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揺籠の島で揺蕩う少女達。  作者: カズあっと
序章 『今』
3/68

3話 過去。そして現在。


 シシリア島領主にして、霊峰エトナ火山管理者たるオリヴェートリオ・シシリア伯家が至上の歓びと祝福に包まれたのは、第一子、アンナが産声をあげた時である。

 その後、さしたる間を置くことなく、歓びは悲しみに、祝福は悔恨に、取って代わられた。

 生母ルクレツィアの産後の肥立ちが悪く、産褥の苦しみの中で、彼女は意識を失った。

 数年の間、その正気が回復することはなく、やがて、オリヴェートリオ辺境伯夫人は、そのまま冥府へと旅立ち、帰らぬ人となった。

 アンナが、母ルクレツィアより乳を与えられたのは、たった一度の事だったという。

 その最中に熱を発したルクレツィアは、娘と周囲の者達へ幾つかの言葉を遺すと、眠りに落ちた。後に周囲の者達は、それらを遺言としての処理をした。

 そうして、預けられたのが、ルクレツィアの双子の姉、マリアの元だ。マリアもまた、その少し前に出産していた。しかし、産まれ落ちたはずの彼女の娘は死産であった。

 二人は、仲の良い姉妹であったらしい。マリアの話に聞くルクレツィアは、賢いが頑固で、ひどく手間のかかる妹だったという。生来虚弱であったルクレツィアは、洗礼により予知(フォーサイト)の神聖術式を授かっていた。

 その強度は弱く、時たま漠然とした未来の映像が、見える程度であったようだ。

 こんなもの、勘の良い子なら察せる未来よ。予想にも、予測にも、大して役には立たないわ。とても、ささやかな御技ね。主は、意地悪よね。こんなつまらないものを与えて、福音となさるのですから。でも、何も出来ない私には、お似合いかしらね。などと、ルクレツィアは自嘲していたそうである。

 だが、彼女には妊娠後、自身の行く末を認識していた節がある。予知によるものか、ただの勘であったのかまでは、不明だが。

 彼女は事あるごとにマリアへ、自身の子を、姉さんの娘に、姉の子の、妹にしてあげて欲しいとせがんでいたそうだ。将来自分の産む子が、娘であると確信していた。そして、その娘が産まれた後、自分がいないことも。

 これらは、いささか不自然なことである。妊娠当時のルクレツィアは虚弱とはいえ、まったくの健康体であったし、胎内の子の性別診断は、妊娠後期である六カ月辺りを目安に行われる。これは、反射(エコー)の術式を応用した技術であり、母子の健康状態を測る過程での副産物であった。だというのに、妊娠の初期症状が出始めた頃には既にそう言っていたのだという。マリアが自身の妊娠を認識すらしていない頃でもあった。

 他にも、後に思えば、形態を変えた財産贈与とも取れる行為や、各所への心理的な繋ぎなど、様々な事を行なってもいる。

 その際に、ルクレツィアは夫、オリヴェートリオ・シシリア辺境伯でもあるヨアキムを頼ることはなかった。彼女の死後、彼が娘に行った振る舞いを省みれば、正しい判断であったと言えた。

 そしてアンナは、昏睡による母の衰弱とは裏腹に、伯母である乳母マリアの元で、すくすくと育っていった。

 同じ屋敷内の事である。マリアは眠れる妹の世話をする為に、アンナを『御使のおくるみ』に包んで抱き、ルクレツィアの部屋へと入り浸っていた。

 彼女はことある事に妹の、娘であるアンナへの愛情を表す様々な話を語った。その愛情溢れる優しい声色が、物心つく前からアンナには、大変に心地のよいものだった。

 誰に語る事でもないが、物心ついた後のアンナは、それを自身の原風景だと、想っている。

 謳うように、唄うように。自分を優しく抱き、語りかける大好きな人の胸の中で見る、世界の全て。

 いつも少し離れた場所、扉の前に立つマリアの夫、サルバトーレの視線は温かだ。そこから少し自分達に近い場所で椅子に座り、心配げに見守るドロテアは、何かに耐えるように、いつも歯を食い縛っている。厳しくも、優しい表情で。

