4話 穏やかな朝。
朝、アンナが目覚めると、そこにマリアの姿は既になく、僅かな温もりと、その残り香のみが残されていた。僅かな寂しさはあるが、動けるのならば、問題ない。という安心もあった。
——長引くかと思ったけれど、大丈夫そうですね。
そう判断したアンナは、朝の祈りを捧げ、顔を洗いに行こうと、起き上がる。
「ゔっ」
起きあがろうとして、全身の鈍痛に、少女にあるまじき、汚い悲鳴が漏れた。
痛い。爪先から頸まで、全身が、くまなく痛い。動けない程ではないが、とても動きにくい。それに、どこが痛むのか容易に判断出来ない程に、広範囲が痛んでいる。
深く息を吸い、そして僅かに留め、静かに吐いてゆくという『息吹』の呼吸を繰り返しながら、ゆっくりとした動きで、全身の筋肉と筋を伸ばしてゆく。その際にも痛みはあるが、悪い痛みでない事は、経験により解っている。ゆっくりと、丹念に、身体の隅々まで念入りに、ほぐしてゆく。その働きを、確かめながら。その過程で、何処かに悪い痛みがないかを探る事も忘れない。
柔軟体操の効果により、全身へ血が巡る頃、アンナの意識は完全に覚醒していた。
腱や靱帯のどこにも、損傷はないようだった。全身に奔る、筋肉の損傷と回復から来る痛みは、少し懐かしいものだ。少々、動きに滑らかさを欠くが、日常生活には問題もなさそうだった。
気を取り直したアンナが扉を開くと、廊下には、良い匂いが広がっていた。
薫るのは、朝食の香り。淡く漂う火を通した玉葱の匂いが食欲を刺激する。アンナが昨晩作ったのは濃いめの味付けが施された野菜沢山のスープであった。一晩寝かせたそれに、少々の手を加えてシチューを作っているのだろう。炙られた肉の脂と温められた乳の香りの混じる、良い匂い。それらに加えて、焼けたパンの、柔らかな芳香が混じっていた。
はしたなくお腹をクゥと鳴らしたアンナが、急ぎ顔を洗い、厨房へ向かったことは言うまでもない。
「「おはようございます」」
声が重なった。勿論、アンナとマリアのものだ。厨房へやって来たアンナが腰の具合を尋ねれば、マリアは戸棚から取り出したコップへ牛乳を注ぎ、ええ、大丈夫よ。と答える。ぎっくり腰とかいう、病だか怪我だかよく判らないものは、痛みが引けば、適度に動いていた方が治りやすい。とされている。根拠はないが、誰もが納得している迷信だ。
「パンを、お願いするわね」
一息に牛乳を飲み干したアンナのコップへ、再び牛乳を注いだマリアが言った。
シシリア島で主に食べられているのは、小麦で作られた白パンである。土壌が肥沃で四季のあるシシリアでは、古来より小麦の生産が盛んであり、今では、州の特産であるオリーブと並び、輸出農産物の柱とされている。長年の品種改良により味が良く、生産性も高い。勿論、気候や土壌の良さもあるが、それはシシリアに住まう人類種の努力の結晶だった。質が良く、安価である事は、需要を拡大する要件なのだ。
だが、今パン窯で焼かれているのは、北方原産であるライ麦を使った黒パンだった。
シシリアでは嗜好品扱いで、同斤量で比べれば、白パンよりも少々割高な黒パンだが、何も贅沢で焼かれている訳ではない。
黒パンは、白パンに比べて栄養価が高く、日持ちする。調査の為、長期の山籠りを企てていたのだ。日持ちする糧食を買い込むのは当然だった。また、そんな状況下では、家に食材を残すはずもなく、今家にある食材は山籠り用のものだった。初日にして、街へ戻る事になったので、それらの食材は有り余っている。
焼き上がった黒パンを窯から引き揚げ、包丁で薄く切りながら、皿に並べる。その特性上、黒パンは堅い。それに発酵方法の違いから、白パンに比べて酸味が強いので、なるたけ薄く切っておかなければ、食べにくいのだ。
「パン、終わったよ。何か手伝う?」
「こっちは大丈夫よ。座ってなさい」
