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揺籠の島で揺蕩う少女達。  作者: カズあっと
序章 『今』
5/74

5話 家事とお勉強。


 ファブリ夫妻、マリアとサルバトーレの事である。彼等が、ルクレツィア没後、居を構えたのはカターニア中心部の西側にある街道沿いであった。この街道は、西の農業地帯であるエンナと、ここカターニアを結ぶ要衝で、エンナの農場からカターニアの市場へ向かう者達が数多く往来していた。

「サルバトーレも当初、頭を抱えていましたよ」

「トトは、根っからの騎士ですからね。温泉など出てしまっても、困ることでしょう」

 カターニアは水の良く湧く街であると同時に、エトナ火山が近い事もある為か、特に東部や北部では温泉が多く湧き、宿も多い。

「まぁ、思い描いたものとは別でしょうけれど、結果的には目的達成となりましたので、あの人も満足しておりますよ」

 家主であるサルバトーレは以前まで、辺境伯家の騎士であった。騎士を辞した後、屋敷を構えるつもりであった場所が、現在の温泉である。彼は以前より、このエンナとカターニアとを結ぶ街道の、治安悪化を憂慮していた。

 エンナはシシリア島の中心部に位置し、各都市部との距離もそう離れてはいない。謂わば、要衝であった。にもかかわらず、冒険者組合の支部は置かれていない。理由は需要の低さによる採算の問題もあるが、六年程以前まで置かれていた、州軍エンナ編隊の存在にあった。

 サルバトーレの騎士時代まで、常備軍として置かれていた各所の州軍だが、そう名乗ってはいるものの、実の所これは、オリヴェートリオが編成した騎士達だ。つまりは私兵であった。

 領主として、租税徴収権と行政権、そして執行権を併せ持つ辺境伯家だからこそ維持出来た、常備軍である。その中で、質の面ではともかくとして、数の上での最大を誇るのが、エンナ編隊であった。エンナの生産力を重要視した、オリヴェートリオによる施策の結果であった。

 エンナ編隊の目的は、治安維持と、緊急時における各所への予備兵力、そして、街道を渡る輸送隊の編成であった。

 輸送隊と言っても、実際には彼等が荷を運ぶ訳ではない。彼等の仕事は、エンナから各都市へ荷を運ぶ農民の、その往復の護衛であった。

 三日に一度の割合で編成される輸送隊だが、その利用は無償であった。これでは、農産物の輸送、販売を請け合う商人も、その護衛として編成される冒険者組合にも、出る幕はない。

 州軍は先代ヨアキムが縮小させ、統治権の返上と共に、完全に解体された。現議会では再編の声が上がってこそいるものの予算編成の都合上か、未だ再編の目処は立っていない。戦争などない時代である。常備軍は金がかかるのだ。難しい問題だった。

「ですが、トトは一体、どうやって護衛団を維持するつもりだったんでしょうね?」

 そこが、どうしても解らないのです。と、小首を傾げるアンナ。マリアも、苦笑するしかない。

「そんな事、考えもしてませんよ。あの人は」

 ここに屋敷を構えるんだ。騎士隊が編成出来るぐらいの大きいのを。などと、当時は空き地であった現温泉地まで連れて来られて言われた時、マリアは訳が分からなかった。

「最初はあの人、無償でやるつもりだったんですもの。本当に、仕方のない人」

 訳が分からないながらも、事情を問えば、家が欲しいのだと彼は言う。住居の必要性は言うまでもない。だからこそマリアも、オリヴェートリオの屋敷を出て数日の間、物件を探していた。彼女の要望は、家族三人が暮らせる家という、非常に慎ましやかなものだったが、カターニアはシシリア第二の都市である。そう簡単に、都合の良い空き物件など、見つかるはずもなかった。

「人を雇うつもりだったんですよね?」

「そのつもりでしたよ?」

 二人の語尾に、疑問符が浮かぶ。サルバトーレが言うことには、街道の向かいは水が湧いているが、裏手が小川で手狭らしい。だが、此方側ならば土地が広いので、人や馬を沢山置ける。だそうだ。ちなみに、翌日には土地を調べる手配をしているのだ。とも、その時に伝えられていた。

