さざんか
無姫様のお部屋には、屋敷の多くの者が挨拶に行きました。皆、扇子や美しい刺繍の入った布、鏡やくしなどの贈り物を持って一声かけるものですが、ある日の朝、朝光様が庭の山茶花を持って無姫様をおたずねになりました。
「私が弟で驚いた様子であったな。」
はっはっはと大きな声で笑いながら朝光様おっしゃりましたので、無姫様は、
「私をからかって何が楽しいのです。」
と一重の大きな目を開いて、強い口調で返答されました。
「別にからかっているのではない。これから義理の兄妹として、仲良くしようということだ。その贈り物として庭の山茶花を持って参った。」
枝から切られた、何色にも染まっていない美しい白い山茶花でありました。先程まで花に乗っていた雪が溶けて水になりしたたって、朝光様のお手はかすかに濡れて冷え、赤くなっておりました。
「これはどうも、恐れ多いことで。寒いでしょうから、お早めにお部屋へお戻りくださいませ。」
無姫様は、朝光様のお手に触れないように山茶花を受け取ると、深々と頭を下げてお部屋の戸をお閉めになりました。無姫様があまりにそっけない対応をされるので、朝光様は驚いて、氷のように冷えた手を吐息で温めて、身も心も冷えてしもうた、と呟き、ゆっくりとした足取りでお部屋へお戻りになりました。
無姫様は受け取った山茶花を机に置かれると、机の黒と山茶花の白が上手く映えて、身が温まるものね、と呟かれました。
婚礼の儀からひと月が経ちましたが、初夜から一度も俊光様のお床入りはございませんでした。
「初。私、嫌われているのかしら。」
無姫様がついに弱音を吐くと、初は
「そのようなことは決してございませぬ。」
と言うので、
「ではなにゆえ俊光様は私に会おうとなさらないのだ。」
と問われると、初は
「ならばいっそのこと、無姫様から会いに行かれるのはいかがですか。」
と答えました。すると無姫様は、
「そのようなこと、できるはずがなかろう。」
と眉間にしわを寄せておっしゃりましたが、初が行こう行こうと言うので、仕方なく無姫様は俊光様のお部屋へ向かわれました。
「今お時間よろしいですか。無姫です。」
と声をかけると、俊光様は戸の向こうで驚いているご様子でしたが、少しして、
「入れ。」
とおっしゃりました。そして無姫様に何の用かと聞かれたので、無姫様は、
「お変わりはないかと存じまして。」
と返答されると、俊光様は棚から物を取り出して、
「すまぬが今は忙しい。」
とおっしゃりました。無姫様はやはり慕われていないと思い、ご無礼いたしました、と言うと、廊下で待っていた初に、
「やはりお忙しいご様子。」
と言うと、寂しそうな顔をなさって、さくらに戻ろうとした時、前を朝光様が通りかかって、
「わざわざ部屋に行くなんて、無姫様も暇してるなぁ。」
と冗談交じりに皮肉をおっしゃったので、無姫様は、
「暇などしておりませんわ。あなたには関係のないことです。」
と言いましたが、朝光様が
「兄上のお床入りはないのか。」
と今度は真剣におたずねになったので、無姫様は思わず足を止めて、
「朝光様には言いません。」
とだけ言って、さくらへお戻りになりました
その晩、無姫様はなかなか眠りにつけず、それは俊光様がいらっしゃるやもしれないとお思いになったからでありました。
翌朝、机の上をふと見ると、あの時もらった山茶花はとっくにしおれて、美しかったあの白色は、なんとも汚らしい黄ばんだ色になっておりました。初がそれに気がついて、山茶花を花瓶から出そうとしたので、無姫様は
「待って。あと一日だけ、置いておきたい。」
とおっしゃりました。初が、何故ですか、と尋ねると、
「しおれた山茶花が好きだからよ。」
と静かに返答されました。
その日の昼、俊光様の使用人が、無姫様のお部屋をたずねました。
「ご側室の雪姫様が、ご懐妊です。出産は、十月頃でございます。」
部屋の中には、無姫様と初を含む四人の侍女がおりましたが、それを聞くと皆驚いて、呆然としました。
無姫様は何も言わずに、お部屋の奥へ行ってしまわれました。初が言葉のかけ方に困っていると、無姫様はそれをお察しになって、
「もう良い。私に魅力がないのだ。」
とおっしゃったので、初はすかさず
「そのようなことは決してございません。」
と言いましたが、無姫様は、
「そうなのだ。」
と泣きながら声を張り上げられたので、初も
「私はそう思うたことは一度もございませぬ。」
と言いました。無姫様は、これには何も答えず、ただただ子供のように泣くばかりで、それを慰めることしか初には出来ませんでした。
雪姫様というのは無姫様より八つ年上で無姫様が嫁いだニヶ月ほど後に側室になられたのでした。こんなにも立て続けに妻を取るというのは異例で、俊光様は周りから猛反対を受けましたが、それを押し切り結婚されたのでした。結婚といっても、雪姫様は力の弱い家の末娘でしたし、正室ではございませんので、婚礼の儀は行わず、お部屋も俊光様や無姫様のお部屋とは違い別棟で、無姫様のお部屋の半分もないような狭いお部屋でありました。侍女も五人ほどしかなくて、赤松殿に嫁いだとは思えない暮らしをしておりましたが、それでも雪姫様は誰よりも俊光様のご寵愛を受けておりました。当然ながら、正室が側室に対して妬みを持つというのは、正室にとって最も恥じるべき行為であり、下品なことでありますので、無姫様がお部屋の奥で泣いているご様子に、侍女たちは大変驚きました。無姫様はしおれた山茶花を手に取って花びらを軽くお触りになると、花びらはすぐにちぎれて、床へ落ちていきました。
