2話 カターニアの街で。
「ですから、そのような身勝手な理由で情報を握り潰すなど、あって良い事ではありません!」
無事カターニアの街へと帰ったアンナだが、現在、怒り狂っていた。場所は、借馬屋の応接室である。
マリアを治療院に送り届けた後、冒険者組合へ報告に訪れたアンナであるが、どうも会話が噛み合わない。組合の受付嬢曰く、低層での新たなエトナベア出現の報告は受けていないと言う。借馬屋から報告はなかったのか。と問い糺したものの、そんな事実はないとも返された。
何かの手違いで、御者の青年が戻っていない事を考慮し、確認の為にやって来たのが、ここ。借馬屋ブッテラである。
受付に尋ねると、御者の青年はここに荷物とお代を置いて、サルバトーレが詰めているシラクザの海城へ向かったのだという。
約束を守ってくれた律儀な青年に感謝をしながら、受付の言うままに、説明をしたいと言う責任者を待っていた。やがて現れたのが、ここブッテラの支配人を名乗る、中年男性であった。
応接室に通され、支配人による説明を受けたアンナであったが、彼の言葉を理解する事が出来なかった。
支配人曰く。エトナ火山低層でのエトナベア、それも変異種の出現が明らかになると、困ると言う。彼等の商売は馬貸しであり、最大の顧客は、移動や輸送でカターニアとエトナの間を往来する者達である。その為、入山規制や封鎖に繋がる情報の報告など、以ての外だと主張した。
「ですので、お嬢様。お嬢様が、御者へお譲りした荷物の内、何一つとして、お返しする事はできかねますので、悪しからず、お思い下さい」
その言葉に、激昂したアンナが反論と共に叫んだのが、冒頭の台詞であった。感情の昂りのままに叫んでしまったが、彼女は、自身に手落ちがあった。と認めざるを得なかった。
マリアが気を失った際、エトナベアにトドメを刺し霊核を回収しながらも、アンナはマリアへ治癒も併せての応急治療を行った。マリアは目覚めなかった。エトナの異界内部では、自生するもの以外の薬効が無効化される。そのせいで、彼女達は治療薬や回復薬の類を、持ち込んでいなかった。
致命傷を受けていないであろう事は確認できたが、意識がない。人は時として、意識を失ったまま、戻らずに死の国へと向かっていく事をアンナは知っていた。彼女の生母が、まさしくそうだったのだから。
彼女はとても冷静ではいられなかった。端的に言えば、非常に焦っていたと言い換えてもよい。
それでも、背嚢から『御使のおくるみ』を取り出して、自然薯を抱えたままのマリアを包み、自身に狂化を施しながら彼女を背負った。異界からの脱出と、更なる治療の為に境界へ向かうのは正しい判断であった。
落ち度があったのは、異界から脱出した後の事である。治癒を使い、手持ちの薬をありったけ使ったものの、マリアは目を覚さない。アンナは覚醒の理術を習得していないし、手持ちの気付け薬も内服薬である。意識のない者が服用することは非常に困難であった。第一、気付け薬は意識を失う前に服用し、その抵抗を行う為の薬である。無意識化にある者に服用させたところで効果はない。
この時、アンナは、急ぎ街へ戻る必要性を感じている。しかし街に戻ったところで、そこから治療の準備をしていては間に合わない場合もあるとも考えた。全力であれば馬が曳くよりも、自身で荷車を曳いた方が速い。それに、単騎駆けの馬ならば、自分が荷車を曳いて街へ帰るよりもいくらか早く街へ着くだろうとも予測ができた。
アンナが御者の青年へ騎乗の心得があるのかを尋ねると、果たして彼は本職は御者であるが、それなりに馬を駆る自信があると答えた。
アンナから、御者への依頼は三つ。
先触れとして街へ戻り、治療院へマリアの容態を伝える事。二つ目は、シラクザにいるマリアの夫、サルバトーレへ今回の事件のあらましを伝える事。そして最後に、冒険者組合へのエトナベア低層出現情報の報告であった。
先の二つについては、御者の青年は快く請け負ってくれた。しかし、冒険者組合への報告については彼には権限がない為、借馬屋に伝える事しか出来ないと渋られた。