「流石の行動力ですね」

「行動力のある馬鹿だからこそ、厄介なんです」

 その段階でようやく、マリアはサルバトーレの無謀な展望を初めて知った。

 州軍が解体されて以後、この街道は不穏である。生産地であるエンナから荷物を運び出す際にはあまり問題ないのだが、カターニアなどからエンナに戻る際に、襲われる事件が少なくなかった。理由は単純に、農産物という捌き難い荷物を奪うよりも、現金を奪ったほうが効率的だからだ。

 エンナの農民は荷物が捌けた者からバラバラに、個別にエンナへ向かう。エンナの人々は立地の事情から、金融機関を兼ねる冒険者組合を利用する習慣がない。帰りの護衛を組合で雇う者など、稀であった。その癖、現金だけは、たんまりと持っている。悪意ある者が、襲わぬはずもなかった。

「専業護衛を考えていたそうですよ。エンナ編隊のような」

「採算が取れませんね」

「それを言っても、なんとかなる。の、一点張りでしてね」

 護衛依頼は冒険者組合でも割高だ。何も、拘束される日数によるものだけではない。信用と腕前を兼ね備えた者でないと、務まらないからだ。例えば、中堅に位置する者ならば問題なく務まる。だが、その位置にいる以上、もっと割の良い依頼があるので、受理する者は減り、相場は更に上がった。その上、元々は領主により無償で施されていた事だ。報酬を支払う生産者側も、余計な、それも多額の出費を嫌った。

「トトなら、なんとかなりそうな気は、確かにしますけどね」

「あの人だけが何とかなったとしても、しょうがない事でしょうに」

 サルバトーレは、騎士だ。それも、極め付けの。正義や善行に盲目的で、それに義務感さえ抱いている。言ってしまえば、直情的な、理想主義者であった。若くして上級冒険者として登録された男だ。腕は立つ。二人には残念扱いされているが、指揮を取れば的確で、将としてもかなりの者である事は確かであった。


 朝食を終えた二人。今は食後の茶を楽しんでいる。途中から、サルバトーレのせいで随分と砕けた空気になってしまったが、『授業』は、継続中であった。

「特に予定もありませんし、今日は家の事を片付けながら、沢山お話ししましょうね。マリアの腰も、万全ではないようですし」

「アンナも筋肉痛ですしね。それで良いでしょう。でも、そうですね。お昼前に青物を買ってきますが、何か欲しい物とかはありますか?」

「一緒に行きますね!」

 元気良く応えるアンナであった。

「出るまでに、そう時間がある訳ではありません。家の事を片付けましょう。勿論、一緒にお話しをしながらね」

 目を輝かせたアンナが、そそくさと茶器を盆に乗せ、洗い物へと向かった。


「それにしても、エンナの人達は、少し不思議ですね。輸送から販売までを街の商人に頼るか、多少の我慢をしてでも、待ち合わせをして皆で一斉に帰れば良くありませんか? その際に組合に護衛依頼をすれば、各々の支出も減るハズですよ。現に、今はそうしていますし。先行投資と割り切れば、恒常的に安全な往復だって、望めるハズです」

「その認識には、二つの思い違いがあります。一つは、エンナの農産物に限って言えば、ここカターニアを含む主要五都市では、まず商人が請け負う事はありません。彼等の利益にならないからです。これは関連法を調べれば、詳細が判ると思いますので、ここでは説明を省きます。そして、もう一つ。現在でも、彼等は冒険者組合に、依頼を出してはおりません」

「エンナへの帰り荷を護衛する、冒険者の一団を見るのですが」

 二人は並び、洗い物をしている。その最中でも、会話は絶やさない。『授業』は、他に、なんらかの作業をしている時に行われる。始まりは、食事や、団欒の際が多い。

「お嬢様は西門で、エンナの生産者が、守衛達へお金を支払う光景を見た事はありますか?」

「ええ。ありますよ。何かしらの支払い。例えば、関税のような物だと、思いますけど」

 理術の習熟には、並列処理【マルチタスク】と名付けられた技術が要求される。これは文字通りのもので、同時に複数の行動を起こす為のものである。複数、あるいは複数種の術式を重ねたり、術式の同時展開するには、必須とされている技術であった。

「あら。ちょっと、お勉強不足ですね。シシリアの税法については、以前お教えしていたはずですよ。私はフライパンを洗いますので、食器の片付けをお願いします」

 言われた通りに、アンナは食器を清潔な布で拭いながら、浄化(ピュリファイア)と、極限まで強度を下げた、風よ覆え(ウィンドコート)の術式を同時詠唱する。当然、思考は止めず、記憶の中の言葉を探しながらだ。