「無姫様。朝光様からのお手紙にございますけれど、どういたしましょう。」
と一人の侍女が無姫様に一通の手紙を渡しました。簡単な手紙で、そこには丁寧な字でこう書かれておりました。
ーあげた山茶花はもうすっかり枯れているだろう。昨日は床入りについてつまらぬことを聞いた。すまなかった。気分転換に和歌でも詠むと良い。良いのが出来たら、ぜひ私にも教えてくれ。 朝光
無姫様の状態をお察しして、和歌を提案してくださったことに、無姫様は、ありがたいことだ、と思って、思わず微笑みを浮かばせられました。
無姫様は八人の侍女を連れて、雪姫様のお部屋である「つばきの部屋」に行かれました。無姫様がいらっしゃると、雪姫様は驚いて、深々と頭をおさげになりました。
「雪姫様。ご懐妊、大変喜ばしいことで、お慶び申し上げます。」
と無姫様がおっしゃったので、
「わざわざつばきまで、恐れ多いことでございます。」
と雪姫様がご返答なさると、
「良い子をお生みになってくださいね。」
と無姫様がおっしゃいました。
「まだお若いのに正室で、私とは背負うものが違うと思いますが、どうぞこれからも、よしなに頼みます。」
と雪姫様が言って、もう一度頭をお下げになったので、
「雪姫様が羨ましい限りです。」
と無姫様も軽く頭をお下げになると、さくらへ戻っていかれました。
これには侍女たちも大変驚いて一度顔を合わせると、またすぐに無姫様の方を見て、無姫様の後ろを歩いていきました。
日が暮れて、もうすっかり暗くなった頃、無姫様がぼーっと庭の景色を眺めていますと、庭の向かい側で朝光様が会釈をなさって同じように庭の景色を眺め始めましたので、無姫様はなんだか気まずくなって、お部屋の戸を閉めてしまわれました。
「朝光様は私を気遣っているのか、からかっているのか分かりませんわ。」
と初におっしゃったので、初は
「気遣っておられるのですよ。」
と返答しました。無姫様はしばらく黙ると、急に立ち上がって、
「少し話をしに行くわ。」
と朝光様のお部屋に向かわれました。朝光様は既にお部屋にお戻りになられていたので、戸を二度叩いて、お部屋へお入りになりました。朝光様は驚いておられましたが、無姫様はそれを無視して、
「和歌を詠む気分ではないし、部屋にいるのも気が重く。」
とおっしゃったので、朝光様は
「私の部屋に来たとて、何もないであろうに。」
とご返答されました。すると無姫様は
「自分の部屋にこもるよりはましです。」
とおっしゃって、朝光様の隣にお座りになりました。朝光様は下を向いてふっと笑いになって、
「では気晴らしに屋敷の外へ散歩といたそう。お前も来い。」
とおっしゃったので、無姫様は
「仕方ないのでついていきます。」
と立ち上がって、初と三人で屋敷の外へ散歩に行かれました。
朝光様は無姫様の歩幅に合わせて、ゆっくりと隣を歩かれました。
川沿いまできて、魚がピシャピシャと音を立てるのが聞こえたので、無姫様はそばにしゃがんで、手を吐息で温め寒そうに川を覗き込まれました。すると朝光様は、着ていた黒い羽織を脱いで、無姫様の背中にかけてやりました。無姫様は驚いて後ろを振り返られると、朝光様が
「ほら見ろ。魚が近くにおる。」
と指を差しながらおっしゃったので、無姫様も魚を覗き込んで、ほんとだ、とだけ呟いてじっと川の中を見ておられました。羽織からかすかに朝光様の香りがして、無姫様は落ち着きのないご様子でありました。すると朝光様も隣にしゃがみ込まれたので、無姫様は少し朝光様の方へ寄って、肩が触れ合うと、朝光様は驚いたご様子で無姫様を見て、
「なにゆえ。」
とおっしゃったので、無姫様は
「寒いからに決まっているでしょ。あなただって羽織をかけたくせに。」
と目も合わせず返答されました。すると
「私のことが嫌いではなかったか。」
と朝光様がおっしゃったので、
「嫌いですけど。俊光様がちっとも構ってくれないゆえ。」
とため息交じりに返答されました。朝光様は、
「これで気が楽になるなら良いがな。」
とおっしゃって、ゆっくり立ち上がり、空を見て、
「雲行きが怪しい。」
と呟かれたので、無姫様も立ち上がって、何も言わずに屋敷のほうへ歩いていかれました。
屋敷へ戻る間、特に訳もなく沈黙で、気まずい空気が流れておりましたが、屋敷へ着くと無姫様が、ありがとう、と言って羽織をお返しになったので、朝光様も、今日はゆっくり休め、とだけ言うと、無姫様は軽く頭を下げて、初とお部屋へお戻りになりました。
無姫様と朝光様が誰の断りも得ず屋敷の外へ出たことは、またたく間に屋敷中で噂になって、お二方の関係がささやかれることとなりました。
無姫様は、毎日のように朝光様のお部屋に通うようになり、歌のお話、植物のお話、幼少期のお話など、多くのお話をなさいました。けれども、お二方が自分たちの噂をちっとも気に留めないので、もはやいつものことと思われるようになりました。