65話 奇跡の始まり。
「この歌は、ごく普通の女の子達がアイドルになりたいと想い、夢の為の努力を惜しまず、歩んで来たその軌跡。そんな彼女達が辿り着いた舞台に立って、初めて見えたその風景。前しか見えなかった彼女達が、立ち止まって理解出来た、それこそが真理。沢山の人達に支えられて、これまで歩んで来た事を思い出し、だからこそ、伝えたいと願った想い。「ありがとう。これからも、よろしくね」言葉にすれば、たったそれだけの想い。この世における全ての人々へ。最高の偶像達、ヌオヴァ・ジェネラッツィオーネが贈ります。今、この時だからこそ創られる、愛の歌。聴いてください。最高傑作!」
「『さぁ、今を輝いてっ!』」
アンナが曲名を叫べば、唄い始めの全員による唱和が重なった。
明るい旋律に併せて、想いの溢れる五つの唄声が紡がれる。
それは詩と同じ様に、時に重なりあい、時にすれ違いながらも、大きな夢へと向かって行こうという行進曲。そしてこの輝かしい場所に、共に辿り着いた事を喜ぶ凱歌。
祭典の終幕を飾るのは、五人と全ての人々の過去、現在、未来への祈り。
会場は沸きに沸き、盛り上がる。
五つの背中を見護るアンナ達だって、大いに盛り上がっていた。
狂化を維持しているので肉体的な疲労はなかった。
感覚が鋭敏化しているせいで、素晴らしいものを沢山受け取れていて幸せだった。
しかしてアンナは、ほんの少しだけ、アプリーレの呼吸に乱れが出ている事が気になった。
『息吹』を修めたばかりの彼女だ。その好奇心から、他者の呼吸法を気にするようになっていた。
アプリーレを始めとするトップアイドル達の呼吸はとても洗練されていて、見事なものだった。
それは僅かな違和感、大きな不安。
興奮と歓喜の中にいたせいで、これまでは意識から外れてしまっていた事がある。
アプリーレがいつ倒れてもおかしくない程の高熱を発していて、体調が悪い事と、舞台の直前に彼女が『もう、長くはない』と語った事だった。
思い出し、顔色を青褪めさせたアンナは狂化の強度を最大まで上げて、密やかに治癒や見診などの複数の術式を展開維持し始めた。
リィンとマイアのデュオパートの後に、アプリーレのソロパートが挟まって、アンナも大好きな『ありがとう。これからも、よろしくね』に続く。
筈だった。
唄声を響かせようと大きく息を吸い込んだアプリーレが咳き込んで、血を吐いた。
華麗な衣装が鮮血に染まる。
最初に反応したのは真正面から見ている観客達だ。
二人連れの夫婦が舞台に駆け寄ろうとして、障壁に阻まれた。
舞台は安全上の措置として、侵入を阻む障壁を張っている。他の観客達は驚きに情報処理が追いつかなくて固まった。
リィン、マイア、ペトラ、ネーヴェの四人も即座に異常を察知して、駆け寄ろうとした。
だが、普段と変わらぬ笑顔のままで立ち続け、口内の血を吐き出して、なおも歌い続けようとする彼女の凄惨な姿に気圧されたのか、刹那の間だが身が竦む。
アプリーレの膝が折れかける。バランスが崩れて、倒れ込みそうになった。
そこに幼女と四人の少女が飛び込んで、支えた。
僅かな後にヌオヴァ・ジェネラッツィオーネの四人も集う。
血が喉を塞がぬように横たわらせて、アンナはすかさず安息。
病を癒さず、怪我を治さぬ、まやかしでしかない、救いとは程遠いささやかな術式。
それはアプリーレが必死の想いで造る笑顔を剥がし、恐怖と苦悶の表情を露わにした。
それでもまだ息はある。まだ、手遅れでは無い。
演奏は既に途切れている。
無意味な残響と、応急処置や医師を召集しようとスタッフの怒号が響く。
会場内は悲鳴と混乱に彩られ、十万を優に超える人類種達は、暴発寸前の様相を呈していた。
「鎮まりなさいっ!」
だからこその一喝。果たして、会場内は静まった。声を届ける術具の効果が生きた。
アンナはアプリーレへ安息と最低限の治癒の術式、そして菩薩活性を用いながら、見診を走らせる。