「そもそも、シシリア州では、都市間の関税は、いかなる物にも敷かれておりません。だからこそ、州内の流通は活発であるとされています。でしたよね?」

 態々マリアの口調を真似て、戸棚に食器を仕舞いながら答えるアンナであった。

「そうです。あれは税の支払いなどではありません。輸送隊での習慣の名残りです。それと態々、私の口調を真似て言う必要は、ありましたか?」

「ありませんよ? 思い出したので、なんとなくですね」

 そう。なんとなくである。では、あの出費は何か。後ろ暗いものならば、ああも堂々とした金銭の遣り取りがあるとは思えない。これも、なんとなくであるが。

「ふむ。とすると、その習慣は、当時は州軍への、今では都市行政府への心付けと捉えるのが、無難でしょうか」

「ええ。その心付けが、当時は伯爵家へ、今では州政府へ流れています。謂わば、献金です」

 今度見た時は、記帳内容も見てみよう。そう考えたアンナだが、閃くものがあった。

 本来、支払う必要のない出費である。寄付や贈与なども同じであるが、これらは全額が所得として計算され、課税される。その税率は高く、各種控除も適用されない。だが、例外もある。行政府への献金と、教会への喜捨などがそうだ。その理屈は、こうだ。

 それはあくまでも、提供した公共の福祉に対する礼である。礼とは売買とは異なり、感情の問題だ。故に、両者は等価値である。その多寡に関わらず利益が発生するはずもないもので、これらは所得でもない。従って、非課税となる。文言こそ異なるが、それが両者の主張であった。なお、これら以外への礼として、金銭や物品の授受がされると贈与にあたるとされ、高い税率で課税される。申告漏れは収賄扱いであった。

 とんだ詭弁だ。と、アンナは思うも、その遣い道も明瞭なので、特に反感はなかった。

「喜捨と同じですね。ええ。そういえば、思い出しましたよ。エンナの農業従事者は、主要五都市に限り、品質検査や、その保証費用、そして市に立つ為の席料が無料となりますね。加えて、売買利益にかかる税が、大きく減免されるのでしたね。その辺りが、商家が請け負わない理由ですね?」

「その通りです。花丸を一つ、差し上げます」

 言って器用に、壁に架けられた予定表へ、押印マークの理術を刻む。アンナが家の手伝いを頑張ったり、『授業』で模範的な解答をした時に、マリアはこれを刻む。この花丸が一定数に達すると、アンナにはおねだり権が発生し、マリアは、それが可能なモノであれば叶える。花丸の裁量はマリアに委ねられており、これまでにアンナは、サルバトーレ不在時に一緒に眠るという権利や、いくつかのぬいぐるみや書籍、そして、お話しをする時間の確保というマリアの義務を勝ち取っている。

「やった」

「やった。では、ありませんよ」

「ごめんなさい」

「今日も良いお天気ですし、洗濯物を干しちゃいましょう。勿論、お話しを、続けながらね」

 目を輝かせたままのアンナが、鼻歌を囀りながら、洗濯場へ向かっていった。


「それで、献金の意図なのですが、当然ながら、お題目通りの物ではありません」

「やはり、何かしらの意図があるのですね」

「そう生臭いお話しでもありませんけどね。習慣が続くのには、それだけの経緯があるという事だという話です」

 二人はポカポカとした陽射しの下、洗濯物を拡げ、干す。皺を伸ばし衣類の形が崩れぬように、丁寧に干してゆく。その際に、浄化や風を纏えの詠唱を欠かさぬのもまた、二人の習慣であった。

「私もそう詳しくはないのですが、こんな話しがあります」


 輸送隊による護衛は無償であったのだが、それを良しとして甘受する程、純朴な農家達も世間知らずではない。

 軍隊などというものは、とにかく金食い虫である。それを、農場ぐらいしか見る物の無い田舎に常駐させ、尽くさせている。大切に扱っているのだ。自身の産み出す農産物を、担い手である彼等自身を。そう受け止めた農家が、自身の稼業に誇りを持たぬはずがない。より一層、生産に励んだ。

 州軍の兵達は品行方正でいて、勤勉誠実の気風がある。彼等に対しエンナの農民は、感謝と敬意、そして親愛の情を隠さなかった。そんな彼等に向ける兵達の感情が、良好でないはずもない。彼等もまた、懸命に任務に励んだ。

