プロローグ5 ニース
目が覚めた。
まず視界に入ってきたのは、石畳。煉瓦様の石材でできた床面だ。砂埃が散在し、手入れが行き届いていないのがわかる。
視線を動かす。
モザイク状の窓ガラスから微かな光が漏れてきているが、全体として暗い。
そこは古ぼけた聖堂らしいというのはわかるが、こんな場所は見たことがない。
ここは、どこだろう。
夢を見ているのだろうか?
さっきまで神と対話していた気がするが…あっ!?
体を起こす。
だが体から生じた違和感に、両掌を広げてみたが、汚れてはいるものの、小さく、肌のきめは細かい。
子供の手だ。
下半身まで視線を移す。
ぼろきれの様な粗末な布を纏いほつれかけたサンダルに近い履物。
これが今の私だ。女の子だ。
栄養不足なのだろう。足は細く、体の肉付きもよくない。
子供の体になっている。
「……私は?……っ!?あっ!!痛い!!!!痛っ!!」
私はどうして、そう思い始めた刹那、猛烈な頭痛と共に、この子、”ニース”の記憶が私の中に流れ込んできた。頭を抱えながら転げまわる。他者の記憶がまるで魂の中に流れ込むように自分の知識となっていくが、同時に強烈な痛みが頭全体から発せられ、起きてすらいられない。
転げまわりながらも、だんだんとこの子のことがわかってきた。
この子はニースという10年くらい生きた女の子で、奴隷商により性奴隷として売られる直前、病にかかり名前もよくわからない寂れた町に捨てられて、この聖堂にたどり着き、力尽きた…はずだ。
「つまり私は、死んだこの子に入り込んだ……?」
ニースの最後の記憶は、高熱と飢え、乾きに塗れた絶望の中、神に縋ろうと聖堂の奥に手を伸ばしたところで途切れている。
それを認識したと同時に痛みが引いて、引き換えに冷や汗がにじみ額から顎を伝って石畳に落ちた。
汗のしずくでできた小さな水たまりを見ながら今というものを再確認する。
病に罹っていたにしては、のどが渇いてはいるしお腹は空いているが、不健康な体というわけでもない。
おそらく、魂が入り込んだ時にそういったものが一度解消されたのだ、そう考えられた。
「転生じゃなかったのね。いや。これも転生なの?まあいいけど」
立ち上がり、体に不調がないか確認しつつ聖堂を出た。聖堂の中はマトモに手入れがされた形跡もなく、使えるものはなにもなかった。
ちょうど夜明けの時間帯だったようだ。
東を向いているらしい聖堂正面の山の稜線から太陽が顔をのぞかせるところだった。
「ここは……?」
ここはどこ?今はいつ?そんな疑問を持ちながら、まずは荒れた聖堂から伸びる参道へと歩みを進めた。参道は聖堂が管理もおろそかになっていたのと同じように、粗末でところどころ割れた石畳にその隙間から膝くらいまで伸びた雑草が顔を出している。管理者がいなくなってしばらく経ったのだろう。
緩やかな坂道を下りしばらく歩くと村があった。だが、様子がおかしい。
人の気配はするのに、天気が悪いわけでもないのに、暗い。
農作業を始めている人がいなければならないはずの時間帯だが、誰も外に出ておらず、畑は中途半端なまま置かれていて、手入れは行き届いていない。
さりとて、住民が村を捨て去ったわけでもない様子。家々には確かに人が居住しているようだ。
「どういうこと?」
その答えは、歩みを進めた村の広場にあった。
「なに……これ?この匂い」
ちょうど風向きが変わり、それらから発せられた死臭が鼻を突いた。
そこには十数人の老若男女問わない遺体が積まれ、火をかける準備がなされていて、彼らは総じて皮膚に斑点があり、致死性の疫病の存在を強く示唆していた。
そして扱いを決めかねている”ニース”の記憶がその症状を物語る。
眩暈や頭痛に始まり、まもなく襲い掛かる高熱と脱水症状、そして急速な咳、あるいは嘔吐。発病して数日で体中の皮膚に現れる斑点。
これにかかれば半数が10日以内に死に、生き残った内の半数以上に斑点痕以外の何らかの後遺症が残る。
斑点痕すら残らず全快するのは罹患した100人のうち5人もいない。
そんな、絶望的な病。
ニースはこれに罹り、元々栄養状態が良くなかったことも相まってわずか3日で死んだ。
ニースがこの病に罹ったことを知った奴隷商はすぐに彼女を捨て、その場所がたまたまこの村の近くだった。
彼女は村に助けを求めようとしたが、この村の状況も悲惨の一言だった。
高熱に意識がもうろうとしながらも助けは得られないと悟ったニースは、最後の力を振り絞り神にすがろうと聖堂にたどり着き、力尽きた。
これがこの子の最期だ。
そう理解した今、やることは一つだ。
妙な転生の仕方をしたらしいが、先ずはこの村を救おう。体は変わったが私は大聖女なのだから。
だが、村全体を覆うような上級神聖魔術は何故か行使できない。
どうしたものかと思案し、ならば先ずは自分の安全確保をと、病を遠ざける神聖魔術を自分に行使したが、これは普通に使えた。
初級に分類される神聖魔術だが、つまり単体相手なら使えるのだろうか?
