8話 過去のセレーナ2 堪能。
店主に案内されたのは、カウンターだ。頭上には緩く遮光布が垂らされており、高い窓から射す日光を柔らかく受け止めている。見渡せば客もアンナ以外にはおらず、心地良い室温と静かに唄うオルゴールの音色の中で、閑古鳥が鳴いていた。
「とても趣味の良いお店ですね」
「恐縮です」
言葉よりも遥かに誇らしげに、ダイダロの笑い皺が深まった。
カウンターへ案内されたものの、アンナの背丈が足りなく、もとい、椅子の高さが足りない為、仕方なく彼女は、幼児用の椅子に座っている。赤子が座る、机よりも丈の高い、あの椅子である。恥ずかしさに最初は固辞したたのだが、結局座っている。他に人がいないことと、店主ダイダロが、申し訳なさそうに巨体を縮こませながらも、あれやこれやと世話を焼こうとする様が見て取れたからだ。アンナは、そういう単純な善意に弱かった。
アンナは今、ローストナッツをポリポリと噛みながら、牛乳を醗酵させた飲料を冷水で割り、蜂蜜と砕いた柑橘の氷菓子を混ぜた飲み物、ラッシーを、ちびりちびりと舐めていた。冷たくて甘いのに、不思議と喉が渇かない、香り付けのミントの葉をアクセントにした、優しい味の飲み物。これは東方にある国で広く親しまれている飲料を、シシリアの気候に合わせてアレンジしたものだという。
最初に冷たい水を差し出され、すぐに飲み切ってしまったアンナの最初の注文が、それだった。表のメニューに載っていて、目をつけていたものである。彼女の好物は牛乳だ。毎日欠かさず飲んでいる。同時に季節のまるごと果実という氷菓子を注文したのだが、その時、クゥと、お腹が鳴った。
朝から依頼として重労働に勤しんでおり、昼間に一騒動があった為、昼食を食べ損ねたせいである。通常、ビタロサの習慣としては食事は朝、晩の二食だけだが、肉体労働者は昼を取る。消耗による、身体的欲求の問題だった。
「やはり、大層お疲れのご様子。軽くつまめる物をご用意してきますので、少々お待ちください。氷菓子のデザートは、その後にでも、お召し上がりください」
止める間も、ましてや注文する間などもなく、ダイダロは、奥の厨房に姿を消してしまう。店内に軽食のメニューは用意されていなかった。値段が判らぬのは不安だが、懐には、それなりの余裕があった。まぁ、良いでしょう。と、ナッツを一つ口に含んだアンナは、ぐるりと店内を見渡した。
置かれているのは、少々浪漫趣味のきらいはあるが、品の良い調度品の数々。吹き抜けの天井には、風車がのんびりと回っている。窓硝子から射す陽射しは柔らかく、明るくとも熱さを感じない。離れた外からは気付けなかったが、窓硝子の半数近くに、ステンドグラスが採用されていた。
店内の室温が快適なのに、風の唸る音が微々たるものなのは、良い術具を使っている証だ。広大な空間での空気調節は難しい。
そして極め付けは、よく掃き清められ、細かな調度品に至るまで丁寧に磨きぬかれた清潔な店内。その濃やかな有り様は、店主の慈しみ深い人柄や、客商売へのこだわりを偲ばせ、とても気持ちの良い物だった。
「うーん。どう見ても、良いお店なのですが」
アンナの中では高評価である。香ばしいローストナッツの塩加減が丁度良く、ラッシーも美味しい。他のメニューへの、期待が膨らむ。
だが、決定的に、足りないものがあった。
「なんで、お客さんが、全然いないのでしょうか……」
そうアンナが思わず呟いたものこそ、必須にして足りないものである。彼女を除いた客は、一人としていなかった。
「お待たせいたしました。アンナお嬢様」
そんな矢先、ダイダロが戻ってくる。エプロンと眼鏡を掛け、お盆を指先に載せて。
彼はしゃがみ込み、指先の高さをカウンターへ合わせると、滑らすようにそっと、お盆を載せた。
「こちらアスパラベーコンのパンケーキと、カブリゼサラダ、コンソメスープになります」
アンナは祈りを捧げると、頂きます。と、手を合わせた。
香り立つ琥珀色のスープは澄んでいて、彩りのパセリの他に具材はない。だが、スプーンで掬い口の中に入れれば、凝縮された旨味と華やかな味わいが、口の中に広がった。
「流石、完成されたと言うだけはありますね。何種ですか?」
「三十一ですな。メインは牛の脛です」
スープの冠についたのは、北西にある大国ガリアの古語である。意味は彼女の言う通り、完成されたというものだ。非常に手間のかかるものであり、全ての料理に通ずとされるものでもあった。