 ましてや、エンナ編隊は予備兵力である。その性格上、多くの者は、エンナの農家達の子や孫と変わらぬ歳頃の、新任の若者ばかりであった。彼等が、平和な今では治安維持や土木作業を手伝い、有事とあらば、その身を賭けるのだ。情が移らぬ訳もなく、娯楽の少ない田舎の村民から見れば、生きた英雄でさえあった。中には彼等の退役後には、自分の子を娶せたいとと考える農家さえあった。もっとも、相手方の兵士という任務の性格上、その目論見が叶う事は滅多な事ではなかったのだが。


「やがてエンナの人々は、編隊の幹部に掛け合いました。無償のままでは心苦しい、せめてお礼を受け取ってはくれないかと。これには、さすがにエンナ編隊の幹部達も困りました。何故だか、解りますか?」

「規律の問題。だけではなさそうですね」

 一言を、後の言葉が打ち消す。

「彼等の気風が誇り高い騎士のそれであることと、オリヴェートリオの者である事を併せて考えてみれば、そうですね……」

 簡単な問題でしたね。と、アンナは語る。

「崇拝、信仰、忠誠。これらの言葉はどれも適切ではありませんね。けれど、それらに近い、何某かの強い感情を、向けられたのでは、ありませんか? シシリアにでもなく、その領主にでもなく、また、州軍にでもなく。他でもない、彼等自身、エンナ編隊そのものにね」

 エンナの騎士達は、さぞ困った事でしょうね。と、アンナは笑った。

 騎士の栄誉は、仕える者に帰属する。彼等は自らの得る全てを、主君に捧げる事こそ、至上の命題であり、美徳であると認識している。これは、群雄が割拠し、覇者を選定し続けたビタロサ戦国時代から始まる、戦士階級への教育の賜物だった。

「州軍の幹部ともなれば、見識は高いでしょうし、自分たちに向けるエンナの方々の感情の意味合を察していないはずも、ありませんしね」

 尊敬や親愛を受けるよう振る舞うのは、騎士の務めだ。だが、それを超えて、崇拝や忠誠ともなれば、話は別である。それを受けるのは、彼等の主君であると考えるのが、騎士達だ。

「板挟みだったのでしょうね……」

 同情を込めるかの様にアンナは零した。

 歴代のエンナの将には、情に厚く、人情を良く解す者が当てられた。と伝えられている。各地の民話や寓話を編纂した絵物語にも、エンナの兵と民が織りなす日常が、時に滑稽に、時に暖かに綴られていた。これはここ数年、多く販売されている書籍であり、アンナも、おねだり権によって所持している。

「オリヴェートリオの思想からしてみれば、その信仰。……いえ、信用ですね。が、自身へ向けられる事を、良しとしませんからね」

 故に、州軍という呼称の中に、オリヴェートリオの名を隠した。欺瞞は罪に当たるが、敢えて正確な情報を流さぬ事は、罪ではない。行き所の判らぬ感情の行く先が、隣人や郷里へ向かうであろうと考えた者は、まさしく賢者であった。同時に、人の感情を操れると傲った、愚者でもあった。

「民達の純粋な親愛の情の強さを、見誤っていたのでしょうね」

 エンナの民は確かに郷土を誇り、愛した。そして、主の汝の隣人を愛せよの教えを護り、その隣人を愛した。隣人の中には、故地の異なる者も数多くいて、それぞれの語る、彼等が産まれ、育まれたという郷土をも愛した。

 そして、その愛が、このシシリアという島へのものにまで至った時、シシリアの島と民は、彼等の愛すべき、故郷と同胞となった。

「そして、騎士達の、愚直なまでの忠節の深さもですね」

 騎士達には、民から受けるこういった類の感情を、領主でもある君主へ転嫁する事が出来ない。オリヴェートリオへ騎士の誓いを為した時に捧げた、誓約の一つであった。

 誓約である。強制力はない。ないが、彼等の騎士道において、守りたい誓約だった。

「……オリヴェートリオの名に、栄誉は不要。その名は、シシリアに、そこに住まう全ての者へ、捧げしものである。騎士よ。決して、生贄の名を高める為に闘うこと、なかれ。汝がその力を振るうのは、万民のためにと、心得られよ。……これで、あってますよね?」

