第4話 灯りの芯
寒くなってきましたね。作者は寒さがとても苦手なのでデバフがかかってしまいます。
こういう時には赤味噌の味噌汁をズズズと飲みたくなるもんです。
その夜更け、囲炉裏の部屋に戻ると、雪乃さんが火の前に座っていた。
僕らが入るのを待っていたみたいに、視線がすっと上がる。
「……さっきは、少し強く言いすぎたわ」
その一言は、意外に早く来た。
「私は宿を守ることで、しか守れないと思ってきたの。あの子を、村を。だから、夢に良い顔をしてあげられなかった」
雪乃さんは火を見た。火はただただゆれていた。
「でも、あなたが泣くのを見たのは、久しぶりだった。小さいころだって、泣くところをあまり見せない子だったから」
真白は俯いたまま、小さく肩を寄せてきた。
雪乃さんは、すぐには言葉を続けなかった。
囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てた。
しばらく、火の揺れを見つめたまま黙っていた。
怒っているわけでも、考えをまとめているわけでもない。
ただ、言葉を選んでいるようだった。
「…真白」
低く、落ち着いた声。
「あなたが絵を描いていること、知らなかったわけじゃない」
「気づかないふりをしていただけ」
真白の肩が、わずかに強張る。
「だって、私はそれを受け入れて、止めるか、許すか、
どちらかを選ばなきゃいけなかったから」
雪乃さんは顔を上げ、真白を見た。
その視線は厳しくも、逃げてもいなかった。
「あなたが"描きたい"と思っていること。
それが嘘じゃないのは、わかった」
真白は息を呑む。
「でもね」
雪乃は続けた。
「わかった、とは言えない」
囲炉裏の火が、静かに影を揺らしていた。
「宿は、あなたの遊び場じゃない。
この村も、あなたの気持ちだけで回っているわけじゃない」
少し間を置いてから、静かに言った。
「だから今は、決めない」
「認めるとも、否定するとも、言わない」
真白が顔を上げ、雪乃さんを涙目で見つめる。
「どちらも中途半端にしない覚悟があるなら」
「それを、行動で見せなさい」
真白はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「…逃げない」
「逃げないで、ちゃんと考える」
雪乃はそれ以上何も言わず、炭を整えた。
「今日は、もう休みなさい。明日も早いわ」
そう言って、立ち上がる。
ふすまが閉まる音が、静かに残った。
―――救われたわけじゃない。
でも、拒絶されたわけでもない。
真白は、自分で選ばなければならない場所に、
はじめて立たされたのだと感じていた。
ーーー
翌朝は、いろんな音がよく聞こえた。
味噌汁がひとつ泡を立てる音。帳面をめくる紙の擦れる音。外の雪が屋根から少しだけ落ちる音。
「……手伝ってくださるなら、灯りの芯を巻くのをお願いできる?」
「芯?」
「灯りは灯りでも、うちのは火じゃなくて人の手で灯すのよ。手間をかけると、いい顔になるの」
この村にとって灯りとは、祭りとして記念になっているぐらいには特別な意味を持つらしい。
午前は、玄関先で雪を解かし、客間のインテリアを整え、壊れかけの傘を縫い、炭を運び……と、見よう見まねで体を動かした。
真白は納戸から見つけてきたスケッチブックを抱え、縁側に座っていた。
薄い紙に、鉛筆の跡が重なっている。
宿の裏道、煮え立つ鍋、水屋の桶、母の横顔。描線は幼いが、どこか迷いがない。
「ねえ、これ見てください」
真白が一枚を僕に渡す。
それは、夜の囲炉裏と、そこに座る二つの影を描いた絵だった。
「これ、たぶん……小さいころ、私が眠くてふらふらしながら描いたやつ。炎の色、上手に出せなくて、黒く塗ってる」
「でも、光はちゃんとある」
「うん。不思議だよね。黒いのに、光って見える」
僕は返す言葉を探しながら、その紙の上の光を眺めていた。
