Primo piatto 本日のパスタ 看板娘の気まぐれパスタ
「お待たせいたしました。本日のパスタでございます」
パスタを運んできたのは、まだ少し顔に幼さが残る少年だった。
しかし立ち振る舞いは紳士のそれといっても遜色なく、高級リストランテでも通用するほどの洗練された所作だ。
雑音無く、そっと置かれた皿からはやはり期待を裏切らない香り。
先程のまろやかなチーズではなく、食欲をそそる刺激的な赤が視界に飛び込んできた。
中空状の特徴的なパスタが存分にソースを絡める。それを口に運ぶと訪れたのは柔らかなパスタとざくざくしたパン粉による食感の共演。
唐辛子の辛味とにんにく、アンチョビがトマトの旨味を補強し、ケッパーの爽やかな香りが立っている。
一皿にまとめ上げられたそれは辛味と酸味が複雑に絡み合った刺激的な味わいをもたらしていた。
辛い。思わず汗が吹き出る。
だがそれが、その辛さが、次へ次へと欲されているのが分かる。
まさに絶品だった。空腹に寄っていた腹の状態は小康へと落ち着き、しかしまだ次なる料理を欲している。
次に運ばれてくるのはどんな料理だろう。底なしの期待に心を踊らせた。
長時間の国際鉄道ではなかったが、都市間の移動はやはり時間を要するものだ。ローマを出る頃に南の空で主張を続けていた太陽はナポリに着く頃にはすっかり傾いていて、空はほの暗く染まってていた。
「ついたー!」
「うん、やっとだね」
ツェツィーリアの所感だったが、トラットリアはローマにいるときより気分が良さそうだ。その理由を問いかけようと思ったが、彼女の方を向いてにっこりと笑ったトラットリアが口を開いたのでその必要はなかった。
「来て!」
「あ、ちょっと――!」
トラットリアに手を引かれ、ツェツィーリアは異国の街並みを走った。想定外の出来事に思わず取り乱したが、何をそんなに急いでいるのか。
どれだけ走っただろう。心臓が爆発しそうだ。
張り裂けそうな肺を抑えるのに精一杯で、顔が思わず下を向いた。理由もなく手を引いて走る眼の前の少女に僅かな苛立ちが生じ始めたその時、トラットリアの足が止まる。
「ちょっと、今度は何!」
「良かった、間に合ったよ!」
「間に合うって、何に――」
そう言いかけて、ツェツィーリアが顔を上げる。冷たく湿った風が頬を撫で、同時に彼女は思わず息を呑んだ。
世界が、黄金に染まっていた。海の向こう、夕日に背を向ける湾曲した海岸は漆黒に染まり、濃紺の海には光の柱がゆらゆらと浮かんでいる。
見渡せば陽を受ける古代の城郭が勇ましく輝き、寄せては返す波が浜辺の石をこすり合わせて玉のような美しい音を鳴らしていた。
「すごい……」
「ね!綺麗でしょ!」
「うん」
その絶景に、もはや言葉は不要だった。ツェツィーリアが異国の地に訪れ、生まれて初めて見る海の美しさに心を洗われた。
「ほら、有名な詩人が言ってたでしょ!『ナポリ見るまで死ねない』って」
「『ナポリを見てから死ね』だね。まあ、トトにしては珍しく惜しいけど」
「珍しくってなにさ!」
格好つけようとして慣れない引用をしたトラットリアはツェツィーリアに切り返され、染まった頬をぷくっと膨らませた。そんな彼女が可笑しくて、ツェツィーリアは思わず吹き出した。
「ほら、ツェツィも疲れてるでしょ!宿に向かおう!」
「ふふ、わかった」
珍しく照れ隠しをしながら前を歩くトラットリアに、ツェツィーリアは大人しく追従した。
確かに彼女の言う通り、体には疲れが溜まっている。
この相当な疲れを癒やすには、ふかふかのベッドで眠るよりほかないだろう。
トラットリアが言うには、ツェツィーリアを驚かせる物があといくつか残っているという。
「見えてきたよ!あそこが今日の宿!」
手を引かれて切り通しを抜ける。決して短くはない道程で盆地に辿り着くと、いかにも歴史を感じさせる石造りのアーチが出迎えた。
「これは……?」
「着いてからのお楽しみ!さあ、入って!」
見たところ何か不思議に感じるものはない。先程のアーチを含め、建物の造りが古いことは感じられるが、それ以外に特に何かというわけではなかったのでツェツィーリアは全く見当がつかなかった。
「ツェツィ、行くよ!」