「ええ。お上手ですよ。その誓約は、アンナお嬢様の高祖父に当たる、八代様から騎士宣誓に対し、返されるようになったと記録にあります」

 一節を暗誦したアンナへ、マリアが返す。

 八代目オリヴェートリオ家当主マルコは、時のビタロサ国王により、伯爵位に叙されている。長年の間、議会代表として、実質的な領主であったオリヴェートリオ男爵家当主だが、これにより、王国の権威に依って、正式にシシリア領主となった。州軍の母体となる騎士団が正式に編成されたのもこの時期だ。伯爵は上級貴族である。上級貴族には俸禄の支給を対価に、いくつかの義務が課される。爵位により定められた数の騎士を抱えるのは、その一つであった。

「余程、権力の集中を、恐れたようですね」

 実効支配者としての実力と、領主としての三権、加えて、王国による上級貴族の権威が併されば、それは、その地における神にも等しい。権力の掌握は容易く、また、覆し難いものとなる。それを、オリヴェートリオは嫌った。

「ええ。しかし、その権力により、大いにシシリアは栄えました」

 マルコはシシリア中興の祖とも呼ばれている。彼は手にした権力を存分に振るった。未開地の開拓、不穏分子の一掃、税制の改革などが、その一例である。この際に、州内の関税は撤廃されている。

 これらの成功により、騎士団は州軍と呼ばれる程の力を付け、オリヴェートリオの権力は、益々強固なものとなった。

「辣腕を振るいながらも、増大する実力と権力を恐れていたようです。この力が、無辜の民に向かう事こそ、一番恐ろしいのだ。と、手記には残されてますね」

 それが、あの宣誓への返礼に繋がるのですね。と、頷いたアンナであった。

 しかし、腑に落ちない点がある。確かにシシリアのオリヴェートリオは代々、権力や権威に対し慎重で、執着の少ない家だ。その気質は初代からの伝統だが、マルコ程、それらを恐れ、嫌った者はいない。彼の遺した手記には、くどい程に、それらに対する戒めが綴られている。

 恐怖と嫌悪、そして憎悪によって。

「八代様の手記は、私も読んだ事があります。正直な話、あまり愉しいものではありませんでした。何故、ああも……」

 言いあぐねるアンナに、マリアは口を挟まない。彼女も同じく目を通し、アンナの言わんとする事を察した為だ。

「……呪ったのでしょうか?」

「慧眼ですね。花丸を差し上げます」

「いらない。悪口言って貰っても、嬉しくないもん」

「その心掛けに、花丸をもう一つ」

 不機嫌そうに頬を膨らますアンナを、マリアは取り合わない。花丸の裁量権は彼女にあった。アンナが如何に拒否しようが、花丸には関係ないのだ。

「今回は私が譲歩しまして、花丸を一つとしましょう。良いですね?」

 思う所があろうとも、アンナには、頷く事しか出来なかった。

「さて。洗濯物も干し終わった事ですし、アンナ。お出掛けの準備をしなさい。今回の『授業』でも、色々な疑問が残ったのではないかしら?」

 そうマリアが会話を打ち切った時には既に、籠の中に洗濯物は残っていなかった。

「ならば、考えなさい。調べなさい。学びなさい。そして、選びなさい。それが貴女がより良く生きる為の、力となります。父と子と、聖霊の御名において。そうあれかし」

 思わず、「あ」と、声を漏らしたアンナだが、すぐに気を取り直して、そうあれかし。と、返礼すると、洗濯籠を抱え持った。

「片付けてから、準備するね。お話し、ありがとね! マリアお母さん!」

 満面の笑みでそう言い終えた刹那。またもやアンナの表情と唇は、「あ」と、固まった。見事な百面相であった。取り繕うように、すぅと息を吐くと、彼女は。

「片付けてから、出掛ける準備をしてきますね。マリアも遅れることの無いよう、お願いしますよ」

 と、言い直し、洗濯籠を運んで行った。

 春と初夏の狭間、今日も変わらず降り注ぐ麗らかな陽射しの下、マリアの眩いものを見るような視線は、アンナの背中を追っていた。

「ありがとう。愛しているわ。私達の可愛い娘」

 とても嬉しげに、表情をほころばせた彼女の唇から零れた小さな呟きは、誰の耳にも入る事なく、優しくそよぐ風の中に、溶けていった。


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