3-1.悪意と善意と
朝。千野家リビング。
登校の準備をグズグズと終えたチカは、遅刻寸前で漸く家を出る覚悟を決める。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃーい」
母は視線をテレビに向けたまま、チカを送り出す。テレビ画面では、朝からまた狭間キョウスケが好き放題言っていた。
「……動画配信デビュー? 終わってますね。世間に忘れられまいと必死だ」
嫌な男の嫌な声を背に、チカは家を出た。
登校中、いくつかの視線を向けられたが、チカは黙々と歩いた。
(誰にも話し掛けられませんように)
辿り着いた教室は、少しだけホッとする。しかし、扉を開けた途端、嫌な空気を感じた。昨日とは違い、チカに注目が集まるわけではない。ただ、教室全体の動きが止まっているようで――
(なんだろう……?)
見回すと、教室の前方でココナがユウリたちに囲まれていた。
(え?)
チカは言葉を発することもできずに立ち止まる。チカに気付いた宮田が、スッと近づいて耳打ちした。
「おはよ。雨嶋さんが本匠さんに暴言吐いて……」
「ココナが?」
チカは驚く。ココナは陰で色々言うことはあるが、それを直接本人に言うような子ではない。一体なぜ。
困惑するチカに、ココナが気付いた。
「チカ!」
名前を呼んで、駆け寄ってくる。
「ねぇ、チカ、変身してよ!」
「えっ!?」
唐突な内容にチカは更に困惑する。
「みんなに見せてやって、魔法少女の力!」
「で、できないよ……」
「どうして!?」
チカこそ「どうして」と聞きたい。なぜ、みなに変身を見られなければならないのか。そんなの絶対に嫌だ。
首をブンブンと横に振るチカに、ユウリが近づいてくる。
「あんたさぁ、魔法少女に選ばれたからって、自分が偉くなったつもりなの?」
そんな第一声と共に、ユウリがチカを見下ろす。彼女の怒りに満ちた瞳は、揉めていたココナではなくチカに向けられていた。十センチほどの身長差。スラリと手足の長いユウリに迫られ、チカは萎縮する。
「わ、私はなにも……」
「そうやって、自分は何も知りませんみたいな顔して、陰でこいつと笑ってるんでしょ?」
ユウリはココナに一瞬だけ視線を向け、すぐにまた燃えるような眼差しでチカを睨む。
「私のこと『負け犬』って笑って馬鹿にして……っ!」
ユウリがギュッと拳を握る。身体が震えていた。
「ふざっけんなよっ!」
怒りに満ちた言葉がチカを殴打する。心臓がドクドク鳴って苦しい。
怖い――
チカは、小さく首を横に振った。「違う」というたった一言が言葉にできない。
ユウリが口を開く。怒りに震える声が「ふざけんな」と繰り返した。
「お前が魔法少女とか、おかしいだろっ! なんもできねぇくせに! なんでお前なんだよっ!」
彼女のその一言にチカはハッとした。チカが魔法少女に選ばれて以来、ユウリに絡まれることはあっても直接対峙することはなかった。今、目の間に立つユウリは怒っているが、それ以上に苦しそうだった。
(そう、か……)
チカが押し付けられた「魔法少女」は、彼女にとっては望んでやまない「魔法少女」なのかもしれない。自らの意志で辞めることもできなければ、自らの意志で成ることもできない。厄介で面倒で、チカにとっては最悪のシステム。
辞めれるものなら辞めたい。譲れるものなら譲りたい。
それができない以上、チカにできるのは――
「ご、ごめ……」
口にしかけた謝罪の言葉は、ユウリの鋭い視線に阻まれる。彼女がボソリと呟いた。
「……死ねよ」
「っ!」
チカは息を呑んだ。ユウリが嗤う。
「死ねよ、さっさと死ね! そしたらまた新しい魔法少女が選ばれるから! さっさと消えろ!」
「っ!」
(なんで……)
誰かに死を願われている。軽い気持ちでで吐き捨てられる「死ね」とは違う。本気で「チカがいなければいい」と思う人が目の前にいる。
苦しい、悲しい、辛い。
色んな感情がグチャグチャになって、それでも一番は「怖い」という思い。助けてほしくて隣を見るが、ココナもユウリの剣幕に押されて俯いてしまっている。チカを見ない。彼女の態度に腹立たしさを覚えた。
どうして、なんで、私ばかり――?