「行くって、どこに?」
通された部屋で荷物を下ろし、一息つこうとしたツェツィーリアはトラットリアに呼ばれ、かすかな不機嫌をまといながら問いかけた。
それに構わず先導するトラットリア。連れ出された先に待ち受けていたのは鼻を突く刺激臭だった。
「――腐卵臭!?トト、危ない!」
「わわっ!」
ツェツィーリアは緊迫した様子でトラットリアの手を引いた。
「トト、トト!大丈夫?」
「何が?」
「何がって、中毒症状!」
「あれ、もしかしてツェツィ、温泉は初めて?」
「温泉……?」
驚いたような表情を見せるツェツィーリアを覗き込んだトラットリアはいたずらっぽく笑うと、
「いったれー!」
「ちょ――!トト!?」
ぱさりと、布の落ちる音が響いた。
ほどなくして、
「ねーえー、ツェツィー」
顔を真赤にし、タオルにくるまったツェツィーリアは、今度こそはといった様子でトラットリアへの怒りを示していた。正確には怒りというよりも羞恥が大きかったが、それらの入り混じった複雑な感情を制御するのが嫌だったのだ。
「ツェツィ、ごめんよ~」
「もう!」
拗ねていても仕方がないことはツェツィーリアにもわかっていた。
目尻いっぱいに涙を浮かべていたトラットリアに一喝すると、わざとらしく咳払いをして平静を装った。
「……案内してくれるなら許してあげる」
「うん、わかった!」
日もすっかり落ち、少し肌寒くもある外気の中を二人は歩いた。
やがて沐浴の場へとたどり着くと、硫化水素の刺激臭に忌避感を持つツェツィーリアをなだめながら、トラットリアは湯に浸かっていた。
露天にさらされた温泉は体温に比べると少し低かったが、その温度差にもやがて
慣れ、二人は全身の緊張から解き放たれていった。
「どう、ツェツィ?これが私達の国が誇る温泉だよ!」
「まあ、悪くないんじゃない」
思いのほか気持ちいいと感じてしまったツェツィーリアは、気恥ずかしさもあり素直に感想を述べることはできなかった。
火山に富むこの国では古代より、温泉に浸かる習慣があった。それも娯楽や湯治として、古くから親しまれていたのだという。
「なるほど、薬効成分が溶け出したお湯に浸かって怪我や病気を治すんだね。興味深い」
「ほら、ツェツィ、こっちのほうへ来て!お湯が湧き出しているところだから温かいよ!」
「……ほんとだ!温かい」
「気持ちいいねー!」
「うん」
篝火にくべられた薪がぱちぱちと燃え、火の粉が舞っては消えてゆく。
じんわりと体を温める硫黄泉は筋肉の疲労を癒やし、代謝を促進させ、肌の保水性を高める。
果実のように艶めくトラットリアの落ち着いた横顔は、普段の破天荒な言動とは似つかないほど美少女然としていた。ツェツィーリアも思わず言葉を失いそうだったが、その横顔は彼女に向くことなく天上を向いていた。
「ツェツィ、見て、上」
「わあ……!」
見上げる先には、満天の星空が広がっていた。高い空は黒く青く、突き抜ける静寂が二人を星海に誘ったかのようだった。
「ツェツィには、この空を見てほしかったんだ」
トラットリアは静かに呟く。そんな横顔を見たツェツィーリアもまた、ふっと頬を緩めた。
「綺麗だね、トト。ありがとう、連れてきてくれて」
ツェツィーリアが改めて口を開く。トラットリアは目を大きく見開いたかと思えば、頬を緩め、目を細めて笑っていた。
「えへへ、喜んでくれてよかった」
トラットリアから感じる、安堵の様相。彼女の独断で連れてきた場所をツェツィーリアが気に入るか、気にかけていたためだ。
「うぎゃあっ!」
「な、何?」
ばしゃんと湯を弾き、突然トラットリアが奇声を発する。ツェツィーリアは当然のようにそれを訝しんだ。
「お、おしりに!何か刺さった!」
ばしゃばしゃと水底を掻いたトラットリアがその手に持っていたのは、黄色に透き通る小さな石だった。
「なんだろう?これ」
トラットリアは何の躊躇いもなく、その石を口の中に放り込んだ。
食い意地の塊である少女トラットリアは、知らないものを見ると食べられるかどうか判断するためにとりあえず口に入れるのだ。その結果美味しくなければ吐き出すし、毒でも美味ければ飲み込んでしまい腹を壊す。