ーーここは、黒いのに、光って見える。失ったものの輪郭をなぞって、手元に残るものが確かにある
「描いていい?」
真白が新しいスケッチブックを開く。
「ここで?今?」
「うん。今、描きたい。今の宿、今の私。——それから」
彼女は照れたように笑って、僕の手元を指した。
「今の雪也さん」
「顔のいいところ、選んで描けよ」
「うーん……じゃあ、がんばります」
「努力目標か」
「でも、格好をつけてる人ほど描きづらいんだよね。動かないでください」
「注文が多いな」
鉛筆が紙の上を走る。軽い音だ。
真白は時々、顔を上げて僕を見る。
そのたびに、絵の中の線が一本増える。髪に、手に、影に。
窓の外では、相変わらず雪が降り続いていた。音もなく、白だけが増えていく。
描き終えて、真白は満足そうに頷いた。
「できた」
僕は紙を受け取る。そこには、少し背筋の伸びた自分と、隣で鉛筆を持つ彼女と、奥で火が揺れる囲炉裏が描かれていた。
不格好な線なのに、なぜか胸が熱くなる。
「……ありがとう」
「こちらこそ。描かせてくれて」
そのとき、廊下の向こうから雪乃さんの声がした。
「真白、昼の仕込み、手伝って」
「はーい!」
返事が明るい。
立ち上がる前に、真白はもう一度、窓の外を見た。
「ねえ、雪って、音がないのに、降る音がするよね」
「わかる気がする」
「私、それを描きたい」
彼女はスケッチブックを抱える。
「宿の仕事、がんばる。絵も、がんばる。
……ちゃんと、向き合う。」
「逃げないって言ってたからな」
「うん。逃げない」
笑顔が、白に反射する。
その笑顔は、昨夜より少しだけ大人で、昨日より少しだけ自由だった。
昼の忙しさに流され、夕方になった。
女将は帳面を僕に見せ、数字の意味を教えてくれた。
驚くほど丁寧で、驚くほど実直な仕事。手間をかけることでしか、手触りは残らない。
「灯りの芯の話、覚えてる?」
雪乃さんがふいに言う。
「はい。手間をかけると、いい顔になる」
「そう。灯りだけじゃないのよ。宿も、人も、ね」
それは、叱責ではなかった。教えでも、命令でもなかった。ただの事実として、僕の胸に残った。
夜になって、外から人の声が増えた。
村の誰かが、明日の準備の相談に来ているらしい。
祭りは近い。灯りは、もうすぐたくさん灯るのだと知る。
僕は縁側に立ち、白い夜を見た。
背後から、小さな足音が近づく。
「寒いですよ」
真白が肩に毛布を掛けてくれる。
「寒いのは寒いままで、今はそれでいい気がする」
「詩人みたいなこと言いますね」
「ここはそういうところなんだろ、たぶん」
「うん。そうかも」
沈黙が、しばらく同じ形で続いた。
互いの息が白く並んで、少しずつ薄くなっていく。
「ーーーねえ、雪也さん」
真白が小さな声で言う。
「来てくれて、ありがとう」
「勝手に迷い込んだだけだ」
「それでも。私…ここにいて、ちゃんと戻ってこれた気がするの。変な言い方だけど」
「変じゃないよ。わかる」
僕はそう言って、毛布の端を少しかけてあげた
肩と肩が、毛布の中で触れた。
世界は冷たいのに、僕らの周りだけがゆっくり温かくなる。
遠くで、誰かが笑った。誰かが戸を閉める音。
小さな生活の音のひとつひとつが、確かにここにある。
ーーーこの温かさを、僕は知っている気がする。
真白が、肩にもたれてきた。
「眠い?」
「……ちょっと」
「毛布、もう少しどうぞ」
「はい。……寒さのせいです」
「それはもう、言い訳にならないだろ」
「寒さのせいです」
「……そうか」
雪は、絶え間なく降り続いていた。
明日はもう少し賑やかになる。灯りの準備も、きっと忙しい。
でも今はまだ、火と灯りと、毛布と、二人で十分だった。
僕は欲しがるばかりの手を、少しずつ与える形に覚え直している。
それを教えてくれたのは、泣きながら笑った彼女だ。