どうも”前世”の最期にジュリナと転生術の研究なんてことをしていたせいでなんだか探求心が芽生えたまま枯れずに残っていたようだ。
今の私がどこまでできるのか試してみたかった。
病は弾くことができる。ならば流行り病相手でも怖くはない。
この村を、救う。そう決めた。
井戸を見つけ、水を汲んでみて、特に汚れもない澄んだ冷たい水が汲めたから、桶に顔を突っ込みがぶがぶと飲み、最後に顔を洗い濡れた手で髪をまとめて気合いを入れる。
さあ、聖女としての仕事だ。
まず手近な小さな家の扉をそっと開けてみる。
そこには机に突っ伏している母親らしき女性と、小さなベッドでうなされている子供の姿。
父親の姿はどこにもない。
「ごめんください。大丈夫ですか?」
玄関から声をかけたが、返事はない。
もう一度声をかけたが、同じ。
「失礼します…あっ……!」
寝ているのなら肩を叩いて気づいてもらおうと思ったが、母親は、既に息がなかった。
長袖と長いスカートをはいていてわからなかったが、顔や手には斑点が浮き出し、目は半開きのまま既に渇いていた。
そしてその肩には喪章が。ああ、つまり広場に積まれたあの中に夫が。
この女性は、自らの病をおしてでも最後の最後まで娘の看病を続け、力尽きたのだ。何と立派な女性だろうか。
視線は自ずとベッドで咳き込みながらうなされる子供に向いた。女の子だ。
斑点が浮かび、同じ病だとわかる。
両親を失い看病してくれる人もなく、もうこの子はこのままでは死を待つばかり。
だけど、そうはさせない。
「神聖なる力よ、病魔を退かせ、この者に正常なる生きる力を……」
子の額に手をあて、治癒神聖術を唱える。
光と共に、子供の皮膚を醜く覆いつくそうとしていた斑点が消えていく。熱が引き、咳が治まり、安らかな顔が戻っていった。
ついでに自分にも用いた病を予防する予防術もかけて、この子はもう大丈夫。すこしやつれている感じはするが、何時間かこのままにしておいても問題ないだろう。体力までは回復していないのだ。寝ていてもらった方が良い
「よし。じゃあ次は…」
やることや考えるべきことはたくさんあった。まずそこで力尽きた母親の遺体をどうするかとか、この子が食べていく当座の食料はあるのかとか、他の家の患者や家族もどうにかしなければとか。
「まずは、村の人達の治療ね」
全員が全員、罹患しているわけじゃないだろう。ニースの記憶でも病気になっていない村人の記憶がある。まずは治療して人手を増やさなければ。
そう決めて、女の子の頭をひと撫でしてから隣の家に向かおうとしたとき、不意に左腕が掴まれた。
驚き振り向くと女の子が目を覚ましていて、
「お姉ちゃん、助けてくれたの?」
なんと、この子はうなされていたが意識があった。
「そうよ。病気は治したけど体力は戻ってないから、もう少し寝ていたほうがいいわ」
私がしたことも見られていただろう。
「聖女様……?」
「ええ、そうよ。見習いだけど」
だからとっさにそんな答え方をした。
私はニースであって、フェリナではない。一応大聖女であったことは隠しておこうと、この時に決めた。今の自分に何ができるかわからないからだ。
「でも、ママも村にいた聖女様もこの病気で。聖女様は、治せるの?」
「ええ、任せて」
村にいたのは治癒魔術の苦手な聖女だったのだろうか。そしてこんな状況で母親の死を見届けることになったこの子の心のケアもいずれは必要になるかもしれない。
「だからね、お姉ちゃんに任せて?できるだけ村の人達を助けてくるわ」
「うん」
「さ、おやすみなさい」
