Secondo piatto 本日のメイン 山牛のビステッカ
「お待たせしました!本日のメイン、山牛のビステッカです!味付けしてありますので、まずはそのまま食べてみてくださいね!」
赤髪の少女が、また元気よく皿を差し出してきた。食欲をそそる美味そうな匂いが立ち込めた。
過酷な傾斜を誇る火山で放牧された筋肉質の牛肉は、料理人のこだわりらしい。
骨ごとよく焼き上げられ、旨味が閉じ込められた肉に刃を入れると、じゅわりと肉汁が溢れ出した。
美味いことは分かっていたが、いざそれを噛みしめると、自然と顔が綻んだ。
なるほどこれは、さすがの焼き加減だ。
表面が固いので火を入れ過ぎているのかと懸念したが、まさに杞憂。
はじめに表面を固めて肉汁の流出を防ぐと同時に綺麗な焼き色を付ける。それからおそらく釜の中でじっくりと火を通したのだろう。
味付けも最小限だ。塩と胡椒、それからいくつかのハーブとにんにく、それだけで勝負をしている。
噛めば噛むほどに旨味が出るそれを合わせないわけにはいかず、少女を呼び止めてワインを注文した。
馬車での移動は、のどかで快適なものだった。トラットリアの話によると、この馬は二頭とも老齢ではあるが働き者で、うち右側を歩く栗毛の「ポモドーロ」はトラットリアと同い年なのだという。
なんとも美味しそうな名前がつけられているな、などと内心思いつつも、ツェツィーリアは口に出さなかった。
馬を歩かせること数時間。決まった休憩場所だという水飲み場にトラットリアが馬を繋いでいる間に、ツェツィーリアは野草の採取に精を出していた。
普段の学園とは全く異なる気候風土では、自生する植物も天と地ほどの差がある。
ツェツィーリアは低木に咲く花やおそらく食用には向かないであろう根菜、見るからに人の口には合わなそうな樹の実を拾っては満足げに頷いていた。
ツェツィーリアの探求欲は、まさに絶頂を迎えていた。異国の地、異国の植物、本でしか見えなかった素材の数々。それが無意識のうちに野山の奥深くまで足を踏み入れていたことは、聞こえてきた非友好的な唸り声によって知覚した。
少女の腰ほどの体高に見合わぬ巨体と短足、つぶらな瞳からすら感じ取れる敵意。口元より伸びた鋭い牙。
大きなイノシシが、ツェツィーリアを睨みつけていた。
「わわわっ!」
想定外の事態に、トラットリアも反応が遅れていた。
「ツェツィ!」
トラットリアが叫ぶも、彼女の手が届くところにツェツィーリアは居なかった。
大牙をむき出したイノシシが突進する。突っ込んできたイノシシをツェツィーリアは紙一重で躱したが、斜面に足を取られ思わず尻餅をついた。
まさに絶体絶命。イノシシが吠えた。
動けぬ標的に狙いを定め、まさに飛び出そうとした、その時。
イノシシの巨体が、不自然に倒れ伏した。直後、その鼻先に大きな矢が刺さっていることに気がつく。
続けて二本、三本。
イノシシの胴体に矢が命中した。急所に矢を受けたイノシシはたまらずもがき、やがて力なく四肢を投げ出した。
「大丈夫ですか?」
少年の声。ツェツィーリアが振り返った先には、弓を携えた美形の少年が心配そうな顔をして立っていた。
「あ、ありがとうございます。助かりました」
「い、いえ。無事で良かった」
少年は照れくさそうに俯く。
「オステリア!」
トラットリアの声が響いたのは、その直後だった。
「姉さん!?」
オステリアと呼ばれた少年が振り返ると、まるでじゃれつく子犬のような勢いでトラットリアが彼に飛びついた。
「オステリアー!かわいい私の弟よ!会いたかったよー!」
トラットリアは抱きついたその少年の両頬に、自身の頬をぴとぴとくっつけ、愛情を表現する。
「や、やめてよ姉さん!人が見てる――!」
「えー、いつもやってることでしょ?本当にありがとう、わたしの大切な友達を助けてくれて!」
ぎゅぎゅっと抱きつかれた少年の反応を見て満足したのか、トラットリアはようやく少年を解放した。
「ツェツィ、紹介するよ!私の自慢の弟、オステリアだよ!」
紹介に与ったオステリアと呼ばれた少年は、やや緊張気味に胸に手を当てて挨拶した。
「オステリア、こちらが今回のお客さん、友達のツェツィーリアだよ!」
「ツェツィーリア・アイベンシュッツです。さっきは助けてくれてありがとう、よろしくお願いします」
首を傾げて微笑んだツェツィーリアに、オステリアは思わず赤面した。
「今夜の日替わりはイノシシ肉の窯焼きだね!」
「ああ、僕の得意分野だ」
馬車に乗り、姉弟は弾むように会話をしていた。そこから感じ取れるのは、この姉弟の仲の良さだ。
トラットリアから聞くには、オステリアもトラットリアと同じように料理の修行をしているのだそうだ。自ら狩り行うほど肉の鮮度や品質にはこだわりがあり、とりわけ肉料理には定評があるのだという。