それで良いとしたのはアンナ自身である。手持ちのありったけの現金と、かさばらないが、ある程度価値を見込める物品を見繕って、物証である霊核と共に青年に託した。その際に、理術により誓約書を作成している。
内容を要約すれば、これらの品を全て譲る代わりとして、上記三つの依頼を可能な限り叶えて欲しいというものだった。
社会の多くの場所で用いられる誓約書。理術により作成されたといっても、改竄が不可能なだけのただの紙切れでしかない。
契約が履行されるまで不変不壊であり、契約者双方を強力な呪いで縛る契約書とは異なり、特別な効果はなかった。
それでも多くの場面で使用されるのは、法的、社会的な拘束力があるものと人々に広く信じられているからこそである。
互いに印を刻んだ同一内容の誓約書を交換し、相互所持する事は習慣上、ありふれた事象であった。
その一通が、ここ借馬屋ブッテラの応接室に置いてある。アンナの所持する物ではない。となれば、御者の青年に渡したものであった。
「ですから、当然ながら、彼からの報告は受けておりますよ。治療院の手配も我々が行いましたし、急ぎシラクザへ向かうと言う事なので、ここで一等速く、丈夫な馬を用意させました」
「ですから! 早急に組合へ報告しないと、大変な事になってしまう可能性があるのです!」
「そう仰られても、お嬢様。大変な事となってしまう可能性とは、具体的には如何様な物事で?」
アンナはその問い掛けに、明確に答える事が出来ないでいる。
彼女には、変異種発生から始まる、生態系の進化爆発という知識があった。それにより、現在の霊獣対策が機能しなくなり、霊峰エトナ火山による大いなる恵みが、やがて危険極まりない魔境へと変化するであろうという予測もあった。そうなれば、財政を霊峰エトナ火山に大きく依存するシシリア島第二の都市カターニアは経済的に疲弊し、緩やかな衰退に繋がるだろうという危惧もあった。
それらをアンナは、説得力のある仮説として、上手く伝える事が出来ていない。
当然だった。それらは漠然とした不安からの予想であり、曖昧な憶測でしかないのだから。アンナの説明には、具体性が足りていなかった。
だからこそ、そこを突かれる。加えて、懸命に説明する度に、それは不要な心配、そこまでいけば、もはや妄想ですな。などと返され続けていれば、彼女としても、感情を昂らせる事しか出来ない。未熟の自覚があるだけになお一層、アンナの心は傷付いていた。
「可憐なシニョリーナに、涙は似合いませんよ。ほら、お嬢様。涙をお拭きください」
アンナの頬を、熱いものが伝った。悔しさに、いつの間にか涙を流していたようだ。
支配人が、歯の浮くような台詞と、気障ったらしい仕草で、ハンカチを差し出している。
アンナが自身のハンカチで涙を拭うと、支配人は、やれやれと苦笑していた。
「何度も申し上げましたが、私共は何一つ、間違った行いはしておりません。どころか、お嬢様のご依頼を叶えるべく、充分に尽力したと言って、過言ではないでしょう」
そう。確かに彼等は、何一つ間違った事はしていない。それはアンナも理解している。ただし、それが正しい行いという訳ではないことも、彼女は悟っていた。
実際、治療院の手配は大きな助けとなった。医師により、マリアの身に心配がないと説明された事実は、アンナへ大きな安堵を与えた。
シラクザへの早馬だって、相当な厚意である。早馬の乗り継ぎなど、非常時でしか行われる事はないのだ。そこまでしてくれている。
料金を支払い、馬と御者とを一時の間、借り受けたアンナ達。代金を受け取り、所有する財産を、期間限定で貸し出した借馬屋。
両者は、ただそれだけの関係である。一介の客に対し図った便宜としては、過分に過ぎる扱いだった。それをあからさまに聞かされては、言動の裏に潜む意図を、汲み取らぬ訳にはいかないだろう。
「お騒がせして、大変申し訳ございませんでした。今回頂いた数々のご厚意に、感謝いたします。後日、改めてお礼を申し上げる時間を頂く事を、お赦し願えますか?」
未熟であるが、愚鈍ではないアンナだ。それを察せぬはずもない。となれば、過分の裏にある意図を探るのは習慣づけられた癖である。思考に沈めば、自然と昂りも鎮まった。
そして、アンナは切り替えた。
完璧な淑女の礼を披露し、後日の約束を取り付ける事で、溜飲を下げて。