すうっ・・・と、後から名前を聞いたらリリアという女の子は眠りに落ちた。何時間かで起きるだろうけど、人々をあらかた治療した上で母親の遺体をどうにかできる時間があるだろうか。
かけてあった布を床に敷き、母親の遺体を寝かせて胸に手を合わせ、半開きだった目をそっと閉じる。申し訳ないけど今はやるべきことがある。これで我慢してもらおう。
その後、同じように村の家々を回り、治療を続けた。
そして何件かを回った時、ニースが見たことのある人がいた。
この村で数少ない、病魔を免れていた男性。
「あ、君は!?」
そう、彼はニースが助けを求めた家にいてニースを追い出した人物だ。
だけど私はそれを咎めるつもりはない。
私だって、彼と同じ立場に置かれたらそうするだろうから。
「先日は御迷惑をおかけしました。神のご慈悲を賜り、私は病魔を退けました。息子さん…も流行り病なのですね。治しますので入ってもよろしいでしょうか?」
奥のベッドで、先ほどの女の子のようにうなされている少年に視線を送る。
「治せるのか?この病を?」
「ええ、見習いですが聖女です。神のご慈悲によりこの病を治す術を得ました。村の皆様を治して回っております」
***
4〜50軒ほどあったお宅のほとんどを回り終えた。残念ながら一家が全滅していた家もあり、顔をしかめたこともある。
広場にはそれまで回収しきれていなかった遺体が運び込まれ、村の遺体がすべて集められたことを確認した上で、木が組まれ、油がかけられ、火がつけられた。
遺体の一部は干からびつつあったが、腐敗を始めた生肉が燃える嫌なにおいが漂ってくる。
私は訪問した家にあったサイズの合う服をもらい受け、身だしなみを整えた上で葬儀を主導し、炎の前で聖女として死者の旅路の無事を願う言葉を紡いでゆく。
一通り終わったら、振り返り村人たちに告げた。
「私の病が癒えたのは神の御導きです。私にはささやかですが聖女としての心得があります。村の聖堂は、管理者がおられないのですよね?なら、暫くの間、私があそこに住まい
聖女として働きたいと思うのですが、どうでしょうか?」
村の人達が否と言うわけがなく、私はしばしの住まいと職場を得た。
それからしばらくして、この村が”前世”でジュリナ達が住んでいた村のすぐ近くだったことを知った。
名前を知っている山を挟んだ反対側、そんな立地だ。魔王城も近い。
数か月後、村の状況が落ち着いてから、魔王城や付近の村々、そして私達のお墓がどうなっているか確認しに行ったが、周辺は私とジュリナによって封印され入ることができない魔王城を用いた観光名所になっていて、近くにあるカーターとジュリナのお墓や2日ほどの距離にある私とアレクのお墓も観光名所の一つに数えられていた。
そして知った。”今”は私達が転生術を行使してから約700年後の未来だと。律儀にも魔王に苦しめられていた当時の周辺住民の一族が1日ごとにきちんと時を刻んでいたのだ。700年周年祭がもう何年かしたら盛大に行われるという。
また、中・上級魔術が完全に廃れており、剣や槍、弓矢での戦いが主流となり魔術師の力は相当に衰え、懸念していた破滅的威力の魔術は存在しなくなっていた。
聖女も例外ではなく、中・上級の神聖魔術が使えなくなり、総じて力の衰えた聖女たちの社会的地位も低下。
そのためわずかな力のある聖女は一部の余裕がある王族や富豪が抱えるものとなり市井の人々の身近な存在ではなくなっていた。
この辺りはフェリナが居住していた地域でもあったから比較的長く聖女がいたが、力の衰えた聖女はついに病を治すに至らず、流行り病に敗れ力尽きて今に至ってしまったらしい。
