SETSUKA ー プロローグ
白い靄がかった記憶に小さな少女が浮かんでくる。
「…小春」
その少女は、見下しているのか、"嫌だと強烈に訴えるかのような" 目つきで僕を見ていた。
そして、その少女は大人に連れられ、僕は一人ぼっちになった。
あの光景が、ずっと頭から離れない。
気づけば、天井の染みが目に入っていた。
冷たい空気に包まれたリビング。時計の針の音だけが、やけに大きく響いている。
一人ぼっちのリビングはより一層暗く見えてしまい、気分が沈む。
父も母も帰ってこない。慣れているはずなのに、雪也の胸の奥はいつもよりひどく空っぽに感じられた。
部活をさぼって帰ってきて、ふと眠りに落ちてしまったらしい。
夢の中で、小春を思い出していた。
姿は霞んでいるのに、笑顔だけは鮮明に残っている。
「雪也くんの笑顔が一番好き」
幼い日の声がよみがえるたび、胸がきゅっと縮んだ。
無意識にため息を吐いたとき、床に散らばる郵便物の中から、一枚のチラシが目にとまった。
~~雄大な景色が見れる、雪花村へようこそ~~
雪に包まれた宿、囲炉裏、湯気の立つ露天風呂。
どこにでもある田舎の観光案内のはずだった。
それなのに、その「雪花村」という文字に、雪也は妙に引き付けられた。
なぜだろう。
僕はこの村に行きたくて、頭の中のイメージと重ねてみたくて、しょうがなかった。
「よし、行こう。」
自分でも決断の思い切りの良さに驚いている。
でもただいまは、逃げ出したくなるようなこの圧迫感のある環境から逃げたかった。
そう口にした自分の声に驚きつつも、心はもう決まっていた。
週末。
荷物をまとめ、誰もいない家をあとにした。
新幹線で移動し、地図にもろくに載っていない山奥行きのバスに乗り込む。
車内には雪也と老夫婦だけ。
運転席に座る男の顔は、ミラー越しに見えるのにぼやけてよく分からない。
古びた車体はきしむように揺れ、窓の外には、降り止む気配のない雪が舞っていた。
ずいぶんと長い時間がたったような気がする。
雪也は眠くなってきてうつらうつらとなっていた。
やがて、バスは音もなく停まった。
運転手が「ここだよ」と声をかけたように思えたが、顔を向けた瞬間にはその姿は霞んでいて、よく見えなかった。
ドアが開き、冷たい空気が雪也の身体を包む。
吐いた息が白く曇り、一歩踏み出すと靴の裏がきしんだ。
周囲は静寂とした何もない白い世界が広がっている。遠くにぽつんと家のようなものが見えるだけ。
「花月館はどこにあるのだろう」
特に連絡もしていないが、何とかなるだろうと気楽に考える。
「雪が積もっている、雪也...か。おもしろい」
雪也は、頭の中には次々とアイデアが浮かんでくるタイプで、常識ではおかしいことも、さも当たり前のように話すことができる。
何が面白いのかわからない時があるが、よく考えたら負けである。
そして人は世の常識から外れた時点で”変わった人”になるのが決まっている、否、僕はそうなりたくはないが。
一人で自分の名前と重ねて気持ち悪く笑った。
雪が強く吹き付け、やがて前も見えなくなった。
傘など持ってきていない。どうせ服は濡れるのだから。
極寒の土地で服が水を吸い、風に吹き付けられると、全身から体温が吸い取られていく感覚に襲われる。
足をとられて転んでしまい、雪也はぎゅっと目をつぶった。
そっと開いた視界の先には、淡い光に照らされた古民家が見える。
「きっと人がいる。あれが花月館なのか……助かった。寒い。」
胸が高鳴り、雪也は小走りでその古民家の宿に向かった。
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古民家には「花月館」の表札が掲げられていた。
木彫りの彫刻が施された玄関。すりガラスの向こうには、まだ灯りの気配がなかった。
雪也が取っ手に手をかけた瞬間、すりガラス越しにふっと明かりがついた。
やがて人の影が近づき、扉が開く。
「いらっしゃい!お待ちしておりました。雪もひどいでしょうに、早く入ってください」
出迎えたのは、仲居姿の同い年くらいの少女だった。
ぱっとした明るさと人懐っこさが、声と仕草から伝わってくる。
雪也は、その天然さを感じさせる調子に、思わず苦笑した。
案外しゃべり方で予想がつくものだ。
少女は「花月館」と刻まれた表札の横を通り過ぎると、迷いのない足取りで館の奥へと進んでいった。
「こちらへどうぞ」
雪也はその少女を追い、和室へと案内される。