皿に盛り付けた黒パンをテーブルに乗せると、既に朝食の用意はあらかた整っていたようで、マリアが目玉焼きを乗せた皿を、丁度並べたところだった。
二人は並びあって椅子に座ると祈りを捧げ、『いただきます』と、手を合わせた。
「卵は養鶏場のおじさまから?」
「ええ。今朝、頂いたわ」
山籠りの食材に、卵はなかった。割れやすいし、足も早い。滋養はあるが、携行には向かない食材だ。市場も開く前である。では何処から、と考えれば、時折訪れる、客人からの心付けであった。
「いつも悪いわね」
「でも、ありがたかったわ。今日の有り合わせの食材だけじゃ、味付けが濃すぎますもの」
今朝の主菜は、野菜スープを元にして、燻製肉を加え、チーズと牛乳を混ぜ込んだシチューである。牛乳により多少の中和こそされるものの、元となる食材の塩辛さにより、味は濃い。
「温泉とお水のお礼にって言われても、大事な売り物でしょうに」
などと言いつつも、ありがたく目玉焼きを頬張る。なんの味付けもされていないが、均一に火が通されており、味は良い。
「ただ冷たいだけのお水で、これ程喜ばれるとは、思いもしませんでした。慧眼でしたわね。アンナお嬢様」
「ええ。温泉で火照った肉体に、必要となる水分補給には、冷たいお水が一番ですからね」
「その目的なら、他の飲料でもよろしかったのでは、ありませんか? 例えばお嬢様の大好きな牛乳とか」
水差しからアンナのコップへ、水を注ぐマリア。振る舞いこそ甲斐甲斐しいが、口調と呼び名を改めた彼女へ、同様に態度を改めたアンナは、頷き、返す。『授業』の始まりだ。
「ええ。その通りですね。ですが、それでは、無償とするのは、難しかったでしょうね」
「何故、無償に拘りましたか? 有償として、事業を営むのは、多少の手間こそ掛かりますが、そう難しい事ではありません。社会において、お金は高い価値を持ちます。それを得るという利を捨てるには、それなりの理由が必要でしょう」
マリアはこうした日常の中で、アンナへ思考を促す。同時に様々な知識を伝えてくれるので、アンナはこれを、『授業』と定義していた。その開始の合図は、彼女への、お嬢様呼びである。
「サルバトーレの意向を汲んで。というのが、感情的な意味では大きいのですが、これは正確ではありませんね。敷居を下げて、利用者を増やした方が、目的に適うとの判断です」
アンナ達の住居、その街道を挟んだ向かいには温泉が湧いており、無償で解放されている。
「ならば一層、提供する飲料、なんなら食事などを用意した方が、集客を望めますよ。例えば、お酒などを用意すれば、覿面です」
塩辛い燻製肉と、薄くスライスした玉葱を、酸味の強い黒パンに挟む。燻製肉と玉葱の組み合わせは組合の食堂でお酒を飲んだくれていた冒険者に教わったものだ。ブドウの醸造酒、ワインと良く合うらしい。
「それを喜ぶのは、想定する利用者ではありませんからね。原資の問題もありましたし、割り切ってしまった方が、負担が少ないです」
アンナの想定する温泉利用者は、金銭を落とす、所謂利用客ではない。
一家の所有する土地に運良く湧き出た温泉は、幸運による自然の恵みであり、言うなれば、少し疲れた旅人が、休む木陰と違いがない。事業を営む者達ならば上手く利用し儲けるのであろうが、家族の誰にも、そういった野心はなかった。
「それに、仮に経営に乗り出したとして、上手くやれる自信もないですし。誰かに依頼するのも、選ばれなかった方には角が立ちます。不要な諍いは嫌です」
愉しむ為の場所として、他の温泉経営者から客を奪う事など望まない。それに、商売とは戦場だ。戦場へ赴く勇士達に、僅かながらの英気を養って貰うには、あまり居心地が良すぎるのは適さないと思っていた。
「そう言いましても、無償というのは、それだけで他所様の利益を侵害するものなのですよ? それが判っていらして?」