ジュリナが転生してからどうしたのか、そもそも同じ時代に転生したのかすらもわからないが、聖女の地位が低下しているとはいえこの結果に満足した。
なぜなら、極大化した魔術で一撃で国が亡ぶようなことは起こり得なくなり、戦というものが人の身の程の範囲に収まるようなものになっていたからだ。
「成功、したのね」
中・上級魔術の剥奪は行われていた。魂だけ逃げ出した私に対して神が約束を反故にするかと思っていたが、魔術の剥奪は行われていたらしい。そのせいで聖女も巻き込まれ弱体化してしまったのがやや不本意だが、仕方がない。
また、誰にも何も言わず魔王城の封印を確認しに行ったが。封印は衰えることなく健在で、魔王城の内部も私が最後に入ったそのままだった。
幾度かこの地域の支配権が移った際も新たな支配者がなんとか魔王城に入ろうと手を尽くしたらしいが例外なく最後は諦めることとなり、今の支配者であるサルステット王国はせめて利益を得ようと観光が可能なように整備したらしい。
そして気づいた。この中では外では使えない大規模な魔術が使えると。
魔王城の中で出現した魔物を何とかしようといつもの癖で上級の神聖攻撃術を使ってしまい、使えたのだ。
試しに外で使おうとしたが、使えなかった。
もう一度中で使ったら、使えた。
念のため外でもう一度使ったが、使えなかった。
私とジュリナが張ったこの結界は神々の意思すら弾いていたのだ。何と高性能なのだろう。
思い通りどころかそれ以上の結果になったことで満足した。目的は果たした。
だから、もう一度得た人生を楽しく生きよう。
それからしばらくして、私はジュリナが住んでいた村が街に発展した地に移り住み、街の聖女兼観光案内人として生計をたてるようになった。
その中で、魔王討伐の伝説が多少歪んで伝わっていることを知ったが、700年も経てばそんなものだろうと思い、さして気にすることもなかった。
だけどジュリナがいつぞや出会った魔女と同一視されているのは笑った。
彼女達、すごく仲が悪くて大喧嘩していたのに。もしジュリナがこれを知ったらどうなるかしら。それにしてもジュリナったら、知らないうちに魔女の話を加えていたのね。
そんなことを考えながら、村の聖堂から移り、新たな住まいとすることになった街の聖堂の片づけを始めた。
ニースとしての、そう、神の導きで病を克服した聖女とされた私の第二の人生が始まったのだ。
定期的な収入は聖女として働いて得たお布施で賄い、臨時収入は魔王城を訪ねてくる旅人達に観光案内をして稼ぐ。今度は魔王退治なんていう変な使命を背負わされることもなく、若いうちから気ままに暮らせるのはいいことだ。
今日も自分の庭の畑を耕し、病の人々を治療し、平穏な一日に感謝をささげ、時には結ばれた二人を言祝ぎ、あるいは旅立った者を送り、そして暗くなれば眠りにつく。そんな日々が始まったのだ。
そんな中で思った。この体はニースのものだ。ニースは死んだが、それでも私はニースと名乗るのに躊躇を感じないし、むしろこの体を与えてくれたニースをできるだけこの世に留めておきたいとすら考えている。
そんな中でニースの記憶をほじくり返すと、この子はわずかな幸せに暮らしていた時代にはとても明るく、人懐っこい性格だったようだ。
それならば、私もそう生きよう。ニースが生きていたらこうなっていたと言えるように。
それは、ジュリナ達が転生したレベッカ達がこの街を訪れる10年ほど前のことだった。