この集中を維持する為に、自身へ最高強度の狂化を施しながらだ。
八人の姉達も、治癒と見診を重ねてくれている。怪我などの応急処置ならば、即座に快癒する程の強度であった。
だが、アンナは治癒の出力を絞った。
アプリーレが取り憑かれているのは死病だ。
それがどういうものだか、詳細が解らない。生命維持に必要な働きだけを維持させる。
そうしながら——。
「皆様。とても心配な事でしょう。混乱なさってもいるでしょう。不安なお気持ちがあって、優しいお気持ちから、恐れや怒りが沸くのも無理からぬ事です。ですが、ですからこそ、気をお鎮めください。この状況で、貴方達に出来る事は余りありません。ですから、お祈りください。アプリーレお姉様が無事でありますように、貴方達自身が無事でありますようにと。そうあれかし。と、お祈りください」
朗々と語る。
遠回しで、丁寧な物言いながら辛辣な、場を収める為だけの長広舌。
果たして、静まった会場内は統制を取り戻した。
無闇に騒ぐ者はなく、穏やかに祈りを捧げ始める者まであった。
見診を続ければ、喀血の原因に当たりはついた。
柔らかい肺が破れている。
心臓にある悪性の腫瘍が増殖し、全身に回っていた。
その内の、肺近くにまで回って硬化した肉腫が肺を抉った事による外傷からの出血だった。
幸いに、傷口付近は腫瘍ではない。
破れた部位に、繊細な治癒を施す。
増殖する腫瘍を押し留め、血を止めて細胞そのものを再生させる。
傷口を塞がれた肺は、僅かだが健常な機能を取り戻した。
「素晴らしい。素敵な皆様方。治癒や医療に自信と覚えのある方は、スタッフさんの元へお向かい下さい。そして、怪我や、体調不良、不安の方もおいででしょう。その方達も落ち着いて、スタッフさん達の元へ向かいなさい。貴方達が斃れれば、貴方達の事が大好きな、アプリーレお姉様が悲しみますよ。落ち着いて、助け合いながら、ご安全にお願いします」
言葉だけの指示。であるのに、スタッフ達も観客達も優秀で、アンナの意図するように動いてくれた。
アンナは狂化を会場内全ての様子を察せる程に高めている。
幸いに、大怪我や大病、意識を失った者などはいない。体調不良や軽い怪我などはあるが、それは致命的なものではなかった。
故に、信頼する。今、為せる事を成そうとする者達を信じた。
もっと集中しなくてはならない。
アプリーレの全身を蝕むのは悪性腫瘍。
設計の失敗から、死なず、増殖し続けるという特性を得ただけの細胞が健常な細胞を喰らおうとする不治なる死病の元凶。
対処療法としては患部の除去がある。
だが、それが人体の大切な器官に巣食っていては現実的な手段とはならない。
だからこそ、不治の病ともされていた。
アンナの知識では癒せない。どころか、姉達の力を借りても無理だった。それでも、一縷の希望に縋る。
「医師様はお呼ばれですか? ——そう。ならば、多少準備に手間取っても構いません。救急だけでなく、アプリーレお姉様の主治医をお探し下さい。それと、州立カターニア総合病院、フロレンス婦長様へのご連絡を。末期の悪性腫瘍です。と」
再びのどよめき。混乱の始まり。だが、それが形となる前に、アンナは鋭く言葉を発す。
「鎮まりなさいと言いました。貴方達がアプリーレお姉様に出来る事は帰る場所としてある事です。お怪我などせず元気でいて、還りたいと願う場所である事です。もう二度とは言いません。鎮まりなさい。そして、祈りなさい」
アンナの指示を受けたスタッフが動く。
会場内は再び落ち着きを取り戻し、それぞれが期待された働きを始める。
誰もが悔しさや、悲しさを押し殺して。
「我が心は、ただ汝に寄り添う。ただ一時の安らぎを。——安息」
再びの詠唱を紡げば、アプリーレの苦痛も僅かに和らいだようで、薄らと瞳を開く。
「……えへへ。中途半端で、格好悪いなぁ。今日くらいは、大丈夫かなって思っていたんだけどね」
