と記されている。


 表示板の縁に、ごく細い擦り傷が一本、走っていた。


 鍵や爪でつけるような傷ではない。


 もっと別の、目に見えない刃先が、そこを一度なぞっていったかのような、ほんのわずかな「この建物には本来ないはずの文様」だった。


 彼はその細部を視界に収めると、踵を返した。


 今日ここで扉を叩く番ではない。


 見なければならない「もう一つの角度」がある。


 夕刻、法学研究科側の古い校舎では、教育学部よりもいくぶん刺すような明かりが灯っていた。


 法哲学と犯罪心理の合同講義は、やや手狭で年季の入った講義室で行われている。壁には、何十年も前の法改正案の草案が貼られ、黒板には、事件番号や判例のキーワードがびっしりと書き込まれていた。


 老教授は厚い老眼鏡をかけ、資料をめくりながら言う。


 「……当時、この事件で弁護側は、被告には典型的な解離性同一性障害──いわゆる多重人格──があると主張した。」


 彼はチョークで黒板をこつこつと叩いた。


 「問題は、法律が『人格が切り替わったから責任は取れない』という主張を認めるべきかどうか、だ。もし、心の中の別の名前に罪を押しつけることを許してしまえば、これから先、誰もが『あれは本当の私じゃない』と言い張るようになる。」


 教室には笑いが起こり、頷く者もいれば、眉をひそめて考え込む者もいる。


 後ろの席に座る劉立澄は、判例の番号をノートに写しながら、ふと教室後方の資料棚に目をやった。


 そこには、古い紙のファイルがいくつも鍵付きで収納されている。


 その中の一束だけ、ファイルの縁に、先ほど医学研究科で見かけたものに似た、薄い符の線がかすかに刻まれていた。ただし、こちらの方がずっと古く、ほとんど褪せかけている。


 「人格矯正」「実験的治療の事故」「責任の所在不明」──そういった文字が、少し時代の古さを感じさせる書体で印刷されている。


 他の人の目には、これは過ぎ去った歴史の一ページにすぎない。


 彼の目には、それが細い糸のように見える。何十年も前から今日まで伸び続け、その一端は、今まさに自分がいるこの教室に絡みつき、もう一方の端は、あの「人格投射実験室」と書かれた部屋の扉へとつながっている。

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