何でも食べては腹を壊すというのを繰り返したせいで、毒成分を摂取しても腹を壊す程度で済むようになっていたのだ。
「トト!絶対にそれ、食べものじゃない!ペッてしなさい、ペッ!」
ばしばしと、ツェツィーリアがトラットリアの背中を叩いた。
しばらくは我慢して石を口に含んでいたトラットリアも、観念したように石を吐き出した。
「ぺっ!――何するのさ!」
「何するのさ、じゃないよ!おばか!」
叱られたトラットリアは、子犬のように縮こまっていた。改めて、ツェツィーリアは手のひらにある石を眺める。石質は水晶、この温泉に存在するということはこの黄色は不純物として硫黄が混ざったものだろう。
「綺麗……!」
黄水晶を光に透かしたツェツィーリアは、思わず呟いた。きれいに透き通った黄色の角柱は、結晶内に進入した光を幾度も反射や屈折をさせており、きらきらと輝いていた。
「きれいだね!ツェツィの髪の色にそっくり!」
それが食べ物ではないと判断したのか、トラットリアの執着心はすっかり消失していた。
「ツェツィ、持っておきなよ!耳飾りとかにしたら、きっと似合うよ!」
「そうかもね」
偶然の発見ではあったが、ツェツィーリアはその小さな石を胸元できゅっと抱える。トラットリアも、嬉しそうな彼女を見てにっこりと笑っていた。
「そうだ!」
沐浴を終え、着替えを済ませたトラットリアが閃いたように切り出した。
「明日は早起きしよう!」
「別に良いけど、どこかに行くの?」
ツェツィーリアがトラットリアに問いかけた。
「うん、市場で買い物をしたいんだ!仕入れを頼まれている新鮮な食材をたくさん調達しないとね!」
「わかった。じゃあ夜更かしは禁物かな」
髪を梳かし終えたツェツィーリアが、鏡の前で呟く。
「トト?」
まん丸な目で鏡越しに顔を覗き込んできたトラットリアにツェツィーリアは目を合わせて呼びかけた。
「やっぱりさ、ツェツィって可愛いね!」
「かわ――!」
純粋なトラットリアの発言に、ツェツィーリアは思わず頬を染めた。
「うん、そうやって照れるのもかわいい!」
「ちょっと!」
にっこりと笑うトラットリアに、ツェツィーリアは調子を狂わされて浮足立った。
「もうおしまい!寝るよ!」
ずんずんと大股でベッドへ向かったツェツィーリアは大げさに寝転がると、窓の方を向いたままトラットリアに向き直すこと無く布団を被ってしまった。
「ツェツィ、怒ってる……?」
「怒ってないよ」
不安げに聞き返すトラットリアに、ツェツィーリアは平静を装って答えた。
「わたしも寝るよ」
不安な様子を拭えない様子のトラットリアも、照明を落とし、ゆっくりと布団を被った。
「ねえ、ツェツィ」
真っ暗な部屋の中、トラットリアの声が響いた。
「ツェツィは、わたしと一緒に来て楽しんでくれてる?」
隣のベッドで寝るツェツィーリアは、何も答えなかった。
「寝ちゃったかな?わたしは楽しいよ、すっごく楽しい!」
ほとんど独り言のように、トラットリアが呟いた。
「おやすみ、ツェツィ」
呼びかけられたツェツィーリアはその言葉を返すことなく、一度だけ寝返りを打つ。
その日、二人の会話はそれ以上なかった。
早朝、部屋に差し込む柔らかな日光が、ツェツィーリアのまぶたを刺激した。
彼女の寝起きは比較的良いほうで、実家では畑仕事で朝が早いにも関わらず絶望的な寝覚めの姉をよく起こしに行っていたものだ。
窓を開けると心地の良い風が吹き込み、少しひやりとした空気が思考を明瞭にした。
「トト、朝だ……よ?」
振り返り、隣のベッドで眠る少女の方へ向いたツェツィーリアは、寝ながらベッドシーツの捕食を試みているトラットリアを見て絶句した。
「あ、おはようツェツィ!」
ぱちりと目を開けたトラットリアは、ツェツィーリアの表情を気にすることもなく返事をすると、普段よりもてきぱきとした動作で支度した。
宿を後にすると、待ち受けていたのは荷馬車だった。昨日はかなり歩いたので、これはありがたいとツェツィーリアの口元が微かに緩む。
「でも、良いの?馬車なんて、結構高くつくんじゃない?」
乗り込みながら、ツェツィーリアが遠慮がちに尋ねる。
「大丈夫、請求はお店宛だから!この荷役さんはうちのお得意様なんだ!」