「ここが雪也さんのお部屋になります。今は女将は不在なのですが、もうじき戻りますので」
少女はそう告げると、ふすまを静かに閉めて出ていった。
残された和室は、祖父母の家を思い出させるような懐かしい空気に包まれていた。
畳の香りが心地よく、張りつめていた胸の奥がふっと和らぐ。
雪也は、どっと押し寄せた疲れに抗えず、そのまま畳の上に身を投げ出した。
目を閉じると、遠くで雪の音だけが響いていた。
しばらく畳の上で目を閉じていた雪也は、ふすまの向こうから聞こえてきた足音に気づいた。
ぱたぱたと軽やかな足取り。やがて、勢いよくふすまが開く。
「失礼します!」
顔をのぞかせたのは、さきほど玄関で迎えてくれた少女だった。
にこりと笑みを浮かべ、雪也の前にちょこんと座り込む。
「改めまして、私、この花月館でお手伝いをしてる真白っていいます!」
その声は澄んでいて、雪の冷たさを和らげるような温かさがあった。
雪也は思わず姿勢を正し、少し戸惑いながらも名を名乗った。
「…山口雪也です。よろしく」
「雪也さん!名前まで雪で始まるなんて、すごい偶然ですね!」
真白は手を叩いて楽しげに笑う。
その無邪気さに、雪也の胸の中にあった重さが、ほんの少し軽くなるのを感じた。
「外は大変でしたでしょう? あんな吹雪の中を、よくここまで……」
「まあ、なんとか。途中で倒れそうになったけど、灯りが見えて助かった」
「ふふっ、やっぱり花月館が呼んだんですね。ここって、不思議と”来る人が決まってる”んです」
「来る人が決まってる…?」
雪也が聞き返すと、真白は意味ありげに微笑んだ。
けれどそれ以上は何も言わず、立ち上がって軽く手を合わせ、口をぎゅっとつむんだ。
「じゃあ、お夕食の準備をしてきますね! 雪也さん、ゆっくり休んでいてください」
そう言い残して、ふすまを閉める。
再び訪れた静けさの中で、雪也は先ほどの言葉が頭に残り続けていた。
“来る人が決まってる”――。
それはただの冗談なのか、それとも…。
しばらくすると、ふすまの向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
がらりと開いた扉の隙間から、真白が顔をのぞかせる。
「雪也さん!お待たせしましたー!ご飯できました!」
元気よく入ってくると、両手に大きなお盆を抱えていた。
その上には湯気の立つ鍋や山菜料理が並んでいる。
「わっ、重い…! でも大丈夫です!……あっ!」
バランスを崩し、お盆がぐらりと揺れる。
思わず雪也は立ち上がったが、なんとか真白は踏ん張って持ち直した。
「ふ、ふふ…!今のは見なかったことにしてください!」
照れ笑いしながら、お盆を卓に置く。
湯気がふわりと立ち上り、部屋いっぱいに香ばしい香りが広がった。
「すごい…、これ、全部あなたが?」
「いえいえ!私、包丁は危なっかしいので…、切るのは女将さんに頼んでます。でも盛り付けと味見は私です!」
「味見…、えっとどれくらい?」
「えーっと…たぶん10回以上は…!」
真白は悪びれもなく笑った。
雪也は苦笑しつつも、なぜか心が温かくなる。
「どうぞどうぞ!冷めないうちに食べてください!」
すすめられるまま箸を取る。
雪也は、こういう優しい料理がうれしかった。
口に入れた瞬間、山菜の素朴な味わいと出汁の優しい旨味が広がった。
「…美味しい」
「でしょでしょ!?私もさっき同じ顔しました!」
真白はうれしそうに身を乗り出した。
その笑顔に釣られるように、雪也の頬も自然とゆるむ。
ふと、真白が声を落とした。
「ここに来た人って、みんな"この味"を覚えて帰るんですよ」
「……どういう意味だ?」
「うーん…上手く言えないんですけど。ここってただの宿じゃなくて……不思議な“縁”でつながってるんです」
意味深な言葉を残しながらも、真白はすぐに笑顔に戻る。
「はい!追加でお味噌汁もどうぞ!」
彼女の天然な明るさと、その裏にあるわずかな謎めいた雰囲気。
雪也の心には、温かさと同時に小さなざわめきが残っていた。
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夕食を終えると、真白は「ゆっくり休んでくださいね」と笑顔でふすまを閉めていった。
部屋に残されたのは、雪也ひとり。
畳の香りと、まだほんのり漂う料理の湯気。
それらが静かに混ざり合い、胸の奥をじんわりと落ち着かせていく。
だが、時が経つにつれ、静けさは別の顔を見せ始めた。