そして小さな声で呟いた。
誰もそれを混ぜっ返す事なく、主治医のお名前を。と問えば、素直に返ってくる。
当然、スタッフたちに伝えておいた。だが、それで治らぬ者達もいる。リーナとリィンであった。
「アンタ。なんでそんな状態で舞台に立ったのよ。最高の笑顔を見せるんじゃ、なかったの」
怒りで震えるリーナ。
彼女はアプリーレとリィンとは、海の巫女として活動していた三年の間に付き合いがあった。
一つ歳上のアプリーレが最初の奉納舞に感激し、私も絶対に偶像になるんだ。と言ってくれたからこそ、リーナも本気でやってみよう。可能な限り続けようと思えた。
情熱の向ける先、挑み、望んでくれる好敵手がいるからこそ、やってみようと思えたのだ。
「……」
「皆の舞台。台無しにしちゃって、ごめんね」
歯を食い縛り、何も言わないリィンに、否、全てに対しアプリーレは謝る。
アプリーレとリィンは幼馴染だ。アイドルに憧れたアプリーレがリィンを連れ回し、その縁で二人共にスカウトされた。
二人はノエミ脱退の年にデビューしている。
「……裏切り者」
「うん。ごめんね」
リィンは最初、アイドルに乗り気でなかった。
この腐れ縁の友人を放っておけず、渋々付き合っていただけだ。だがやがて、アプリーレと同じ様に本気になった。好きになり、友人や仲間達と共に、『輝きの向こう側』を見たいのだと、強く願うようになっていた。
幼馴染として短く無い時を共に過ごし、ユニットを組んで、トップアイドルにまで上り詰めた彼女達。
「一緒に、辿り着くって言ったじゃん」
「リィンなら、皆なら、辿り着けるよ」
「嘘吐き」
同じ夢を見て、これからも一緒に歩んでいくものだと思っていた親友に、リィンが返せたのはそんな罵倒でしかなかった。その変わらない姿にアプリーレは微笑んだ。
「ペトラ、ネーヴェ、マイアもごめんね。四人なら、どこまでも行けるって、信じているから」
そして仲間達に謝罪する。笑顔のままで。
「リーナ、ミリアム、レベッカ、ノエミ。それにアンナちゃんも、ありがとうね。良い、想い出になったよ。夢の続きは、やっぱり素敵な場所だったなぁ」
礼を述べ、悔いはないのだと笑う。彼女の得意な、最高の笑顔で。
「造り笑いなどいりません。そんなモノなんて、私は思い出になんか、絶対にしません。だから、本当の望みを、聴かせてください。願いを、祈りを。私達は、全力を尽くします」
ピシャリと言うアンナへ、手厳しいなぁ。と笑うアプリーレ。その瞳に、モリモリと涙が浮かび上がる。
「……死にたくないよ。……もっと皆と一緒に居たい。……一緒に歌って、踊って、笑顔になって。キラキラした笑顔を貰って……。……嫌だよ。一人になんて、なりたくないよ。……もっと、生きたいよぉ」
「そうですね。私達も、生きていて欲しいです。素直になられたアプリーレお姉様には、花丸を差し上げましょう」
安息を唱えたアンナが、アプリーレの涙を拭う。
「えへへ。ありがとうね。……少し、疲れちゃったかな。みんな。愛しているよ」
再び静かに瞳を閉じるアプリーレ。その魂が抜けて逝くかのような声音に、八人の時が一瞬止まった。
「まだですっ! 眠っただけです! だからまだ、諦めちゃダメですっ!」
一人だけ何も止めず、様々な術式を展開したままのアンナが叫んだ。
まだ、息は有り、希望は潰えていないと吠える。その声に弾かれたように八名は、集中力を取り戻した。
アンナがしているのは、悪性腫瘍を殺して除去し、そこへ治癒により増殖させた健常な細胞を埋め込み回復させるという行為であった。
それ自体のやり方は怪我の治療と然程に変わらず、理屈の上では最適解だ。
「私一人じゃ、無理なんです。だから、諦めないで、力を貸して、おねーちゃん達!」
だが、条件が厳しい。
悪性腫瘍は細胞の塊で、健常な細胞を喰らい尽くすまで増殖を続ける。その侵食は母体の生命力が高い程に早くなるともされていた。