荷馬車の男は帽子に手を当てて挨拶すると、鞭を打って馬車を進めた。
「さあ、朝市に出発だよ!」
探検隊の号令のように高らかに宣言したトラットリアは、溢れ出る食への執念が実体となったかのような、まさに臨戦態勢という様相だった。
朝の街は昨日感じた雰囲気とまるで変わっており、市場は殺気立つほどの盛況ぶりを見せていた。
あちこちで露店が開かれており、食材はもちろん雑貨や服、異国のアクセサリーや香辛料、それからもちろん料理まで。
「この野菜!ここからここまで全部ね!」
「このパン、かごにあるぶん全部!全部買うよ、半額にしてくれるよね!」
「チーズをちょうだい、あと牛乳も!こっちじゃない、むこうの新鮮なやつ!」
「うん!この卵おいしい!おじさん、木箱ごと買うよ!割れていても気にしないよ!」
十人は乗れたであろう荷馬車が、どかどかと投げ込まれる食品やら樽やらであっというまに満載となった。
「ふー、買った買った!」
「トト、すごい気合だったよ……!」
「えへへ、仕入れは戦いだからね!これから港に向かって、あとは船で島に向かうんだ!」
「へえ、船か」
「ツェツィは乗るの初めてだっけ?」
「うん、小さい頃に乗った川の渡し舟とは違うと思うから。でも不安じゃないよ」
「そっか!ちょっと時間はかかるけど、きれいな景色を見てたらあっという間だよ!」
荷車を積み、二人と何人かの乗客を乗せて、船は出港した。
郵便屋や釣り人、裕福そうな老夫婦に旅芸人、楽器を携えた音楽家たち、それから新婚と思しき若い男女など、客層は様々だ。
赤屋根の街並み、海の青、それから緑の山々が見事に映え、圧巻の光景が広がっていた。
「綺麗……」
ツェツィーリアだけでなく、船の乗客たちはその景色に見とれていた。
「すごく大きな山!トト、あの山の名前はなんて言うの?」
「うん!あの山はね――」
指差したツェツィーリアに、トラットリアが応える。
「どういうことだ!」
船内より怒号が聞こえてきたのは、その直後だった。
振り返ると、恰幅の良い老年の男が船員に対して声を荒げている。
聞くところによると、船内で軽食を提供する調理係が船酔いを起こしてしまったのだそう。
「ここから六時間、食事なしで過ごせというのか!」
「申し訳ございません!体調の回復を待っていただければ提供ができると思いますので……!」
「いつまで待てというのだ!せっかくの旅行が台無しじゃないか!」
男は怒りを抑えきれない様子で騒ぎ立てている。他の乗客も、口にこそ出していないがそれらの状況に対する不満はあるだろう。
「厄介なことになったね」
ツェツィーリアは声を潜め、トラットリアへ囁いた。
「じゃあ、わたしの出番だね!」
臆すること無く、赤髪の少女が躍り出た。
「な、なんだ君は!」
「お客様、しばしお時間をくださいな!わたしも料理人ですから!必ずや最高の軽食をご用意いたします!」
トラットリアはまるでこれから一芸を披露するかのように仰々しく一礼すると、
「お兄さん、厨房借りるよ!」
と言って船内に消えていった。
トラットリアに調子を崩されたのか、男はやり場のない怒りでわなわなと震えていた。
そんな少女の間を埋めるかのように前に出た一人の旅芸人が今度は注目を集めた。
旅芸人は揺れる船上で球を投げ上げた。投げ上げる球の数は次第に増えてゆき、手から手へと見事に行き渡っていた。
「やあ、そこの麗しいお嬢さん!」
そんな旅芸人の男がツェツィーリアに呼びかけた。
「わ、わたし?――わわっ!」
旅芸人が球を一つ、ツェツィーリアに投げ渡したのである。
つるつると滑る球を意図せず何度も手の上で掴みこぼしかけながらようやく手中に球を収めて安堵したツェツィーリアは、旅芸人がその球を投げ渡せと合図しているのを理解した。
「え、ええ――?」
――こういうのが一番だめなんだ!内心そう思いつつ、ツェツィーリアは抜群のコントロールで球を投げ返した――はずだった。
失速した球は旅芸人の手どころか足元の方めがけて落ち、ツェツィーリアは肝を冷やした。
だがそこは流石の旅芸人。かかとを使って見事に球を蹴り上げると、その場でくるりと回っては投げ上げていた球を回収し、落ちてきた最後の一球をぱくりと咥えて一礼した。
