Antipasto 前菜 山菜ときのこのフリッタータ
「お待たせしました!山菜ときのこのフリッタータです!熱いので気をつけてくださいね」
食前酒の余韻に心地よく浸っていると、先程の少女がこちらを退屈させる暇を与えずに小さな皿を持ってきた。
なるほどこれは、確かに熱そうだ。六十度の中心角で切り分けられた厚みのある卵生地は火山のごとく白熱の蒸気を吹き出している。
断面からはたっぷりのきのこや山菜が顔を出し、チーズの香ばしさが食欲を刺激した。
一口、切り分けたそれを口に運ぶ。その強烈な旨味に、思わず笑みがこぼれた。
美味しい。卵のふわりとした食感にあえて歯向かうように山菜のさくさくとした食感が楽しく、きのことチーズで補強された旨味によって体が次の一口を求めている。
可愛らしく添えられた、付け合せのオリーブを一口放り込む。しゃきと噛んで溢れ出したのは爽やかな酸味とそれに負けない強い塩味。
旨味のぎゅっとつまったそれはフリッタータでこってりとした口内をすっきりと整え、ほんのわずかに感じさせるえぐみすら、旨味を引き立てる側に回っていた。
一口、水を含み、椅子に深くかけ直した。
良い時間だ。店内も少しずつ賑わってきて、言い表せない満足感のようなものがこみ上げてきた。
次に運ばれてくる料理を心待ちにしながら、フリッタータをもう一度口に運んだ。
学園内で偶然出会っただけのトラットリアとツェツィーリアがここまで仲良くなったのには、いくつか理由がある。
ひとつ大きなのは、食への探究心から何でもかんでも口にし、頻繁に腹を壊しているトラットリアが「理科室に行けばそこで研究しているツェツィーリアが腹痛を治す薬をくれる」と学習したためだ。
本来ツェツィーリアからすればいい迷惑だが、彼女にとってもメリットはあった。薬学を専攻する彼女は自身の研究の過程でいくつものサプリメントを調合しており、その効果を調べる「実験台」を欲していたのだ。
殆どの生徒は彼女が作るサプリメントとやらを怪しんで手を出すことはないが、食欲旺盛なトラットリアは全く嫌がる素振りを見せずに食べてくれるのだ。
そしてもう一つ。二人には共通して、目指すべき場所があった。
それはある日の放課後、何気ない会話の中で、偶然に認識することとなる。
「うぎゃあああああああ!!」
唸り声を上げながら、理科室にトラットリアが転がり込んできた。
「また?」
ツェツィーリアは目を細めながら慣れた手つきで戸棚を開けた。
「今度は何したの?この間土に埋めた罠用の腸詰め肉でも掘り出して食べた?」
「違うよ!そんなことしないってば!あたしをなんだと思ってるのさ!」
呆れるように渡された丸薬を偉そうに頬張りながら、トラットリアは涙目で答えた。
「山で採ってきたキノコをおがくずと混ぜてリゾットにかけて食べただけだよ!」
ごくんと丸薬を飲み込んだトラットリアは、胸を張って答えた。
「前にも言った気がするけど、せめて食べ物かそうでないかの見分けくらいつかないものなの?」
トラットリアとは対照的な温度感で、ツェツィーリアはため息交じりに吐き捨てた。
「ちーがーう!ツェツィが知らないだけ!東の島国には、すっごく美味しい木があるんだから!すごいんだよ!ナイフで削らないと食べられないの!」
「東の島国?あなた、東の島国から来たの?」
「へ?違うよ!あたしが来たのは南の隣国!長靴のつま先だよ!」
その場で片足を浮かせ、「ほら、ここ」と自分の足先を指差すトラットリアはにっと笑うと、ほどなくして「でもね」と付け加えた。
「小さい頃、料理人のお父さんについていって東の島国に行ったことがあるんだ!鉄道と渡し船でほぼ一月もかかるの!料理がとっても美味しいんだあ……!」
「トト!もっと、そこのことをもっと聞かせて!」