弟と接するトラットリアの笑顔は、いつにも増して弾けていた。自分も姉と接する時、こんな表情なのだろうか、なんて無意識に考えたツェツィーリアは思わず頬を赤らめた。
また少し馬車を進めると見えてきたのは、高台より海を望む、伝統的な木組みの小屋だった。
大衆食堂「サルーテ」。
店先に立ち、荷馬車に乗った少女たちを出迎えたのはトラットリアの両親と思しき壮年の男女だった。
「おかえりなさい!トト!」
「ただいま!お母さん、お父さん!」
オステリアへ飛びついたのと同じような勢いで両親に飛びついたトラットリアは愛情たっぷりの挨拶を済ませると、ツェツィーリアの方へ駆け寄り、「来て!」と手を引いた。
「紹介するね!私の友達のツェツィーリア!すっごく頭が良くて、可愛くて、おもしろいの!」
「いらっしゃい」
「ようこそ、ツェツィーリアちゃん!自分のお家だと思ってくつろいでね」
「ありがとうございます」
寡黙な父と、おしゃべりな母。初対面とは思えない友好的で家庭的な雰囲気の一家は、ツェツィーリアをリラックスさせた。
オステリアは自ら申し出て、荷下ろしした馬車と馬を街へ返しに出かけていた。
「ツェツィ、おなかすいたでしょ!一緒に賄いを食べよう!」
トラットリアが元気よく申し出た。昼の営業を終えた店内に客はおらず、きれいに掃除がなされている。
ツェツィーリアは一瞬遠慮がちな様子を見せたが、それが帰って失礼になると瞬時に判断し、小さく頷いた。
「そうだ!」
トラットリアがまた思いついたように声を上げる。
手慣れた手つきでエプロンを身に着け、その場でくるりと回って一礼した。
「いらっしゃいませ!トラットリアへようこそ!!」
ツェツィーリアも思わず頬を緩めた。
「それじゃあ店員さん、お腹が空いたのでお任せ注文で」
「えへへ、かしこまりました!」
トラットリアはツェツィーリアの注文を確かに受けると、軽やかな足取りで厨房へ向かう。寸劇のような間のうちにエプロンをほどいたかと思えば、ツェツィーリアの隣の席にぽふりと座った。
ほどなくして、トラットリアの母が二皿のパスタを運んできた。
「どうぞお待たせ、今日の賄いパスタよ!」
「ありがとうございます。美味しそう……!」
運ばれてきたパスタは小魚の油漬けがふんだんに使われたオイルパスタだった。
パセリの爽やかな香りと鮮やかな緑、唐辛子の赤がパスタの上に散っており、見た目も楽しい。
一口食べるとしっかりと効いたにんにくの旨味と香りが口いっぱいに広がってとても美味しかった。
旨味が凝縮された小魚は少し塩味が強いかと思ったが、それを見越して麺全体に絞られているレモンの酸味がうまく調和し、綺麗にまとめ上げられている。
「美味しい!美味しいよトト!」
「でしょ!お母さんが作るパスタは島一番なんだ!」
えっへん、と胸を張るトラットリアの後ろで、トラットリアの母もまた得意げに鼻を鳴らしていた。
それを見てツェツィーリアは笑った。つられてトラットリアも、彼女の母も笑う。ほんとうに楽しい家族だなあとつくづく感じ取ったツェツィーリアは口元を拭うと、改めて感謝の言葉を示した。
「トラットリアが帰ってきたということは……」
「始まるんだね、今年も」
母が神妙な面持ちで言葉を発したかと思えば、トラットリアもまた深刻そうな表情でつぶやく。
「な、何が始まるんです……?」
「それは夜のお楽しみ!」
思わず緊張気味に聞き返したツェツィーリアに、トラットリアはいたって平然に応えた。
首を傾げるツェツィーリアが答えを理解したのは、紛れもない夜の営業時間だ。
サルーテには、「アペリティーボ」という営業形態が存在する。
夕方の早い時間、夜の営業に向けて仕込みの目処がつき、ある程度の余裕が出てきた段階で軽食やお酒の提供を開始する。
注文を受ければパスタは出すが、手の込んだメニューはまだ仕込みを行っているため提供はできない。
気軽に立ち寄ることができて交流の場となる店内は、注文こそ多くはないものの、早速賑わいの様相を呈していた。
「すごーい!ツェツィ、似合ってる!」
「そ、そうかな?恥ずかしい……!」
トラットリアの言葉に、ツェツィーリアはスカートの裾をきゅっと絞る。
サルーテの制服に身を包んだツェツィーリアは自ら手伝いを申し出たのだが、いざお店の制服を着るとなると少しだけ恥ずかしかった。
「みなさんご注目!異国の地より訪れた天才美少女、ツェツィーリアちゃんです!」
「ちょっと、トト!」
歓声と拍手の中、大げさな紹介に頬を染めたツェツィーリアに客席は盛り上がっていた。
元気に接客をするトラットリアも看板娘として人気だが、初々しくも丁寧に接客するツェツィーリアは新任としては異例の人気を誇っていた。
アペリティーボの時間はそんなに忙しくないから大丈夫と豪語していたトラットリアも驚きだ。