 大好きな人、マリアが、とても愛おしいという想いを隠す事なく語りかけるのは、マリアによく似た、とても綺麗な人。母、ルクレツィア。

 母は、いつも眠っている。矛盾を孕んで。とても穏やかに、満ち足りた優しい表情で。そして、とても辛そうで、苦しみに満ちた表情で。

 いつだって、大好きな人マリアは、彼女によく似た綺麗な人ルクレツィアが、アンナをもっと、抱きしめたい。愛したい。と、笑っていたのよ。そう悲しそうに唄う。

 アンナはマリアに、そんな顔をしていて欲しくはなかった。胸の中で、ぎゅっと抱きつく。

 それに、眠ったままの綺麗な人、母は、そう思ってくれているなら、何故、目を開けて、自分を見てくれない。抱きしめてくれない。愛してくれない。自分の大好きなマリアにこんなにも愛されて、悲しませているのに。どうして、愛を返し、悲しみを拭い去ってあげないのだ。という怒りが募った。同時に、やはりこの人、ルクレツィアという名の母に、瞳を開いて、見て欲しい、声を、聞かせて欲しい、その胸に、抱きしめられたい。そしてどうか、愛されたい。という想いが募る。

 幼いアンナは、そんな複雑な感情の発露など知らないままに、ただ、燻らせていた。

 アンナの齢三つの誕生日が迫ったある日、母は更なる高熱を発し、酷く苦しげに、辛そうに、まるでそこから命が抜け落ちていくかのように、小さな呻きをあげていた。誰もが、もう先は長くないものだと悟っていた。

 大凡三年に渡る昏睡だ。いかに手厚く看病しているとはいえ、限界はある。元々身体の丈夫でない女性だ。生命維持こそなされているが、健康状態が保証される訳ではない。相変わらずルクレツィアの姿は美しいままだが、それだけだ。その間、辺境伯家の面々や周囲の人間が、ただ手をこまねいていた訳ではない。取れる手段の、ありとあらゆるモノを用いて、ルクレツィアの治療を試みた。知る限りの、あらゆる術式や薬を試みた。その為に、辺境伯家が大幅に傾いたのは必然だろう。

 それでも、ルクレツィアが意識を取り戻す事はなかった。

 苦しむ妹へ、マリアは看病を続けながら、絶えず治癒(キュア)の術式を施した。アンナも母の手を握り、苦しまないで、元気になってと励ましながら、母とマリアの汗を拭ったりして、懸命に看病を手伝った。

 ルクレツィアの周囲に在るのは、今ではたったの四人だけ。娘、アンナと、姉、マリア。そして、マリアの夫でもあるサルバトーレに、姉妹達が成人するまで、彼女達の養母であった、ドロテア。マザー・ドゥーラだけである。

 侍女や家令の姿は既にない。辺境伯家の財政の逼迫と共に、職を解いていたからだ。多くの者達が無給でも良いから残させてくれ。と言い募ったのだが、それを許さなかったのは、オリヴェートリオ・シシリア辺境伯当人である、ヨアキムその人だった。


 彼は情に流されることなく、正しい選択を選べる男であった。彼は最愛の妻が倒れて以後、少しずつ雇人へ新たな勤め先や嫁ぎ先を斡旋し、辺境伯家から人を遠ざけていった。

 彼は、自ら招いた結果であるが、自身の、そして、シシリア島領主、霊峰エトナ火山管理者たるオリヴェートリオ辺境伯家の行く末を、愛妻の予知のような不確かなものでなく、正確に予測していた。

 ここ三年、シシリア島は、不作、不漁であった。内陸部では冷害と塩害に襲われ、沿岸部では度重なる嵐に見舞われた。備蓄や、国や他領からの支援によりなんとか凌いではいたものの、財政は徐々に悪化した。加えて、恵み豊かな異界、霊峰エトナ火山も急激な生態系変化により、調査完了までの入山を規制している。これでは、財政の補填は難しい。