「もう。意地悪言って。だから皆様の宿を紹介する広告を置かせて貰っているのですよ。この知恵を授けてくれたのは、マリアじゃないですか」
クスクスと笑うマリア。判っているのなら、良いのです。と言う表情だ。
どの様な善意の上に立とうとも、損害を被る者は出て、不満とする者はある。それが敵意や悪意となる事など、ありふれた事なのだと言う。そういった事を避けるには、利害を調整し、他者への排除や害する事などが、利益には繋がらないと思わせる事こそが大切で、その積み重ねで社会は成り立たっている。どれだけの強者や賢者であっても、一人きりでは満足に生きる事など出来ず、自分以外との関わりこそが、世界であるのだ。そういった教えが、マリアによる『授業』の中には数多くあった。
「でも、皆様良い人達ですし、理屈では理解出来ますけど、実感が湧かないというか、なんというか……」
そう呟けば、悪人が悪業を働く訳ではないし、善人が悪業を働かない訳でもありません。善悪など、所詮は後付けの理屈に過ぎませんので。衣食足りて礼節を知るという言葉があるように、悪逆で鳴らした罪人が偶然にも冨貴を得て、聖者と呼ばれるようになったり、高潔清廉と謳われた貴人が、没落と共に極悪非道な賊となる事なども、ありふれた事ですよ。そう言われれば、不承不承ながらも頷かねばならなかった。
唯一神教の教えや寓話の中にも、この手の話は数多く、そうして教訓めいて残されている事こそが、一面の事実であるという証左でもあった。
「まあ、この話は良いでしょう。それで、アンナは温泉ではお水が癒しとなる事を確信しておりましたね。それは、何故ですか?」
答えは判っている筈だ。それでも、マリアはアンナに対し、動機や衝動の言語化を求める。そうやって、考え、選び、動く事こそを望む。伝えこそしないものの、アンナにとって、それは母より贈られる福音だ。想いを寄せられて、自分に注がれるものである。ただそれだけで嬉しくて、つい、頑張ってしまう。
「おや、おや。わからないのですか? マリア」
仕方がないですね。と、得意げに言った。
温泉を誰にでも使える施設としようという目的は、集団で行動する事による犯罪への対策、抑止である。対応を急がねば、犯罪の被害者は減りはしない。どのような名案であっても、実現しなければ無意味だ。だからこそ、今、為すべき事を成す。
「事は急を要しました。悠長に準備をしていて、その間に損害を被る人を出すのは愚策です。ならば、すぐにでも出来る事から。基本ですよね?」
動機や感情の言語化は、習性付けられていないと難しい。また、それが正しいと判っていても、目先の欲望や、本能的な欲求により判断力は鈍る。必ずしも、正義や王道が支持されるものでもない。だからこそ、なんとなく直感的に、心を惹くのが大切だった。
「元々。態々、既得権益との軋轢を産む様な施設など必要無かったのです。中央の時計台や噴水のように、ほんのちょっとだけ、腰を落ち着けるだけでも充分に効果は期待出来るものなのです。言いますでしょう? 旅は道連れ。世は情けと」
ならば、身体的欲求を適度に満たす物を用意すればよい。それが冷たいお水であった。水源があり、浄化と温度調整の術式などがある。大きな甕もあるし、アンナの個人的な事情により、詰め替え可能な瓶も沢山あった。だからこそ、思い付いて即、実行出来たのだ。
「それに、養鶏場のおじさま方のように、近くの方ならばともかく、街道を用いる多くの方々が道中口にされるのは、塩辛い保存食ですよね。そうすると、冷たいお水がとても美味しいでしょう?」
マリアは唇へコップを運ぶと、コクリ、コクリと喉を鳴らす。そして、音を立たせる事なくコップを置いた。頬に手を当て、吐息を一つ。
「ええ。大変に」
その表情は、嫋やかな微笑を浮かべていた。