思い出にふけるようなトラットリアの両肩を、ツェツィーリアはがしりと掴んだ。
「珍しいね、ツェツィがそんなに興味津々で。食べたくなっちゃった?黄金のフリット、海藻で作った食べられる紙、なんといっても熟成された生魚に魔法の黒いタレ――って聞いてる!?」
「私、東の国へ行って、勉強がしたいの。本で読んだことがある。東の王国には、私達の医学体系とは違う、動物の内臓を煮たり薬草や木の実を調合して、体の回復力を高める医学があるって」
ツェツィーリアは言い出しよりも、ほんの少しだけ語尾がすぼんでいた。
「どんな病気にも効く秘薬を作りたい」という夢は、現在の不確実性ゆえ、彼女が口に出すことはなかった。
「じゃあ、一緒に行こうよ!」
「え?」
「あたしとツェツィ、ふたりで東を目指すの!」
「でも、どうやって?鉄道で大陸横断なんて、すごいお金がかかるでしょ?学生が稼げる金額じゃない――!」
「稼げるよ!だってツェツィはこんなにも、誰も持っていない色んな薬を作れるんだよ!これがあれば、私みたいに困っている人をたくさん救える!」
トラットリアは、屈託のない笑顔で私の手を取った。
「薬を作って、売るってこと?」
「うん!ツェツィが薬を作って、わたしが売り歩くの!きっと良い商売になるよ!」
トラットリアの言葉に、ツェツィーリアはほんの少しだけ考え込む。
「……わかった。私もやってみる。営業よろしくね、トラットリア」
「うん!」
トラットリアの手を取ったツェツィーリアは彼女の笑顔につられて口元をほころばせた。
当然のことながら学園、ましてや国の許可も得ずに製造した薬品を売って小遣いを稼ぐなど、学園内の風紀を収める立場である「騎士団」の学生たちにこっぴどく怒られることになるのだが、それはまた別の話。
夢の中の回想は、トンネルを抜けて差し込む日差しによって終わろうとしていた。
うつらうつらとした様子で目を覚ましたツェツィーリアは、自身の肩に頭を預けて眠る少女を見て、思わず口元を緩ませた。
「トト、もう着くよ」
国をまたぎ、しばし走った長距離列車もついには踏破を果たす。
終着駅ともよばれるこの国の首都は、有史以前より繁栄したとされる有数の古代文化都市だ。
短い汽笛を何度か鳴らしながらホームにゆっくりと滑り込んだ列車は、心地よい金属の摩擦音を響かせながら停止した。
「トト、起きて!着いたよ!」
ツェツィーリアは何度もトラットリアの肩を揺すったが、口元を緩ませたまま眠っており起きようとしない。見かねたツェツィーリアは、鞄から取り出したパンを少女の鼻先に近づけた。
くんくん。眠った少女の鼻先が微動した。瞬間。
突然大口を開け、怪物の如き素早さでパンを一口に咥えたトラットリアが、自身の得た味覚に驚いたように目を見開いた。
……犬かこいつは。そう思ったツェツィーリアはそれを口にすることなく、彼女に荷物をまとめるよう促した。
「わあ……」
終着駅を出たツェツィーリアは、初めて見る異国都市の町並みに思わず感嘆の声を漏らした。
「すごいでしょ!これがわたしたちの国の首都、ローマだよ!」
開けた駅前広場には、朝にも関わらず多くの人々が出入りをしていた。
雨上がりなのか、ところどころにある水たまりが空の青をきらきらと反転させており幻想的だ。行き交う人々は皆笑顔で、それぞれの営みを楽しんでいるようにも見えた。
石水香の中、少女二人が歩き出す。ツェツィーリアを待ち受けていたのは、見事な古代建築の数々だった。
ツェツィーリアの通う学校も数百年の歴史を誇るが、ここにある建築物は数百年などというものではない。数千年前の遺構であるにも関わらず美しく整えられた闘技場や神殿は見る者の心を踊らせていた。
歩くだけで楽しい街並みは彼女たちの時間を忘れさせたが、南中した太陽からは無視できない日差しが降り注いでいた。
「暑い……」