 とはいえ、時間を掛ければ、立ち直る事は出来たであろう。この程度の不運は、古来より繰り返された事だ。そして、彼の父祖達は、必ず立ち上がって来たのだから。

 だが、時期が悪かった。これらの不運に見舞われたのは、ルクレツィアが倒れた後の事なのだ。そして彼は、自身の性情を正しく把握していた。

 ヨアキムは有能な領主にして、管理者であった。領地運営としては財政再建と農業や水産業の立て直しを図り、異界管理としては生態系調査を急速に進めた。

 同時に、領主及び辺境伯位の返上と、異界管理の冒険者組合への移管を、王へと求めた。

 その三つの冠は、愛妻の治療法を探す事を優先したいヨアキムには、重すぎる負担であった。

 幸いに、領内統治の合議制への移行準備は整えられており、辺境伯位は領主の権威付けにすぎない。領内での絶大な権力は失うが、所詮は国家から与えられた代物であり、さしたる執着もない。彼が辺境伯として領主を勤め上げたのは、島民を幸福に過ごさせたいという想いでだけだ。それよりも優先したい事がある以上、任には耐えないと、彼は自覚していた。

 異界管理者としての立場も変わらない。領主としての仕事に都合が良いので、継いでいたに過ぎず、自分などよりも遥かな熱量を注ぐ者達を知っている。彼等なら、自分などよりも、きっと上手くやる。

 しかし当代のビタロサ国王は、ヨアキムの嘆願を認めなかった。どれほど、既に下地は出来上がっており、領地運営に問題のない事を説いても、また、新たな運営により齎される利益を説いたとしても、彼の王が首を縦に振る事はなかった。

 そんな折、ヨアキムへ、一つの誘いが来る。それは、王弟による、王位簒奪への協力依頼であった。

 王弟はヨアキムの同窓の友人でもある。若い頃からウマがあい、今日でも親交が続いている為、互いに近況は把握していた。

 彼は協力の見返りとして、政変の暁には、彼の一族を領主の任から解き、合議制への移行を認めると共に、霊峰エトナ火山の移管を進めるという。ただし、爵位の返上は認めず、俸禄こそ大幅に減らさざるを得ないが、代わりとして上位貴族に課された義務を、全て免除するとの誓いを立てた。

 これはヨアキムには、まさに渡りに船の話であった。彼もまた、協力の誓いを立てた、

 そして政変が成ったのは、アンナの誕生日が迫ったある日の事。ルクレツィアが高熱を発した、その日の事であった。


 大好きなマリアが怒ったように必死な顔で、治癒の詠唱を唱えながら、母、ルクレツィアの肌に噴き出る珠の汗を拭っている。その姿がとても悲しくて、寂しくて。やめて欲しいのに、やめて欲しくなくて。

 左手を握るアンナに、右手を握るマリア。娘と姉に挟まれたまま、ルクレツィアは苦しそうに、辛そうに。悲しそうに、寂しそうに。何かに苛まれるような痛々しい姿で、眠ったままだ。

 アンナは、マリアとルクレツィア、二人の母の、そんな姿が見ていられなくて、それでも視線を外せなくて、ポロポロと涙を零したまま、ただただ願い続ける。悲しまないで欲しい。苦しまないで欲しい。ほんの少しでも、貴女達の悲しみや、苦しみが、癒されますようにと。

 洗礼も、祈りも知らぬはずの齢三つにも満たぬアンナは、母達の悲しみや、苦しみが、ほんの僅かでも、癒されますように。そうあれかし。と、願い、心より祈った。

「我が心は、ただ汝に寄り添う。ただ一時の安らぎを。——安息(レスト)

 幼き唇から漏れ出た言霊は、詠唱だった。

 途端、苦しみに喘いでいたルクレツィアの吐息は安らかなものに変わり、マリアは眼を見開いて、息を飲んだ。

 自然と、再び紡がれる詠唱。

「我が心は、ただ汝に寄り添う。ただ一時の安らぎを。——安息(レスト)

 そして、奇跡が起こった。

 ゆっくりと、とてもゆっくりと、ルクレツィアの瞼が上がる。アイスブルーの瞳が、アンナを見詰めた。とても綺麗で、優しい視線だった。

 そして、美しい人は、手と唇を僅かに震わせた。アンナには、何がしたいかを察する事が出来ない。出来ないが、衝動のままに母の手を取り、その胸に縋りつき、顔を埋める。母の右手が、アンナの頭に添えられた。マリアがそうさせたのだった。

 アンナはその姿勢のままではいられない。初めて出会えた母の、その瞳を、その顔を、見たい。見ていたい。という想いが溢れる。そして、優しい水色の瞳と、視線が結ばれた。その人の唇が、震えている。視線を合わせたまま、ゆっくりと動く唇の動きを模倣する。