「で、お嬢ちゃん。アンタ、確か、お山の調査依頼を受託中だろ? 間抜けなお付きが下手こいたから怖くなって、ピーピー泣きながら逃げ出してきたってのかい? それとも、馬屋の糞ガキにいびられたからって、大人に泣きつきにでも来たのかい? どっちにしろ、ロクなもんじゃないさね。アタシゃ、暇じゃないんだよ」
「ごきげんよう。マザー・ドゥーラ。相変わらず、お耳も、お口も達者なようで、喜ばしいことですね」
「年寄り扱いなんざ、三十年は早いよ。小娘。おかげさまで、目だって達者さね。腰をいわす程鈍ってもなけりゃ、歯だって丈夫さ。無論お頭の方だって、フサフサで、スッキリしたもんさね」
「性根の方も、変わらずひん曲がったままのご様子で、安心しましたよ。ギルドマスター」
「そのクソダサい呼び方は、おやめ。まったく、減らず口が叩けるようなら、心配ないね」
均整の取れた肢体を、質素な修道服に包んだ女性。冒険者組合シシリア州統括にして、ギルドマスターの称号を与る聖女。マザー・ドゥーラが、唇を上げて快活に笑った。
「心配して、くだすったのですね!」
「阿保娘。言葉の綾だよ」
アンナが元気良く返すと、面倒臭そうな顔をして、二言で切って捨てられた。
彼女の亜麻色の髪は、栗色に近い。白い肌に、眦の少し上がった翠色の瞳。挑発的に口角を上げたままの唇は、艶かしく紅い。
乱暴な言葉遣いと、精気に満ちた表情は、教会の掲げる修道女像とは、似ても似つかないものである。その上、声には力強い張りがあり、身には有り余る覇気が漲っていた。
アンナから見たマザー・ドゥーラは、聖母よりも、覇王の称号の方が、余程相応しいように思えた。教会には、そんな称号はないのだが。
「で、お転婆アンナお嬢ちゃんは、一丁前に、懺悔にでもしに来たかい? 見ての通り、部屋なら空いているよ」
どうやら事情は丸呑みであるようであった。そんな彼女の抜け目のなさが、アンナには頼もしい。冗談混じりの提案は、アンナにとっては天祐に等しかった。
「告解……。その手段もありましたか。ええ。そうしましょう。いえ、それがいいですね」
「アンタ、いちいち重いねぇ。せっかく、通りの良い新教の言葉で誘ってやったってんのに。察しが悪い娘は、モテないよ」
愚痴るマザー・ドゥーラを尻目に、アンナは、敬虔な信徒ではございませんので。と笑った。続けて、父と子と精霊の御名によって、そうあれかし。と、祈りを捧げる。
同様に、そうあれかし。と、聖母も祈りを捧げると、冒険者組合シシリア州統括室は、清冽で神聖な雰囲気を持つ結界に、瞬く間に覆われた。
修道女という立場のまま、唯一神教で列聖されたマザー・ドゥーラが主に用いるのは、当然ながら神聖術式である。
その生涯と、祈りを以てして為す神聖術には、特異な効果を持つものが多い。その一つが、この結界を展開する術式である。理術においては、唯一神教徒へ敬意を払い、神の領域と呼ばれている。
「雰囲気もそうですが、凄くかっこいいですよね。このディヴァインフィールド。便利ですし」
「主の御技を、わざわざ、そのクソダサい名前で呼ぶんじゃないよ。あと、便利とか言わない。天にまします我らが主には、ありがとうございます。って、ちゃんと感謝しとくんだよ」
神聖術者には、大変不評であるようだが。
神聖術式とは、自ら起こした誓願と、行い。それらを糧として、祈祷によって為される秘蹟だとされている。敬虔な唯一神教徒からしてみれば、主の御技の顕現なのだから、術式と見做されることは大変に遺憾であった。術者と呼ばれる事すら嫌う者もいる為、他の術式のような名付けは行わない。他称される術式名の悉くが彼等にとってはひどくむず痒いモノだった。
「いっつも思うんですが、これって、異界ですよね。しかも、結構都合の良い異界」
「知るかい。どうしても気になるってんなら、主にでも直接お尋ねするんだね」
気楽な言葉を囀るアンナ。彼女には、この結界内の雰囲気が好ましい。理由など思い至らぬ感覚的なものであるが、何とも寛げて、安心するのだ。緊張を解すためと言い、柔軟体操をしているが、別に彼女自身、その必要性を感じてはいなかった。単純にこの空気の中だと、柔軟体操が捗る気がするだけである。
