第1話 狐
雨は降っていないのに
空はしっとりと曇り
霞んだ月が山を淡く照らしていた
白い狐面をつけた花嫁が
篝火の列を従えて歩いていく
誰にも届かぬ幻の道
けれど人はそれを「狐の嫁入り」と呼び
不思議そうに空を仰いだ
あの人と出会ったのは
初夏の夕暮れだった
私は人の姿を借りて
川辺で座り込んでいた
胸の奥に溜まった孤独が
形を持ったかのように溢れ
涙となって頬を濡らしていた
そこへ薪を背負った青年が通りかかり
私を見て足を止めた
「どうしたんだい 迷子か?」
陽に焼けた額に汗を浮かべ
息を少し切らしながら
それでも真っ直ぐに私を見ていた
私は咄嗟に答えを偽った
「……はい 家に帰れなくて」
青年は少し首を傾げ
それから笑った
子供のようにあどけないのに
なぜだか胸が締めつけられる笑顔だった
「こんなところにいたら
狐に化かされちまうぞ」
その言葉を聞いた瞬間
心の奥に痛みが走った
化かしているのは私の方なのに
知らぬままに笑ってくれる彼が
どうしようもなく愛おしく思えた
それから私は彼に会いに行った
川辺で
林の小道で
村祭りの夜の雑踏で
彼は最初こそ怪訝な目をしていたが
やがて気を許し
同じ時間を共に過ごすようになった
季節は巡り
紅葉が散りゆくある日
彼はぽつりと呟いた
「おまえと
一緒に生きていけたらいいのにな」
その声はあまりに温かく
あまりに残酷だった
私は夜の闇に紛れて
泣きながら狐の姿へ戻った
人は短い時を駆け抜ける
花のように咲き
そしてあっけなく散っていく
私は百年を生きても
同じ姿で孤独を抱え続ける
寄り添えば寄り添うほど
必ず訪れる別れが
深い傷となって
私を蝕むと知っていた
だから願いは
決して叶えてはならない
彼を愛すれば愛するほど
彼を守るために
私は距離を取らねばならなかった
それでも時は残酷に過ぎ去った
青年は病に倒れ
やせ細り
かつての力強い笑みを失っていった
私は人の姿のまま
彼の枕元に寄り添うことはできなかった
ただ遠くの林に身を潜め
灯の消える家を見つめ続けた
やがて夜明けとともに
彼は静かに息を引き取った
今夜はあれから幾度目かの命日
私は花嫁の装束に身を包み
篝火を従えて山を下りる
仲間の狐たちが列をなし
鈴を鳴らして私を囲む
祝福のように響く声は
同時に嘆きにも似ていた
「嫁入りだ 嫁入りだ」
誰もいない夜道に
狐たちの囃子だけが流れていく
けれどこれは
誰のための行列でもない
ただ一度でいい
あの人の魂に届けばいい
私が本当に
あなたの妻になれた日の幻を
夢の中で見てくれますように
雲間から零れる光とともに
細かな水の粒が夜空から舞い落ちる
月明かりを受け
それは金色に輝き
人はそれを不思議がってこう呼んだ
狐の嫁入り、と
私は面を深くかぶり
涙を隠しながら霧の中へと消えていく
彼の名を
胸の奥で呼びながら