「あ」

 唇の動きに、アンナの声が重なる。

「い」

 そうしなければと、強く思ったからだ。

「し」

 聴かないと。聴かせないとと、強く。

「て」

 見えるはずもないのに、視えている。

「る」

 立ったまま涙を流す、サルバトーレの暖かい笑顔が。三人から目を離すことなく、祈りを捧げるドロテアの、優しい笑顔が。妹と娘の髪を優しく梳る、マリアの愛おしげな笑顔が。

 聴き終えて、言い終えて。頑張って、アンナも、笑顔をつくった。

 やがて、溢れる感情を隠す事のないアイスブルーの瞳が、開いた時と同じように、ゆっくりと閉ざされた。そしてアンナの母、マリアの妹、ドロテアの娘、ルクレツィアは、永遠の眠りへと旅立った。


 ——それからの事は、あまり覚えていない。ただ、ずっと、マリアに抱かれていた気がする。


 あの日、あの時。

 アンナは、母の全てを焼き付けた。それだけで、充分だった。それは、物品や金銭では、決して贖えないものだった。


 マザー・ドゥーラは、血の繋がりこそないが、間違いなく、マリアとルクレツィア、アンナの二人の母の、母親だ。だからこそ、こんなにも拘るのだろうと、アンナは思う。

 でも少し、思い違いをしてるとアンナは考える。ルクレツィアが「愛してる」と言ったのは、何もアンナにだけではない。マリアやドロテアは勿論、夫であるヨアキムや、義兄であるサルバトーレ。今は去ってしまった家人達から、街の人々。街や自然、ありとあらゆる世界そのものに、愛を謳ったのだと、アンナは感じた。

 だから、父に裏切られた時も憎めなかったし、遠くのどこかで、顔も知らない誰かが傷付いていると思うと、アンナの心は痛むのだ。それが、よく知る者達ならば、尚更だ。

 自分の思い違いかもしれない。けれど、確かにそう感じ、今もそう信じるからこそ、彼女は、成せる事を為す。

「ちなみに、これには、そう高度なものではありませんが、炎と海に対する抵抗力を上昇させる術式が付与されています。作者の銘は、ご承知ですね?」

「あの偏屈頑固親父のだよ」

「私の見積もりでは、それであれば、上級冒険者でも二組の雇用と、討伐報酬の支払いは可能なはずです」

「組合の手数料は高いんだよ」

「計算の内ですよ」

「まったく、飛んだお転婆に育ちやがって。一体、誰に似たんだろうね」

「間違いなく、お祖母様かと」

「ハンっ! 小生意気な小娘が! さっさと帰りな! マリアが待ってるよ。それと、依頼を受けた訳じゃないが、辺境伯様のご要望だ。悪いようにはしないよ」

 卒なく淑女の礼を取ったアンナが、お定まりの祈りの句を唱えると、マザー・ドゥーラも返礼しようと立ち上がる。

 するとアンナは腰を折り、頭を下げた。近年のビタロサではあまり馴染みのない、お辞儀と呼ばれる礼法であった。そして、呆気に取られるドロテアを尻目に、アンナは顔をあげると。

「ほんっと! ありがとね! おばあちゃん! 大好き!」

 満面の笑顔で、そう言った。

「さっさと出ておいきっ!」

 ドロテアが言い切る前に、アンナの姿は消えていた。彼女は、あんな気取った仕草をするより、今みたいに素直でいるのが、ウチの孫娘には一等似合うねと思いながら、主の御技を解除する祈りを捧げた。父と子と精霊の御名おいて、そうあれかしと。


「マリアお母さん。後でお話があるの。家の事を済ませたら、また来るから、安静にして待っててね」

 アンナは、まるで普通の娘のように、ただの子供のように。甘えた口調で、マリアへ求める。加減は既に大分良いようだが、未だ思うように動けぬマリアの世話をする中での出来事だ。あらあらと微笑むマリアも、その態度に思う所はないようだ。どころか、喜んでいる節さえあった。

「ねぇ。マリアお母さん。その後でいいわ。今日は、ルクレツィアお母様の話が、聞きたいの」

 マリアに否はない。許しているし、赦されている。寂しさを埋める幸福に、ただ浸る。それが、ただの代償行為だとしても。その日、久しぶりにアンナはマリアの胸に抱かれて眠った。


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