普段、日中に出歩くことが少ないツェツィーリアは、明確に消耗の様子を見せていた。
「おなかも空いてきたし、ちょっと休憩だね!」
異国の名を冠する階段広場で、トラットリアがくるりと振り返った。なんでも、おすすめの店に連れて行ってくれるのだそう。
大きな通りから一本奥まった路地に店を構えるその小さな店は、言われなければ素通りしてしまうほど小さく、小屋のような佇まいだった。
「おや、誰かと思えばトト!トトじゃないか」
「こんにちは!料理長!」
親しそうな様子で、厨房の奥から出てきた髭の男がトラットリアに呼びかけた。
「見ないうちにまた大きくなったんじゃないか?――と、そちらのお嬢さんは……」
「彼女はツェツィーリア、私の友達だよ!」
トラットリアに紹介されたツェツィーリアは、思わずはにかんだ。
「ふたりとも、よく来てくれた!自慢の手料理を、と思ったんだが、あいにく店は閉めていてな」
「ええー!?何かあったの?」
「ああいや、そんな大したことじゃないんだが、最近またこいつが言うこと聞かなくってよ……」
料理長と呼ばれた男はばつが悪そうに自身の腰をさすっていた。
「腰痛、ですか?」
ツェツィーリアが尋ねる。
「ああ、こいつとはずいぶんと長い付き合いなんだが、店を閉めるわけにもいかねえから無理を承知でやってたらついに音を上げちまった」
「なるほど。症状は腰痛で慢性的、根本の治療は前提で速効性も必要……」
ツェツィーリアは考え込むような素振りを見せたかと思いきや、鞄からいくつかの瓶と乳鉢を取り出した。
「どうしたんだい、お嬢さん」
「お水をください。そして少し、テーブルを借りられますか」
「あ、ああ。別に構わないが……」
水を注がれたグラスを差し出しながら、料理長は不思議な様子でツェツィーリアを見つめていた。
瓶から取り出した粉末を小さじに取り、乳鉢へ慎重に流し込む。ほんの少量の水を加えて粉末が飛散しないようにまとめたツェツィーリアは、先程の慎重な様子に反して別の瓶から取り出した粉末を目分量で乳鉢に移し、果物ナイフで削り取った少量の生姜をさらに加えて混ぜ始めた。
「何をしてるんだあ?一体」
「まあ見ててよ!ツェツィ、本当にすごいんだから!」
トラットリアは胸を張って豪語した。
ほどなくしてツェツィーリアが手を止めた。粉っぽさもなくなり、練りまとまったその固形物を少量薬指に取ると、手招きで呼び寄せられたトラットリアが彼女の薬指をぺろりと舐めた。
「うーん、にがい!この苦みなら、ハチミツよりも牛乳かな!」
「わかった。あとはこれを丸めて――完成です。このままでも構いませんが、できれば丸一日、日陰で干していただければ保存が効きます。いますぐに一粒、そして明日から毎朝一粒飲んでください。少し苦いので、牛乳と一緒にどうぞ」
「何だい、こりゃあ」
料理長は、ツェツィーリアより手渡された半生の粒を不思議そうに見つめていた。
「腰痛に効く丸薬です。少量のトリカブトに、生姜と甘草を混ぜたもので、筋組織をほぐし、血行を促進します」
「と、トリカブトって!――猛毒の花、だろう」
「ええ、おっしゃる通り、ですがご心配なく。焙煎処理によって致死性のものは無毒化してあります。実は、毒でも使いようによっては薬になるんです」
「はあ……」
「とはいえ一度に大量に摂取するのも良くないですから、一日に一粒で十分ですよ」
「心配しないで!わたしもよく飲んでるから!ツェツィの薬を飲むとお腹の調子が良いんだ!」
「じゃ、じゃあまず一口」
料理長は丸薬を一粒、口に放り込むと、料理人の性なのか、苦いと説明を受けていたそれを噛み潰して味わうことを試みた。
料理長が目を見開く。悶絶寸前で牛乳を流し込むと、それは一気に安堵の表情へと変わっていた。
「はあ、こりゃたまげた。お嬢さん、なかなかすごいものを作るんだな」