船上で起きたまばらな拍手は、旅芸人だけでなく彼に手を握られて高々と掲げたツェツィーリアに対しても起こっていた。
「おまたせしました!ってあれ?ツェツィ、もしかして大活躍?」
「ち、ちがう――!」
意に反して注目を集めていたツェツィーリアは、純粋な顔で覗き込んできたトラットリアに赤面を加速させた。
トラットリアが皿に盛って運んできたのは、硬めのパンにチーズとレタス、そしてプロシュートを挟んだ簡単なパニーノだった。
一口かじると、しゃきっとしたレタスの食感にプロシュートの塩味、パンとそれらをつなぎ合わせるチーズの強い旨味とまろやかさが極上の一品である証明がなされていた。
先程まで怒りの声を上げていた老人も、注目を集めた旅芸人も、腹を満たせば皆笑顔だ。
「えへへ、みんな笑顔になって良かった!」
トラットリアが弾けるように笑った。
「そういえば、まだ教えていなかったよね!」
「え?」
「あの山の名前!ヴェズーヴィオ山だよ!きれいでしょ!」
「うん、綺麗!」
美しい山肌を見て、ツェツィーリアは飾る必要のない賛辞を口にした。
「あなたが美味しいパニーノを作ってくれたのね!ありがとう!」
「どういたしまして、お姉さん!」
今度は音楽隊の長と思しき妙齢の女性が、トラットリアに声をかけていた。
「ご飯を食べたら運動しなきゃ!お嬢さん、山登りなんてどうかしら?」
「――!もちろん!みんなで登ろう!」
いたずらっぽく笑う女性に、トラットリアが嬉しそうに応える。
首をかしげたツェツィーリアに対し、音楽隊の女性は「すぐに分かるわ」と片目を閉じて合図した。
指揮棒が高く掲げられる。
料理人の少女、そして旅芸人の男に続くように今度は音楽隊がそれぞれの楽器を吹き鳴らしていた。
沖合から眺める、都市南部の巨大火山。
その観光線として開業した登山鉄道に思いを馳せる、愉快な讃歌だ。
「すごい……!」
船上の皆が、肩を揺らして歌っている。高らかに歌う者、手を鳴らす者、嬉しそうに腕を振って踊る者。その日初めて会ったばかりのはずなのに、まるで友人、いや、家族のようだ。
演奏が終わったあと、船上は一体感に包まれていた。
「ツェツィ、びっくりした?これが私達の国の音楽だよ!」
トラットリアは弾けるような笑顔で振り返った。
国民性なのだろうか。底抜けに明るく楽観主義、困難を皆で乗り越え、最後にはまた皆で笑う。
おまけに彼女は、ここぞとばかりに自身の店を宣伝していた。
凄まじい商魂だ。彼女となら、本当に東の島国に行けるかもしれない。そんな希望すら思い浮かべるツェツィーリアだった。
「お嬢さん、素敵な歌声だね!」
「えへへ、ありがとう!」
「良ければもう一曲どうだい?」
「喜んで!」
胸に手を当て、トラットリアは嬉しそうに答えた。
少女が口ずさみ、高らかに歌うは海岸を望む岬町への恋歌。先程までの愉快な曲調から転じ、荘厳で情緒的な伴奏が鳴り響いた。
涙を浮かべるほど感情のこもった歌唱は、聴衆の心を見事に掴んでいた。
スカートの裾をつまんで挨拶するトラットリアに、まばらな拍手が送られる。
ツェツィーリアもまた、彼女に拍手を送る聴衆のひとりだった。
果てしない青を滑る船は、目的地へ向けて航跡を伸ばす。空を舞う海鳥がときたま羽を休め、船と並走するイルカたちが嬉しそうな声を上げていた。
照りつける日差しは強かったが、それらの光景は時間を忘れさせた。
やがて前方に見えてくる青い影が目的地だと分かると、トラットリアがはしゃいだような声を上げていた。
船は速度を落とし、ゆっくりと港湾へ進入する。海岸にそびえる巨大な城門が、この地こそ海の玄関口であることを物語っており圧巻だ。
「さあ、到着だよ!ようこそ、わたしたちの街へ!」
トラットリアに手を引かれ、ツェツィーリアはシシリー島へと降り立った。
彼女を歓迎するかのように、優しい海風がツェツィーリアの頬を撫でる。
トラットリアは馴染の馬飼いから馬車馬を借りると、下ろした荷車を連結させながら市場で買った人参を馬に与え、たてがみを撫でていた。
「それじゃあ、わたしの家に向けて出発!」
大きな街道を、馬車が往く。三日間の旅が、ひとまずの終着に近づいていた。