悪夢
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──悪夢
夢とは人の鏡であり、聖域だ。
人はその神聖なる場所にて真に孤独となり、鏡を直視して己の内面と対峙し、それによって自分を認識しなおす。
それゆえに悪夢と言うのは恐ろしい。
鏡は叩き割られ、聖域は無残にも犯され、孤立した人間を恐怖が包囲する。夢という無防備な環境で、人々は悪夢に抗う術を持たない。
帝歴1915年4月2日に起きた事件は、まさにこの夢に関係していると思われている。
この日、複数のカルト集団の信徒たちが集団自殺した。
彼らは前々から異端の神を崇めていると思われていたものたちで、閉鎖的なコミュニティで、周辺住民に不気味がられていた。
カルトの崇拝していたとされる異端の神の名は複数上がっている。
“腐肉の女王”、“混沌の主”、“玉座に蠢きし闇”、“偉大なる冒涜”。
恐らくはこれらは表現が異なるだけであり、共通の存在を指すのではないかと思われているが、現状ではそれを確認することはできない。
集団自殺が起きる数日前から、このカルトに所属する一部の人間が酷い騒動を起こし、出動した国家憲兵隊によって拘束された。
その後、国家憲兵隊によって彼らは聴取されたが、その内容な支離滅裂で、要領を得ないものであった。そのため国家憲兵隊所属の精神科医が自身と周囲に危害を及ぼす可能性ありと判断して精神病院に収監された。
そして、4月2日に事件は起きた。
今のところ新聞社やラジオは自殺したのはカルトの構成員だけのように報じているが、それは事実ではない。
自殺した人間の中には著名な芸術家や神学者、哲学者などが含まれており、彼は一様に遺書に『おぞましき悪夢にて、この世の終わりを見た』と記している。どの遺書でも悪夢について必ず触れられていた。
いったい彼らはどんな悪夢を見たのか?
カルトのメンバーが収容されていた精神病院でも自殺は起きていた。彼らはあらゆる手段を使って自分の命を絶ったが、幸いなことに生き残ったものもいた。
その人物から我々は彼らが見た悪夢について知るすべを得た。
自殺未遂から生還した患者のひとりは、かつては帝都の美術学校でも教鞭をとっていた人物で、彼は容体が安定したのちに絵を描き始めた。
最初は自分の血と便を使って閉鎖病棟の壁に記していたものだが、病院側から安全を確かめた上で画材が渡され、キャンバスに彼は絵を記し始めた。
そこに描かれた光景は思わずぞっとするものだった。
血にまみれた腐肉のような赤黒く塗りたくられたキャンバスに描かれていたのは、何かの屋敷のような建物の正門。その正門を潜るように描かれているのは少女。
腐った臓物の中で何千何万の蟲がうごめいているかのような、不気味な絵の中で、その少女だけは人間ばなれした美しさを有して描かれていた。それは地獄に降り立った天使であるかのような姿であった。
これが彼らの見た悪夢を示唆するのであれば、一体何を意味するのだろうか?
そして、この忌まわしき異端の崇拝を連想させる絵画で、真に恐ろしいのは周囲に不気味な蠢く蟲たちだろうか、それともその中に平然と佇む少女の方だろうか……。
帝歴1915年4月9日のノルトラント新聞朝刊より。
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