「それはどうも。流石に飲んですぐとはいきませんが、薬効成分の吸収が進めば腰痛も和らぐはずです。とはいっても、無理はしないでくださいね」
「ああ、ありがとう。心なしか、体が軽くなったような気がするぞ」
「それは流石に気のせいでは……」
「まあともかく!ここまでしてくれたんだ!薬を作ってくれたお嬢さんと彼女を連れてきてくれたトト、二人にごちそうするよ!」
「ほんとに?やったー!」
「良いんですか?」
「ああ。元はと言えばお腹をすかせて訪ねてきてくれたんだろう、お客を腹一杯にせずに帰すのは許せない質でね」
料理長は豪快に笑った。
「で、では遠慮なく」
普段はすまし顔のツェツィーリアは、無意識に頬を緩ませた。
「あ!ツェツィ、嬉しそう!」
「う、嬉しくなんて!」
トラットリアに指摘されたツェツィーリアは反射的に言い返したが、その頬は赤く染まっていた。
「はいよ、おまちどうさん!」
「わあ!おいしそう!」
「本当だ、いい香り……!」
香ばしく焼き上げられた生地の表面には、たっぷりのトマトとチーズ、そして彩り豊かなバジルが添えられていた。
「これは胸を張って言えることだが、間違いなく俺はこの街、いや、この国一番の竈職人だ。俺を超えることができるとすれば、ナポリで修行している俺の息子かトトだけだろうな!」
料理長はヒゲを触りながら豪快に笑っていたが、腰に突如電流が走ったのか、静かに厨房の奥へと消えていった。
「大丈夫かな……」
「きっと大丈夫だよ!せっかく作ってくれたんだし、冷めないうちに食べよう!」
「うん」
うまそうに伸びるチーズをとろけさせながら、二人は熱気を放つピッツァをぱくりと頬張った。トマトとバジルの爽やかな香りが抜け、こんがりと焼き上げられたチーズの旨味がガツンと押し寄せてきた。
「――!美味しい!」
「うん!美味しい!」
トラットリアとツェツィーリアは、顔を見合わせて笑った。こんなにシンプルなのに、どうしてこんなに美味しいのだろうか。
火傷しそうなほどに熱いのにそれを苦に感じない温度、厳選された食材、外面はカリカリに、内面はふわふわに仕上げられた完璧な温度管理、そしてそれを繰り返し遂行できる経験。
それらすべてが合わさって、この完璧な料理ができあがったのだ。
その美味しさに頬を緩ませるツェツィーリアは、眼前で美味しそうに頬張っているトラットリアが「自分だけの食堂を開く」と夢を語っていたことを思い出し、彼女が最高の料理人になる未来を想像してまた顔をほころばせた。
「ごちそうさま!ありがとう料理長、また来るね!」
「おう、ツェツィーリアちゃんもありがとうな!また来てくれ」
「いえ、こちらこそ」
昼食を取り終えた二人はしばしの休憩を経て、再び午後の街に繰り出した。
日は出ているものの気温は落ち着いてきて、乾いた風が路地を吹き抜けると心地よい涼しさがもたらされた。
「ツェツィ、付き合ってくれてありがとう!」
料理長からもらった腸詰め肉をかじりながら、トラットリアはご機嫌な様子でツェツィーリアの前を歩いていた。
「こちらこそ。美味しいピザが食べられて良かった」
まだ食うのか。そんなことを口にすることもなくツェツィーリアは言葉を返す。
「また列車で南下して、ナポリに着いたら一泊だよ!」
「わかった。ちなみに大丈夫なの?それ」
「ん?何が?」
問いかけに問いかけで返してくるトラットリアは、不思議そうに首をかしげていた。
「ほら、さっき料理長が」
『トト、これ持っていきな!うちの特製だ。――しっかりと火通してから食うんだぞ』
「……」
トラットリアが沈黙する。その沈黙を見て、ツェツィーリアはすべてを察した。
ほどなくして。
「腹が……!」
その場でうずくまる少女の口に、ツェツィーリアは慣れた手つきで丸薬を放り込んだ。