「なんとまぁ贅沢な。大変、美味しゅうございます」
「灰汁取りに勤しんだ甲斐がありますな」
滋味が身体に沁みるような豊かな風味。数口味わい、食欲を刺激されたアンナが次に目を向けたのは、白、赤、緑、そして黄金で彩られたサラダである。白はモッツァレラチーズ、赤はトマト、緑はバジリコだ。瑞々しいバジリコの葉に、刻まれたトマトを乗せ、その上には雪のように積もるモッツァレラチーズ。彩りとして、ここカターニア特産のオリーブオイルを纏わせた姿は端麗だった。
ナイフとフォークを器用に操って、一息に口に運べば、訪れるのはハーモニー。それぞれ主張の強い味わいが、喧嘩することなく調和する。その決め手は、仄かに振られている岩塩だろう。見事に、四つの食材、それぞれの個性を纏め上げている。
「アスパラとベーコンには、少々強めに塩を効かせております。パンケーキと一緒に、お召し上がりください」
「承知しました」
パンケーキにナイフを入れると、ふうわりと甘い香りを燻らせて、抵抗なく切れる。焼き立てのパンケーキは、とても、ふわふわだった。
薦め通りに、一口大に切ったパンケーキへ、アスパラとベーコンを乗せ、頬張る。優しく広がる甘味に混じるのは、瑞々しい野菜の香味と、熟成された肉の旨味。
とろけるようなパンケーキの食感と、シャキシャキと歯応えのあるアスパラ。咀嚼する度に、肉の旨味が引き立っていく。塩気と甘味が、舌の上で融け合う。やがてゆっくりと飲み込めば、喉に、食道に、胃に。満ちるのは、確かな満足感。アンナは、ほうと吐息を漏らすとラッシーを一口、コクリと飲んだ。
「店主様【マスター】。どのお料理も、大変美味しゅうございます。まこと、結構なお手前でして」
「なんの。私の料理の腕など、まだまだ。シシリアの食材が良いのです。それと、お出しした料理は、お嬢様のお身体が求められている滋養を補う為のものです。美味しく感じられたのなら、それだけ、足りていなかったということですな。差し出がましい事ですが、あまり無茶をなさるのは、感心致しかねますぞ」
「ありがとうございます。お言葉、しかと胸に刻ませて頂きますね」
良い大人だ。と、アンナは思う。初対面の子供に対し、偏見もなく苦言を呈する事など、なかなか出来ない事だ。それに、只者ではない。
彼の言葉をそのまま受け取るのならば、アンナの様子から体調を察し、身体が必要とする滋養を用意した事になる。これは、簡単な事ではない。観察により、相手の身体状況を把握する術式は医療の分野で見診と呼ばれるものがある。ただし、医学は高等学問だ。人体構造に精通し、多くの知識、そして鋭い観察眼が要求される。栄養学もまた専門知識であり、確りと学ばないでいて、身につくものではない。その両方を備えているとすれば、余程の賢人だ。それに加えて、あの身のこなし。
建物自体が頑丈に造られていることもあるのだろうが、ダイダロがあの巨体で動き回っていても、音が立たない。通常あるであろう、床の軋みや、足音が聴こえない。これは、吸音の術具などでは説明がつかない。彼の体重の何十分の一にも満たないだろうアンナの靴音が、カツリ、カツリと床を鳴らしていたのだから。
「フルングニルの騎士とは、とても凄まじいものなのですね」
「ふむ?」
振舞われた料理をすっかり平らげたアンナが、季節のまるごと氷菓子を待っている間、ちびちびと美味しいラッシーを舐めながら呟いた。二杯目である。一杯目とは異なり、これは温めた牛乳で割ったものだ。氷菓子と合わせるなら、こちらがお薦めですと言われた品である。砕いた氷菓子にはバナナが混ざっており、熱くもなく、冷たくもないラッシーに、濃厚な風味を与えている。アンナは、このおかわりに、大変満足していた。
満足感故の失言だろう。素直な感慨ではあるが、褒められた事ではない。こういった物言いは、相手によっては、詮索とも取られかねない。それを好む者はあまりいないので、こういう言い方は、マリアとの『授業』以外ではしないよう、心掛けているつもりであった。
「失礼しました。悪い癖ですね。店主様のお人也を見させて頂いて、フルングニルの騎士とは、どれ程に精強なのだろうと、興味が沸きましたので、つい」
「私を見て? それは興味深い。差し支えなければ、私のどこをどう見て、そう思ったのか、詳しくお聞かせ願えないでしょうか」
アンナに否はない。疑問を考察、検証しないでいられないのは、彼女の性分だ。加えて、自分の想いを伝えたいし、それに対する相手の想いを伝えられたい。これはマリアの影響だろう。彼女の『授業』は、アンナにとってはとても心地良く、楽しいものなのだから。