チカは何も言っていない。揉めたのはココナではないのか。
溢れる感情を抑え切れず、涙になって流れ出した。ユウリがまた嗤う。
「ねぇ、いつ消えてくれんの? 世界のためにもさっさと消えてくれない? あんたが生きてると世界のためになんないからさ」
もう、無理だ――
逃げだそうとした時、 チカの右腕をギュッと掴む人がいた。宮田だ。チカを庇うように一歩前に出ると、スマホをユウリに向かって掲げた。
「撮ったから」
「は?」
「今の本匠さんの言葉、全部録音した」
「なっ! っざけんな! 消せよ!」
取り乱したユウリがスマホを奪おうと手を伸ばすが、宮田はサッと体の後ろに隠してしまう。
「消さない。本匠さんも、自分で『マズいこと言った』って分かってるんだよね?」
「っ!」
「これ以上、千野さんに酷いこと言うなら、これ、ネットに上げるからね」
脅しの言葉に、ユウリは大きく目を見開く。それから、憎々しげに宮田を睨んだ。チカの腕を掴む宮田の手が震えている。それでも彼女はユウリの視線を真っすぐに受け止めた。
「千野さんだって、好きで魔法少女になったわけじゃないでしょう」
彼女の言葉に、チカはビクリと身体を震わす。チカの後ろ向きな気持ちを見透かされたようで怖かった。宮田が「なのに」と言葉を重ねる。
「私たちのために魔獣と戦おうとしてくれるんだよ? よくそんな酷いことが言えるね」
宮田の声は怒っていた。然して仲がいいわけでもないクラスメイト。そんな認識しかないチカのために、彼女は怒ってくれている。
チカの中に熱い思いがブワッと広がる。涙がまた零れた。
「……確かに」
宮田に同調するように、教室の別の場所から男子たちの声が上がる。
「千野、俺らのために戦わなくちゃいけないんだよな。そんなキャラじゃないのに」
「別に、本匠から魔法少女奪ったわけでもねぇし。死ねとか言うか、普通?」
教室内の風向きが変わる。傍観に徹していた周囲が、数の力を以てユウリに矛先を向けた。
「お前さぁ、自分が選ばれなかったからって人にあたるなよ」
「だいたい、次は自分が選ばれるとか思ってるのが痛くない?」
「っ!」
ユウリが大きく息を呑んだ。怒りに満ちた形相で言い返そうとして、けれど、何も言わずに口を閉じた。唇を噛み、真っ赤な目でチカを睨む。
「あんたなんか……!」
そこで言葉を切り、フイと顔を背ける。そのまま、チカを押しのけるように大股で歩き出し教室を出ていく。
「ユウリ!」
彼女の友人たちがその背を追って教室を飛び出した。
チカは唖然と彼女らを見送ったが、ハッとして隣を向く。
「宮田さん……!」
言いたいことはいっぱいある。助かったとか、巻き込んでごめんとか。でも、一番伝えたいのは感謝だった。
「あの、ありがとう。……ああいう風に言ってくれて」
庇ってくれただけじゃない。
――千野さんだって、好きで魔法少女になったわけじゃないでしょう。
チカに寄り添う言葉。チカが口にできない思いを、代わりに言葉にしてくれた。嬉しくて、自然と涙が流れた。宮田が困ったように笑う。
「ううん。……その、私もまだ千野さんとどういう風に接していいか分からなくて」
言い淀んだ彼女は、「でも」と告げる。
「あの、応援してるんだ、千野さんのこと」
照れたように「ごめんね、勝手に」と付け足す彼女に、チカはブンブンを首を横に振る。背後から、「あのさ」と男子の声がした。
「俺も、千野のこと応援してる」
それを皮切りに、教室のあちこちから、「私も」、「俺も」と声が上がる。
チカは、誰ともなしに頭を下げた。
「……ありがとう」
面映ゆい気持ちでいっぱいだった。運動も勉強も得意ではないチカが、みなに期待され、応援される。初めての状況はチカの想像とは少しだけ違った。
(ただのプレッシャー、だと思ってたのに……)
確かに、プレッシャーはプレッシャー。未知の状況は怖いことのほうが圧倒的に多い。だけど、目に見える範囲の人の期待に応え、目に見える範囲の人を守るためなら、チカでも頑張れる気がしてきたのだ。
(リコちゃんと比べたら、全然駄目なのは変わらないけど……)
周囲の期待は、チカが思ったよりも温かい。
(私が頑張ればみんなを守れるんだ)
不思議な気持ちだった。チカの知らないパワーが生まれてくる。
始業のチャイムと共にみなが自席に着く頃には、チカの涙はすっかり乾いていた。
チカが椅子に腰を下ろすと、ココナが「良かったね!」と近づいてくる。
「みんなチカの味方じゃん! ユウリがいなくなってせいせいした。やっぱり、負け犬は負け犬だね」
途端、チカの胸が重く塞がれる。意を決して顔を上げた。
「……ココナ、そういうのやめて」
「え……?」
「人のこと、負け犬とか言うの」
ココナが驚愕に目を見開く。チカが「言い返した」ことが信じられないのだろう。
(きっと、それもよくなかった)
いつも穏便に、彼女を諫めることなどなかったから。
「……それと、私をだしにするのも止めてほしい。魔法少女に選ばれても私は私」
ユウリと揉めたくないし、揉め事に巻き込まれるのも嫌だ。
「私は、勝ったとか負けたとか考えてない」
チカが言い切ると、ココナは顔を真っ赤に染めた。怒りと、多分、羞恥で。
「っ! 生意気……!」
そう吐き捨てたココナは「調子にのらないで」と声を顰める。
「あんただって、ずっとユウリのこと羨ましいって思ってたでしょ。本心では見返してやったって思ってるくせに」
毒のような言葉を残して、ココナはクルリを身を翻す。自席に向かう彼女を、チカは黙って見送った。