人体は大凡六十兆もの細胞で構成されている。その一つ一つを視認する事など出来ないし、刻々と悪性細胞は健康な細胞を喰らう。
超高精度の見診が必要だった。術式を重ねられていなければ、患部を認識出来ない。
その上、悪性腫瘍の働きを抑える為に安息と、麻痺や衰弱という馴染みの薄い高難度術式をも展開している。
同時に菩薩活性と治癒による生命維持をしながらだ。そして細胞単位の繊細な操作術式で腫瘍を除去し、再生により癒していく。
絶技であった。
アンナ一人の力では無理だ。どころか、本職の医師、『英雄』級の者ですら不可能に近かった。
それは奇跡である秘蹟、洗礼にも近しい御技。
術式や医療に心得があったところで、決して一人の人類種に為せる技ではない。
技術的にそれが出来ないとされているからこそ、|悪性腫瘍による人体侵食は、不治の病の一つとされていた。
だからこそ、初期の悪性腫瘍患者には患部の除去手術を。末期の患者には投薬を行うのが治療であった。
薬であって、同時に毒だ。
その目的は悪性腫瘍を殺す為にある。
その強さに健康な細胞も耐えられない。
副作用で肉体は衰弱した。衰弱するからこそ増殖を抑えられる。
同時に他の薬や術式が用いられ、苦痛を誤魔化せた。限界までは生きられる。
その治療方法は、延命の為の治療であった。
ならば何故、未熟なアンナが絶技を為しているのか。それは彼女自身にも判らない。
ただ、無我夢中で想い、祈りながら、心と身体が動いていた。
「絶対に、遺し物など、させません。想い出なんかには、させません。生きて。だって——」
唇をついて出るは祈り、願い。
その想いはアンナだけではない。
アンナを通して術式を重ね、力を貸してくれている八人の姉達と十五名のお姉様達も。
辿り着いた救急救命やアプリーレの主治医に対応したりで大忙しなスタッフ達も。
観客席で見守り、祈りを捧げる、あの十一名の紳士達を始めとした観客達も。
多くの皆が、そう望み、願っている。
だからこそ理屈は不要で、ただ殺し、生かしてゆく。
せっかく辿り着いた救急救命士達やアプリーレの主治医だが、声を掛け、手を出す事が出来ないでいる。
それはアプリーレの両親も同じであった。
二人はアプリーレが喀血した時、舞台へと飛び込もうとしたあの夫婦であった。
スタッフに彼等を知る者がいて、娘の側へと、舞台に上げている。
彼等が見せられているのは、神域ともいえる技だ。
悪性腫瘍に対する理論上での最適解ではあるが、精密性と共に非常に高速な施術が求められる。
技量的な問題もあるが、治癒術式による臓器再生なぞ、生命力への負担が大き過ぎた。
術式による生命力供給にも限りはあるし、供給量の調整を失敗すればショック症状により患者のみならず施術者の身体も保たない。
信じられないものを見せられていて、薬や速やかな緊急搬送の用意をするだけで、精一杯となっていた。
「頑張りましたね。アンナちゃん。後は、お任せ下さいと、言いたいところですが——」
「フロレンス様! ご指示を」
「このまま施術をお続けなさいな。手を止めずとも、お口を開かなくとも構いません。お身体に、直接お聴きしますので」
柔らかくも力強い声がアンナの耳に届いた。
待ち人来たる。クリミアの御使、夜鳴き鶯。怪我や病、死という苛烈な運命と闘う優しき戦士。フロレンス婦長様の到着だ。
指示通りに術式を展開し続ける。嬉しくて、飛び付きたくなる衝動を抑えて。
「準備をします。少々お待ちください」
こんな非常事態というべき時であるものの、フロレンスの登場に観客達とスタッフ達は呆気に取られていた。白衣を脱いだからである。
何せ婦長は美人である。そして、身長も高いし胸もデカい。ミリアムに匹敵している。ひょっとしたら上回るかもしれなかった。