時計の音もなく、雪の音さえ遠い。
耳を澄ませば澄ますほど、館そのものが呼吸しているように思えてくる。
―きしり
廊下の板がわずかに鳴った。
隙間風かもしれない。けれど、誰かの足音のようにも聞こえる。
雪也は身を起こし、ふすまの隙間から外をうかがった。
灯りはなく、ただ暗い廊下が続いているだけだ。
それなのに、視線の先に何かがいた気がしてならなかった。
背筋を撫でるような寒気。
窓の外では、相変わらず雪が静かに降り積もっている。
「…気のせいか」
そう呟いて再び横になるが、まぶたを閉じても落ち着かない。
夢と現実の境目がにじむような、不思議な夜である。
この時、すでに雪也はこの村の不思議の一端に触れていたのであった
ーーー
翌朝。
雪也はふとした物音で目を覚ました。
障子の隙間から射し込む朝の光は、雪に反射して白くやわらかい。
夜の不穏な気配が嘘のように、部屋は静けさに満ちていた。
廊下に出て、少し歩いた窓の景色を見にいってみる。
途端に冷たい空気が頬を刺し、吐いた息が白く立ちのぼる。
目の前には、雪花村の景色が広がっていた。
一面の雪原。
遠くには山並みがそびえ、屋根を白く覆った古民家が点々と並んでいる。
朝日を浴びて雪は銀色にきらめき、その輝きが村全体を幻想的に包み込んでいた。
――まるで、別の世界に迷い込んだみたいだ。
雪也は思わず足を止め、ただその光景を見つめ続けた。
胸の奥がじんわりと熱を帯び、昨夜までの孤独感が少しだけ和らいでいく。
その時、背後から元気な声が響いた。
「雪也さーん! 朝ごはんできましたよー!」
振り返ると、真白が廊下の向こうで大きく手を振っていた。
その笑顔は、雪景色よりも鮮やかに目に焼きついた。
というか、朝食は部屋に持ってきてくれるタイプではなかったのか・・・。
食堂に足を踏み入れると、木の柱と囲炉裏の香ばしい匂いが迎えてくれた。
窓の外には相変わらず雪が舞っているが、室内はぽかぽかと暖かい。
「おはようございます! 雪也さん!」
真白がテーブルの向こうから満面の笑顔で手を振る。
その前には、小鉢に盛られた漬物や焼き魚、湯気を立てる味噌汁がずらりと並んでいた。
「すごい……旅館みたいだ」
「旅館ですよ! ……あ、でも女将さんがいないときは私の手作りなんです!」
胸を張る真白だが、焼き魚の一匹は少し焦げている。
彼女は気まずそうに笑って、それを隠すようにみそ汁の椀を置く。
「見なかったことにしてください!」
雪也は思わず吹き出した。
その何気ない仕草に、朝の冷えがすっかり溶けていく気がした。
「さあさあ、どうぞどうぞ!」
真白は勢いよく茶碗を差し出す。
だが力加減を誤ったのか、ご飯粒が一粒、雪也の膝にぽとりと落ちた。
「……あっ! それは縁起がいいやつです!えっと……確か“福が落ちてきた”って言うんです!」
慌てて取り繕う真白の様子に、雪也は肩を揺らして笑った。
温かな食事と、無邪気な笑顔。
この館に来てから初めて、心から落ち着ける時間だった。
けれど、ふと気づく。
ーー他の宿泊客の姿が、どこにも見当たらない。
違和感を感じるも、食事が本当においしくて、ご飯3杯もおかわりしてしまった。
「ごちそうさまでした」
雪也が箸を置いたそのとき、ふすまが静かに開いた。
「お口に合いましたでしょうか?」
和服姿の女性が姿を見せる。
落ち着いた物腰とやわらかな微笑み。その顔立ちに、真白の面影が重なった。
「お母さん!」
真白がぱっと立ち上がり、嬉しそうに手を振る。
「この人だよ、昨日来た雪也さん!私が案内したんだよ!」
「まあ……そうでしたのね」
女性は軽く会釈して雪也のほうを向き、改める。
「私はこの花月館の女将の雪乃と申します。ようこそ花月館へ」
雪也も慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。
「……お世話になります。料理、とても美味しかったです」
「ありがとうございます。真白も、少しはお役に立てたようですね」
「えへへ!焦がしたのはバレてないよ!」
「……バレていますよ」
雪乃は小さく笑って首を振る。
そのやり取りに、雪也は自然と肩の力が抜けていった。
「しばらくは雪も続きそうですし、どうぞゆっくりしていってくださいね」
雪乃はそれだけ告げると、静かにふすまを閉めていった。
温かな親子のやり取りが残した余韻は、不思議さではなく安心感をもたらしていた。