後で分かったことだが、その日の売上は普段の倍以上、記録にしてアペリティーボ時間で史上最高だったという。
「つ、つかれた……!」
時間にして約二時間。ツェツィーリアはくたくたにのびていた。
「お疲れ様、ツェツィ!あとは私達でやるからゆっくり休んで!」
「ううん、せっかく泊まらせてもらうんだし、手伝いはさせて」
「じゃあ、お皿洗いが良いんじゃないかしら!でもせっかく綺麗なツェツィちゃんの手先が荒れちゃうわね……」
「そんな、お気になさらず!やりますよ、お皿洗い!」
「あの、そのことで、なんですけど……」
母とトラットリア、そしてツェツィーリアのやり取りに割って入ったのは、弟のオステリアだった。
「スペシャリテの盛り付けをお願いできませんか?恥ずかしながら僕一人だと料理が冷めちゃいそうで……」
「もちろん、喜んでお手伝いします」
オステリアの申し出を、ツェツィーリアは快諾した。
夜も更けて、青く暗い空には美しい月が上がっていた。
店先に出たトラットリアが、営業看板を掛け替えた。
始まる、サルーテの夜が。
「いらっしゃいませ!ご予約ですね、お待ちしておりました!」
「こんばんは!また来てくれたんですね、お席取ってありますよ!」
「初めてですか?ありがとうございます!せっかくなので見晴らしの良い席にお通ししますね!」
次々と来店するお客さんを、トラットリアは見事にさばいてゆく。
すかさずオステリアが一杯の水を提供しながら簡単な注文を取る。
母が厨房の奥から今日の「お通し」の小皿を持ち出して流れるような動作で提供すると、オステリアに代わって注文を取り始めた。
僅かな余裕を感じて厨房に入ったトラットリアが見事な手際で前菜を盛り付けるとすぐさま提供を開始した。
厨房の中からでも断片的にうかがえる洗練された動きに、ツェツィーリアは脱帽していた。
お腹をすかせた状態のお客さんが少しでも早く何かを食べられるように全力が尽くされている。
飲食店において、お皿の提供の早さは命とでも言うべきで、その味と同じくらい大切だ。
それが分かっているからこそ信頼しきった家族によって繰り広げられる見事な連携が、このお店が人気となる一つの理由だろう。
「パスタ!あと十人前追加だよ!」
「トト、新しい鍋あけて茹でてくれ!」
「かしこまり!お父さん!」
本格的に稼働した厨房は、まさに戦場だった。
一人が三人に見えるくらいせわしなく動き回っている店内であまり動かずに肉料理の盛り付けだけで精一杯のツェツィーリアは思わず舌を巻いた。
「ツェツィーリアさん、ちょっと味見をしてみてください」
オステリアが、小皿に盛った一切れの肉を差し出した。ツェツィーリアがそれをぱくりと口に含んで咀嚼すると、噛みごたえのある淡白な味わいの中に香ばしさと胡椒の心地よい辛味を感じた。ハーブの爽やかな香りが抜け、閉じ込められた旨味がじゅわり、肉汁となって溶け出した。
「美味しい……」
「今日獲ったイノシシです。これは人気間違いないですよ!」
オステリアは爽やかに笑った。自分もこんな素晴らしい料理を作る一端を担っているのだと実感したツェツィーリアは、先程までの引け目はすっかり感じなくなっていた。
パスタやピッツァ、肉料理など、大皿の提供が落ち着いて客の入れ替わりもなくなってきた頃に、トラットリアの母が店内で高らかに呼びかけた。
「さあ皆さんご注目!今年もこの季節がやってきました!」
客の目線が集まる。ツェツィーリアもその様子を厨房から伺っていた。
「店一番の看板娘、トラットリア・サルーテ!そして、店一番の釜当番、オステリア・サルーテ!」
母に名を呼ばれた姉弟は、並び立つように相対した。
「明日より、両者二名による料理対決が開催されることを、ここに宣言します!」
店じゅうに、歓声が沸き上がった。
「どんな料理が出されるかは当日来てからのお楽しみ!これから一週間、お食事は当店『サルーテ』で!」
トラットリアとオステリアは客席を回り、手に持ったボトルからワインをお客のグラスに注いでいた。どうやらそれは、この島最大の火山の麓で採れたぶどうで作る最高級のものらしい。それをなんと、お代を貰うことなく提供したのだ。
母に代わり、トラットリアが躍り出る。
元気いっぱいの少女が、大きく息を吸った。
「皆さん、お手元のグラスは満たされましたか?それではご一緒に……!」
「「「「「乾杯!」」」」」
また大きな歓声が、店中に響き渡った。止むことのない拍手と歓声。
そんな光景を目の当たりにしたツェツィーリアは、度肝を抜かれると同時に得体の知れない高揚感に心を掴まれていた。
ここは大衆食堂「サルーテ」。来たものを幸せにする、島一番の食堂だ。
年に一度の祭りとも言うべき一大行事が、まさに始まろうとしていた。