「主様って、きっと、酷いけちん坊さんですよ。私だって、毎朝起きた時とか、毎晩寝る前にとかにも。それに、ご飯の時や、お風呂の間だって、欠かさずお祈りしてるのに、全然降りてきませんもん」
「精進が足りんよ。バァカ」
片眉を跳ね上げたマザー・ドゥーラだが、短い罵声に留めた。爛漫に微笑む、この憐れな少女のみならず、街のそこら中で捧げられる祈りなどの習慣は、広く文化に根付いたものだ。それらは全て、先人達の事績であった。
「あーあ。私にも降りてきてくれたら、すぐに敬虔な信徒になっちゃうのになー」
知性を幼児退行させたように、甘えた声音で嘆息するアンナへ、マザー・ドゥーラが真面目におやり、そろそろ始めるよ。と、叱ると、アンナは態度を凛としたものに改める。苦笑を拭い去って聖母に相応しき敬虔な表情となったマザー・ドゥーラは、先程まで読んでいた書籍に栞を挟むと、パタリと閉じた。
「解っているだろうが、調査隊の編成や、報酬の見直しは現状じゃ無理だ。それを踏まえた上で、どんな話があるってんだい?」
口調はそのままに、されど厳格に。冒険者組合シシリア州統括者が尋ねると、アンナは嫣然と微笑み、淑女の礼を取った。借馬屋での事と同じく、相変わらず野暮ったい服装のままでありながら、実に品位ある所作であった。
「主の声に、心を開いてください。主の慈しみを信頼し、貴女の罪を、告白してください」
それに応えるように、聖母が口調を優しく変え、告げる。すると、告解の場に相応しい静寂が、とても穏やかなものに変わる。
アンナが前回ここへ訪れた日時を告げると、聖母は黙したままに頷いた。
「アンナ・マリア・ルクレツィア・ドロテア=オリヴェートリオ・シシリア辺境伯の名と身において、ドロテア・テレサ=ルッソ。冒険者組合シシリア州統括にして、唯一神教聖女、マザー・ドゥーラへと依頼する。内容は、冒険者組合への、本来の生息域から逸脱したエトナベアの討伐依頼要請と、霊峰エトナ火山低層から中層にかけての、調査隊の編成依頼です」
「無理だと、言ったね?」
「現状では、でしょう?」
言うと、アンナはブラウスのボタンを外し、胸元を寛げる。露わになったのは、下着越しだが実り始める前の膨らみの、そこより少し、高い位置。
そこにあるのは、首元から鎖骨までを覆う、揺らめく炎のような、海を奔る波のような、複雑で精巧な意匠の絢爛たる黄金。北方神話において、とある愛と美と豊穣の女神が四柱の神々に身を捧げてまで創らせたという、至上の首飾り。ただ美しいというだけで、神々の間にさえ諍いを起こさせる美神。その首元に、ただ輝くだけの象徴にして、至高無能の装飾品である神器。
「ブリーシンガメン……」
「形状は、模倣したものとされていますね」
そっと首飾りを外して机上に乗せると、アンナは襟を正し、ボタンを付け、元の慎ましい楚々とした娘の姿を取り戻した。
「これは、ルクレツィアの……」
「形見のような物だとは、承知しております。だからこそ、肌身離さず着けていましたので」
「マリアは?」
アンナが首を横に振ると、マザー・ドゥーラは深く、だろうねぇ。と、嘆息する。
「アンタ、正気かい?」
「冷静だからこそ、依頼の報酬を見積もって、それで贖う事が妥当だと、判断しました」
「不孝者がっ」
小さく吐き捨てるドロテア。アンナはその憤りを見ている事が辛くて、思わず目を伏せた。
アンナには、ドロテアやマリアの抱く感情が解らない。無論、形見の品へ向ける感傷自体は、共感出来る。そういった物であるからこそ、肌身離す事なく身に着けていたのだし、外せばやはり寂しさが募った。
——やはり私は、あの人に似て、冷酷な性情なのだろう。そういった思いが、こういった場面では、寒風のように吹き荒び、益々思考を冴えさせてゆく。
そこに感情の揺れはないと、彼女自身は信じている。それは非常に都合の良いことだ。とさえ思ってもいた。ギリギリと音を立てて、ドロテアが強く歯を食い縛る。その音色を耳にしながら、遠い過去、自身の幼少期へと想いを馳せた。
充分に満ち足りていたはずなのに、寂しくて、悲しくて、どうしようもない程の激情で、憧れを追い求め続けていた、あの頃へ。