「そうですね。思えば最初から——」
そしてアンナは、ダイダロへと語る。自らの考察と、そこに至るまでの発見の数々を。
その最中にも、新たな気付きがあった。例えばこの店主、かなりの聞き上手だ。口数はそう多くないものの、一々相槌は的確だし、言葉に対する反応が顕著で、話し甲斐があった。
「店主様の歩法から、なんらかの武道を高い練度で修めているのではと、推察しました」
「修めているとは烏滸がましいですが、ソーの格闘術には、少々の心得がありますな。何せ我々はこの身体なので、山から降りるには、身体操作術の習得が必須とされます」
「それは氏族の掟としてですか? あるいは騎士の誓いによって?」
「両方ですかな。掟を破る不心得者を連れ帰るのも、大切な騎士の仕事でございまして」
遥か北方の山脈の中に、巨人族の大きな集落があるという。古来より郷の掟として、山を降り、他の人類種と交流することを認られるのは、人品実力の伴った者に限るとされている。これは我等の祖先が、その身体能力差によって、悪戯に他者を傷つけることを恐れた為なのです。と、ダイダロは誇らしげに語った。
その目安とされるのが、騎士爵である。これは所属氏族により推薦され、他氏族により信任される事によって認められるもので、謂わば巨人族の対外的な代表団だそうだ。誓いの中で、郷外と交流し、その知識や経験を持ち帰ることを任じられるという。それは騎士として在る以上、生涯を賭けるに足るものだと、ダイダロは誇った。アンナは、それでは、生半可な人物では、とても務まらないでしょうね。と、微笑んだ。
「その理念からすると、少なくとも、各地で学ぶのには不自由のない程度の基礎学力と、みだりに敵を作らないよう振る舞う、礼儀作法や処世術は、必須ですよね?」
「左様でございますな。それらが問題なしと見做されなければ、認められる事はありません」
「そうなると、現在の巨人族への偏見には、思うところがあるのでは、ありませんか」
アンナには、巨人族の知人がなかった。どころか、カターニア市で、シシリア島で、そしてビタロサ王国内で、彼女は巨人族を見かけた事すらない。見た事さえあれば、初対面時にあれだけ驚きはしない。と、彼女は思っている。
「我等の力不足ですな。お恥ずかしい」
一瞬ダイダロの表情に、吹き出すよう怒りと、酷く苦々しげなもの、そして寂しさと悲しみが混じったものがよぎったが、彼は直ぐに口調と表情を平静なものへと戻していた。それでもアンナの背筋は、ゾクリと震えた。それは、彼女が季節の——この時は梨だった。まるごと氷菓子の一口目を頬張った時の事である。寒気を、冷たさによるものとして流したのは、彼女なりの気遣いだった。
「氷菓子になると、梨の甘味と食感が、殊更に際立ちますね。冷たくて、美味しいです」
声が硬くなってはいないだろうか。そんな心配をしつつも、感想を述べると、その味と食感を出す為に、様々な工夫を凝らしましたからね。漸く娘からのお墨付きを貰ったので、開店を決断しました。と、ダイダロが胸を張った。その巨体からは、揺るがぬ自信が漲っている。
「店主様には、娘さんがいらっしゃったのですね。私のような子供の扱いもお上手なのは、そのお陰ですね」
「なんの。アンナお嬢様は、素敵なシニョリーナですからな。淑女の扱いもまた、騎士の嗜みであります故。そういえば、娘のミリアムも、そろそろ帰って来る頃合いですな」
「お上手ですね。お嬢様はお出掛けに?」
「ええ。娘は学生でして。秋から王都の学府への編入が決まりましてな。その準備の為にも、方々を駆けずり回っております」
「王都の! おめでとうございます。お嬢様は、大変優秀なのですね」
「ありがとうございます。優秀かどうかは計りかねますが、あの子が教養を深める事に、異論はありませんので」
笑い皺を深めるダイダロの姿に、アンナの頬も釣られて綻ぶ。先程よりも、梨の氷菓子の甘さが、引き立ったようだった。
「楽しいお話を聞きながら、美味しいものを食べられるのは、とても幸せ」
つい零れてしまうのは、そんな言の葉。瞬間、シンと静まる場。やがてギシリと一つ、家鳴りする。ギシリ、ギシリと家鳴りは続き、その音に、バリトンの笑い声が混じった。ダイダロが、笑っていた。身に付けた修練も、騎士の作法も放り投げて、ただ愉しいとでも、いうように。