そんな彼女が汗みずくの看護師の制服である白衣を脱ぎ捨てて、下着のみの姿となったのだから仕方がない。黒のレースで、かなり際どかった。
その姿のままフロレンスは顔色一つ変えずに収納術式を展開し、取り出した新たな白衣を身に纏う。
それもパツパツで、身体の線が露わになった。仕方がない。動きやすさを重視している。
続いて周囲を消毒していった。
彼女としては汗を掻いて汚れた衣服や、不衛生な環境での施術は危険なので、当然の行いだった。
だが、それを知らない者達にはただのありがたいご褒美だった。
アンナも良く心得ていて、手を止めない。姉達も身を寄せ合ってアンナの背中の一部を空ける。
彼女達八名がアンナの身体に引っ付いているのは術式を重ねる為である。
この他者へ術式を重ねるという技術。接触して行うのが最効率であった。
「把握しました。ここに、人造異界を構築します」
先にアプリーレに触れ、そしてアンナの背中に手を当てた婦長は離れると、宣言する。
術式は止めないが、九人の少女達も流石に面食らった。そして婦長は術式を展開し、大量の術具を取り出して救急隊に手伝えと指示を出す。
彼等もテキパキと従った。その合間にフロレンスはアンナ達の方をチラリと見て。
「失敗しましたね。マリアとレーナさんを連れて来るべきでした。いえ。下手したら、役に立たないかもしれませんか。詮無い事です。手持ちで賄いましょう」
そう呟いたが、それは幸いな事に誰の耳にも入らなかった。
フロレンスの見る所、マリアはアンナを溺愛しており、レーナは変態という枕詞が付く淑女である。
二人は優秀で医療にも心得があるが、こんな姿を見せられて冷静を保つことなど出来ないだろうと認識していた。
何せ、着飾ったアンナが可愛い。
フロレンスでさえ、思わず抱き締めたくなった程である。
あの二人では、使い物になるまいとの判断は、正しいものだった。一応交信で告げておくが。
その間にも人造異界の構築は進む。
治療も止まらない。
フロレンスに止める理由がないからだ。施術は最適。環境は構築中。
看護師ではないが、八名は充分な戦力だ。その他にも、それなりに練度のある人員が十五名。予備人員も豊富であった。
「準備は整いました。生命を救う医療の砦。救急救命室(accident &emergency)展開。ああそうです。貴方達も、言われた通りにお祈りなさいな」
人造異界を展開した婦長は観客達にも指示を出す。アンナの求めたものと同じものだった。
そして、人造異界内部である。
隔離された空間であるが、別にそれは物理的なものではない。観客席からは見えるし、音だって遮られはしない。
ただ清潔で、施術者や患者の体調に対して最適な環境を構築するだけのものだった。
そして、アンナ達のやる事は変わらないのだと宣告されたのならば、やり続けるしかなかった。
「なかなか筋が良いですね。ですが、問題となるのは、やはり」
アンナの施術は大切な器官、致命的になりそうな患部、それも小さなものから順番に癒してゆく方法だった。
大腸や小腸への転移は僅かで、肺にまでは転移していなかった。
この時、それらと肝臓と膵臓、腎臓へ転移した悪性腫瘍は除去、臓器は再生されている。胃も時間の問題で、遠からず除去は可能と見られた。
最悪、胃の再生は省略しても治療には問題がないだろう。とフロレンスは指示を出すが、アンナは頷かなかった。そして、辿り着くのは悪性腫瘍の根。
「心臓になりますね。出来ますか?」
心臓の腫瘍が最も大きく、根深い。
そしてこの心臓という臓器。血液、生命力を循環させる機能上、絶えず激しい運動をしている。他の臓器のように一時的に麻痺や衰弱をさせて、治癒を施すのは難しかった。
やるべき事は変わらないにしろ、これまでよりも、更に高い速度と精度が要求される。
「やってみせます」
アンナが応え、姉達も頷いた。
