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Aperitivo 食前酒 梨と紅茶のカクテル

「こんにちは!どうぞ、本日の食前酒です!」

 ふわりと舞うロングスカートの裾が視界に映る。

 その声の主を見上げるより先に置かれた卓上の小さなグラスに視線を奪われた。

 グラスを置いたきめ細かい指先からたどった先に居た少女は、こちらの視線に気づくと目を合わせて太陽のように微笑んだ。

 美しく赤い髪を揺らしながら去ってゆく少女は大勢の客がひしめく中、トレンチ片手に笑顔を振りまいてはすり抜けてゆく。

 心地よく冷えたグラスを手に取ると、ミントの爽やかな香りに負けじと甘く鋭いシナモンの芳香が追いついてきた。グラスの縁に寄りかかりつつも水面に浮かぶ棒状のそれはおそらく軽く炙られている。

 グラスに口をつける。カクテルの表面を覆っていた糖酸化反応カラメリザートの被膜は唇に触れると容易く割れて、直下の液面へと瞬時に溶け出していた。

 ほんの微かな甘みに包まれ、きりっとした酸味が鼻を抜けた。ジンだ。中北部地方産のクラフトジンは豊かな香りとすっきりとした味わいをもたらしつつもあえて脇役に下り、主役たる梨に味覚を譲っていた。

 全体としてあくまでも酸味が優位に立つように仕上げられた配分の中にも十分な甘さはあった。

 果肉に染み込んだ生姜のびりびりとした辛味を噛み潰すと、ささくれを癒やすかのように甘く芳醇な梨の果汁が舌先を包みこんだ。

 ほんの僅かな咀嚼であったが、用意された食前酒はすべて胃袋の中へ流し込まれて爽やかな香りだけが鼻腔を抜けていた。

 食欲が増進されていることをはっきりと知覚する。ああ、これだけのものを堪能したというのに、胃袋のどれだけ貪欲なことだろうか。

 次に運ばれてくる料理に対する期待を、隠す必要など無かった。





 トラットリアとツェツィーリアの出会いは、ほんの数ヶ月前。紛う事なき偶然と言って差し支え無かった。


 放課後の学園。課題などではなく、あくまでも自己の探求欲から理科室を占有していたツェツィーリアは、研究で行き詰まった思考をほぐすべく外へ出た。酢酸と有機溶剤の刺激臭には慣れきったものだが、その臭気は決して気分が良くなるなどといって好んで取り入れるものではない。

 帝立シュピクラント高等国民教育校。ツェツィーリアが所属するこの教育機関は、その広大な敷地内を流れる河川や山林、隆起地層や洞窟などの自然物や遺跡、遺構が数多く存在しており、生徒たちの憩いの空間であると同時に研究の対象となっている。

 金色の陽光が溶ける川辺を歩くと、夕時の風が冷たく髪を梳く。誰ひとり居ないこの空間を独占するのが、ツェツィーリアの密かな楽しみだった。

 少女は風の音に身を任せて目を閉じる。偶然にも川の畔で感じるその音や感覚は、広大な農地を所有する生家で過ごしていた頃を思い出させる。ツェツィーリアがまだ幼かった頃、既に畑仕事を手伝っていた姉が積んだ麦藁の上で二人寝転んだ午後。そんな他愛も無い記憶を呼び覚ますことは、彼女にとって最高の気分転換でもあった。

 ああ、今なら新たな調合が閃きそうだ。そんなふうに口元を緩ませた金髪の少女は中断していた調合作業を再開すべく、研究室へと踵を返した。その時。

「うおおおおおお!!負けるかああああ!!このおおおおおお!!」

 背後から予測不能な絶叫が響いた。慌てて振り返ると、一人の少女が水面と格闘している。

「ぐううううううう、すごい力!!おりゃああああ!!」

 真っ赤な髪を振り乱し、暴れ狂う釣り竿を全身で抱え込んでいる。

 あまりにも必死なその形相に、ツェツィーリアは思わず足を止めていた。

 ザバアアアアン!!

「やたっ!私の勝ちいいおぶウェッ!?」

 少女の半身ほどもある、釣り上げられた大きな魚は、勢いよくびちびちと跳ねながら少女の顔面を直撃した。

「だ、大丈夫……ですか?」

 恐る恐る声をかけた。

「ごめんごめん、ちょっとびっくりしただけ。大丈夫!って逃がすカァ!!」

 言葉を挟む余地もなく、その少女は逃げ出そうとした魚に飛びついて執念のごとくそれを離さなかった。

「な、なんでそこまで……」

「なんでって、決まってるでしょ!!食べるの!!」

 シャケェ!!