「よろしい。ならば、少々負担がかかりますが、貴女達へ更なる強化を施します。それと、祈りにも耳を傾けなさい。貴女達への福音となるでしょう。貴女が望むものは、皆も望むものです。それを、知りなさい」
そしてフロレンスは詠唱を紡いだ。
看護師として、そして人としての在り方を誓う詞。
看護師としての資格を得た者が門出にて、言葉にするもの。
益々、アンナの感覚は研ぎ澄まされる。
光の粒の動きさえ、認識出来る程にまで。
速度と精度を引き上げて、心臓に巣食う病魔を少しずつ、駆逐してゆく。
繰り返しての作業でコツらしきものを掴んできていたアンナは、これまでよりも何倍もの速度で治療を行いながらその働きを身体に、魂に刻み込んでゆく。
お姉ちゃん達の心までもが重なっているようで、束ねられた想いに力が沸いた。
信じられないくらいに術式が馴染む。
素粒子へと変化してゆく術力の動きまでをも知覚し始めた。
それは、今のアンナからは遥か高みにある領域。
「そんなっ! なんでっ!?」
だが、思わず叫んだ。己の培ってきたモノのその遥か先にいる。だからこそ、理解出来る事があった。
悪性腫瘍の増殖が止まらない。
どころか、激化している。
細心にして、殺し、生かす。
別の細胞へ手をかけているうちに、健康な細胞となったソレが、再び悪性に飲まれてゆく。
細胞は癒す端から蝕まれ、あろう事か既に癒した筈の心臓以外の臓器へと、再び転移をし始めた。
医学上の意味の転移だけではない。理術における『転移』によってだ。
通常、細胞増殖あるいは侵食には連続性があって、物理的に接触している細胞同士で行われる。
一度癒した患部にも当然、心臓から悪性腫瘍が侵食してきた軌跡があって、それを辿って癒したからこそ、残るは心臓のみだと自信を持って判断していた。
知覚、認識、思考能力。高まっているそれにより、即座に転移した悪性腫瘍を処置。
これ自体は難しいことではない。
施術速度に比べれば、まだ腫瘍の増殖速度は遅かった。だが、数が多い。群体である悪性腫瘍は数が多ければ多い程、結果として侵食速度を増す。
だからこそ、『転移』などという術式を獲得する変異種の発現は厄介だった。
『転移』は時間も、物理的な連続性をも無視する。
そこに在る。という結果を齎す術式だからだ。
もしも『転移』が特性となってしまったら、たちまちのうちに全身の細胞が悪性腫瘍と化する事が想像出来た。
更に、アンナはその原因にまで推測が及んでいた。
動揺が現れ、僅かに速度が鈍る。
「落ち着きなさい。想定の範囲内です。そして、やるべき事はこれまでと変わりません。ただし、『転移』した腫瘍の駆除が最優先。施術速度を上げなさい。それ以外に、選択肢はありません」
力強いフロレンスの励ましに、再び施術速度を上げ、癒してゆく。『転移』した悪性腫瘍を、根源たる心臓に巣食う病魔を。
この変異種の出現。恐らくはアンナの施術そのものにあった。そう推測したが為に、動揺したのだ。
進化論の中に、種族絶滅の危機からの変異種出現というものがある。
悪性腫瘍は絶滅の危機に瀕して、新たな進化を始めた。
逆説的に捉えれば、あのままであれば絶滅の可能性が高かったということだ。
しかして、その進化を促した原因は『菩薩活性』と『治癒』により生命維持を行いながら、少しずつ腫瘍を駆逐していくという手法にあった。
アンナは少しずつ、アプリーレの身体に負担が掛からぬように、生命力を枯渇させないように癒していった。
そしてやがて、彼女の心臓以外の臓器は健康な細胞を取り戻し、活発に動きながら回復していった。
アプリーレの身体は心臓以外は健康体だ。
弱ったそれを補う為に、『菩薩活性』は活力を与え、生命力を流し込んでゆく。心身が最適な状態となるようにと。
これが、良くなかった。
施術を続けながらも、アンナはアプリーレの両親や主治医に問い掛けて、様々な情報を引き出していく。
そのくだりは、自然に放送にも乗せられている。