 ビチビチと跳ねる魚に、大口を開けた少女がそのままかぶりついたのだ。

「えぇ……」

 ツェツィーリアは絶句した。生きたままの魚にかぶりつく人など、今まで見たことがなかった。

「んんんうまい!この引き締まりつつも脂が乗った身!ああ!幻の調味液サルサがあれば!!」

 生きる気力を失ったその魚の身を、少女は涙を流しながら咀嚼していた。私は、その凄惨たる光景を、呆然と立ち尽くして見るよりほかなかった。

「あ、キミも食べる?……って、食べかけはイヤだよね!待ってて!すぐに釣るから!!」

 そう言って少女はものすごい勢いで魚を平らげると、祈りを捧げて骨を川に流す。

 が、

「ぐああああああああああああああああああ!!!!」

 突然の悲鳴に、私は思わず飛び上がった。

「ど、どうしたの……?」

「腹が、腹があああああ!!」

 釣り竿を放り出し、腹を抑えて転げ回る少女。

「痛い!今までで一番痛いいいいいいい!!うぎゃああああああああああ!!」

 ばたばたと転げ回っていた少女は、しだいに暴れる元気もなくなってきたようで、ついには腹を抱えてうずくまるのみとなった。

 ツェツィーリアは苦悶の声を上げる眼前の少女に、ハッとしたように呼びかけた。

「――大丈夫!?魚に毒があったのかも、痺れるような感じはある?」

「し、しびれは、ない、かも……なんかこう、お腹の中を噛みつかれてるみたいな!!痛いよー!!」

「魚、生食、腹に噛みつかれているような痛み――もしかして!」

 しばし考え込んだツェツィーリアの脳裏に、一つの仮説が思い浮かんだ。

「どうしたの!?私もう死ぬ?死んじゃう?うわあああああああああん!!」

 赤髪の少女は神妙な面持ちで考え込むツェツィーリアを見て、思わず泣き出してしまった。

「ちょっとだけ、ちょっとだけ待ってて!」

 ツェツィーリアが走る。急いで理科室に向かうためだ。

 昨日作った、柑橘の種と幼木の根をすりつぶして練った丸薬。成分の研究が正しければ、胸焼けと腹下しに効果があるはず!

 勢いよく研究室の扉を開ける。戸棚の下の引き出し。あった。

 本来の用量は一回二錠だが、緊急時だ。四錠飲んでもらう。

 丸薬を握りしめて、ツェツィーリアは走った。少女の心臓は今にも張り裂けそうだ。

 普段運動をしないツケがここまで回ってきたかと、彼女はついに膝に手をついた。

「おいてかないでよおおお!!」

 そこに、さっきの少女が涙を流しながら腹を抱えて走ってきた。

 見上げた根性だ。そして底なしの気力と体力。

 ツェツィーリアはその少女の愉快な口に、丸薬をねじ込んだ。

 ごっくん。

 泣き止んだ赤ん坊のように、少女は落ち着きを取り戻した。と、その瞬間。

「けほっ!」

 口から何やら吐き出した!よく見えなかったが、白い紐のような何かだ。

 それは針金のようにぐねぐねと曲がり、次なる宿主を探すように土の上をもがいたが、ついにはその身を丸めて力なく息絶えた。

「フィシュヴァーム!魚に取り付く寄生虫だ!こんなに大きいのは初めて見たよ……」

 ツェツィーリアは思わず感嘆の声を上げる。寄生虫という存在は知っていても、実際に本物を見るのは初めてだったからだ。専門分野ではないが、今後の研究に活かせるかもしれない。興味深く寄生虫を覗き込もうとした、その時。

「良かったああああああ」

 赤髪の少女がツェツィーリアに抱きついたのだ。それはもう、全身全霊の感謝を示すような熱い抱擁だった。……生魚の臭いをぷんぷんさせながらだったが。

「わたし、トラットリア!学年は二年で、専攻は食品科学!夢は世界中の料理を食べ尽くすこと!助けてくれてありがとう!よろしくね!」

 トラットリアと名乗った少女は胸を張ると弾けるような笑顔で笑い、手を差し伸べた。

「私はツェツィーリア。同じく二年で、専攻は薬品調合。よろしく」

 ツェツィーリアは差し出されたトラットリアの手を握り返した。

 ねちょり。魚のぬめりが残った手での握手に、ツェツィーリアの頬が引きつった。





「ねーえー、ツェツィってば」

 ぷいっとそっぽを向き、窓の外を眺める金髪の少女――ツェツィーリア・アイベンシュッツは隣に座して呼びかける赤髪の少女――トラットリア・サルーテのなだめるような呼びかけを黙殺していた。

 ツェツィーリアが怒っていたのは、トラットリアの時間に対する考えの甘さに端を発していた。

「長旅になるから余裕を持って行動しよう」

 散々釘を差していたにも関わらず、トラットリアが食欲に負けて露店での買い食いを繰り返した結果、列車の乗り換え時間ぎりぎりとなったせいで走って飛び乗るような形になってしまったのだ。

 運動が得意ではないツェツィーリアに対し、トラットリアは運動神経も比較的よく、体力もある。結果、急かしたツェツィーリアのほうがトラットリアに追い抜かれ、息を切らしながら乗り込んだ列車で心臓を爆発させそうになっていたツェツィーリアは苛立ちを隠せなかったのだ。

 ミュンヘンを発ち、列車に揺られること数時間。ツェツィーリアの我慢は、限界に達していた。我慢といっても、怒りをこらえるという方向ではない。赤子のように涙を浮かべながら彼女の方を見つめるトラットリアが涙を流しながらパンを頬張っているのを反射した車窓越しに視認してしまったためだ。

 意思に反し、ついに吹き出してしまったツェツィーリアはため息をつくと、観念したようにトラットリアの方へ向き直した。

「――!ツェツィ~」

「今日は許してあげる。もうしないでよね」

「わかった!」

 さっきまでの不安げな表情から一転、ころりと笑顔に転じたトラットリアは先ほどとは比べ物にならないくらい安心した様子でツェツィーリアにパンを差し出した。

「いっしょに食べよう!」

 今回の列車移動は、ツェツィーリアが学園に入ってから初めてとなる帰省以外の遠出、そして初となる国外遠征だった。

 学園のある帝国を出て向かうのは、赤髪の少女トラットリアの故郷、南の隣国の南端に位置する島、シシリー島だ。

 研究のために遠出をしたいが資金的な余裕がないのに対し、トラットリアが申し出たのだ。

 故郷を離れて進学したトラットリアは年に何度か、帰省するタイミングがある。ツェツィーリアが彼女の家に泊めてもらえれば宿代が浮くという算段だ。

 心地よい軌条間の振動が車内に響く。山間を抜ける車窓は退屈で、小腹を満たした少女たちは満足げな表情で肩を寄せ合い、その視界に帳を下ろしていた。



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