22世紀のふたり
海のほうから白んでいくほんの少し手前。びゅうびゅうと行き来する風も止み、漸く静まり返った二五時。つかの間の眠りの後、町は朝のおとずれを暗示するように、静かに呼吸を始めていた。
人々が寄り添いあい、しあわせな眠りに身を任せている頃。彼女は一人冷たいい床に身を横たえていた。
彼女の周囲には無機質な諸々が転がっている。さらりとしたぬいぐるみに、主電源の落ちたテレビ。新品同様のカレンダー。その空間に音はなく、変化は存在しない。
彼女の部屋を出ていくと、殺風景な居間、長い廊下とつながっている。その廊下を突当りまで進み、冷たいドアを挟んだ外に目を移していく。
ドアの外にはくたびれた街の風景。彼女の住む2階建ての黄ばんだアパートと似たり寄ったりな建物が延々と続いている。
月の光も細切れになったこの時間。永遠に続くような夜の風景の端、アパート群から離れた高層ビルの群れのさらに向こう。駅を越え、ほんの少し海の香りが漂ってくる街の隅っこで、やっと。
朝日が顔を出し始めていた。
一、春
最近の私はどうかしてしまっている。例えば起床時間。学生時代から今まで、きっかり十二時に寝て六時に目がさめる、というルーチンが完全に身についていたはずだった。なのに、最近はずっと早くに目覚めてしまう。まだ真っ暗なうちになんとなく目覚めてしまい、そのまま寝付けなくなってしまう、なんてことがざらになってしまった。
気づけばぼーっとしてしまっている、ということも増えた。
起きる時間なんてものは、自分の中の問題だからまだいいかもしれない。だが、私の変調は他人から見ても如実なようだった。
この間は、課長に注意力が散漫だ、と注意されてしまった。
このところ、簡単な業務でさえ失敗して、何度もやり直してしまう。
昨日は、同期に鼻歌を歌っているところを目撃されてしまった。
最も深刻なのは、私自身が鼻歌を歌っていた事に対して無自覚だったことかもしれない。
とにかく、これらの事態は私にとってはおよそ非常事態と言っていいようなものだった。
昔から私に対しての周囲の評価は、真面目で堅物で、几帳面で静かなやつ、というものばかりだった。私自身もその通りだと感じていたし、いつからか意識的にその人物像にあった言動をとるよう、心がけていた。実直で真面目、というキャラクターは私にとって悪い物ではなかったはずだった。
それなのに、ここ最近の私はこのざまである。他人から見てもわかるほど浮ついてしまっている。
五月病ではない、と思う。
疲れているというわけでもない、はずだ。
昨年地元の女子大を卒業した私は、そのまま地元の食品メーカーに就職した。新卒社員が自殺したりする物騒な時代において、我が社は非常にクリーンな労働環境を提供してくれていて、なんなら学生時代の方が大変だったんじゃないか、と感じるくらいである。
となると、仕事以外に原因があるのか、とも考えられるが、あまり有力なものは思いつかない。プライベートで何かに打ち込んでいるわけでもなければ、あまり人付き合いをする方でもない。
そんな風に思うままに、自分を律して生きてきた私が、こんなにも自分の意思に反して浮ついてしまっているということで、私はほとほと参っていた。
この原因はやっぱりあれなのかなぁ、などと思案しているうちに、もう朝日が差し込んできている事に気がついた。
もそもそと掛け布団から這い出し、朝の支度を始める。このところ少し身だしなみを整えるのにかける時間が長くなっているため、すこし急いだ方がいいかも知れなかった。
手早く準備を整え、朝の街に飛び出していく。
電車を二本乗り継ぎ、職場の最寄駅へ。近畿の、地方都市と呼ぶにも微妙なレベルのこの街は、駅前もいまいち盛り上がりに欠ける。都会のターミナル駅のようにサラリーマンたちが肩で風を切るということもなければ、学校を抜け出した学生たちが大勢で騒いでいるということもない。ぽつぽつと元気のなさそうな勤め人や小さな専門学校の学生が通り過ぎていくだけである。
この味気のない通勤風景も三ヶ月目ということで、随分飽きてしまった。
「よう、白石」
私もとぼとぼと歩いていると、後方から声をかけられた。
振り返ってみると、小柄な青年が笑いかけている。
「なんだ、野坂か。お疲れ」
彼は私の同僚の一人で野坂優希という。百六十五センチに満たない身長と幼い顔立ちからスーツを着ていないと中学生にしか見えないのだが、彼はれっきとした成人男性であり、私と同じく新卒で入社した同じ部署の仲間でもある。
「なんだ、今日は元気そうじゃん」
野坂が安心したような表情を見せつつ、話しかけてくる。
思えば、このところ私が仕事に身が入っていない事に真っ先に気がついたのは彼だった。こんな風に自然に周囲に気配りができることは彼の美徳であり、彼が入社後はやくも一部の女性社員から人気を集める事になった原因でもあるのだった。
そのまま彼と夏休みの予定だの上司の賛辞(愚痴じゃない)を話しながら、会社へ向かっていく。そして愛すべき我が職場が近くにつれて私の歩みは遅くなり、自分でもわかるほど上の空になってしまう。そんな私の様子を知ってか知らずか、変らない調子で喋り続ける野坂に対し適当にうなずきつつ、複雑な心中のまま、ようやく会社の入口をくぐったのだった。
道ゆく社員の方々に軽く挨拶をしつつ、ふらふらと私たちの部署まで歩いていく。すると、
「おはよう。あら、今朝は二人一緒なんだ」
と。
かけられた声に反応して思わず立ちすくんでしまう。首元と手足と頬が熱い。やっとの思いでおはようございます、と音を絞り出し、早足で自分のデスクに着く。
そんな私の失礼な態度も意に介さない様子で微笑んでくれているこの人。
澄んだ声で毎朝挨拶をしてくれるこの人。
そして、綺麗な黒髪にくっきりとした目鼻立ちが魅力的な、五つ年上のこの女性こそが、私を浮つかせている原因なのだった。
飲み会というものは酒豪やお調子者はもちろん、普段真面目な人間も羽目を外して馬鹿騒ぎをするものだ、というのが大学生活を終えた私の結論だったのだが、そうでもないらしいと気がついたのは入社後すぐの歓迎会だった。
新入社員という事で喝采の中芸の一つや二つさせられるかもしれん、と思い、肩をこわばらせていた私を待ち受けていたのは、お年寄りの集う地域のお茶会かと見間違うような、和やかというよりは閑散とした光景だった。
私の部署は私と野坂、それから五つ上の凪先輩という女性を除くと、四十五十を迎える大先輩がた数名がいるだけなのだった。
大音声で騒ぎたてようものなら血圧までぶち上げてしまう、と静かに日本酒の盃を傾ける我が部署の酒の席は、私にとってはとても好ましいものだった。
少なくとも酒の濃さや喰らった手羽先の本数でマウンティングする、などという乱雑で無秩序な学生時代の飲み会と比べれば、よほど私向きといってよかった。
「それでは今月の皆さんの頑張りと我が社のさらなる発展を祈りまして」
野坂の乾杯の音頭で今月の慰安会が始まった。
話題に上るのは、取引先に対する愚痴や課長の奥さんとの不和問題についてなどだった。
あまり私にとって関心のある話題とはいえず、珍しく盛り上がっている男性社員の先輩方や野坂を見やりつつ、手持ち無沙汰にしていると
「ごめんね優ちゃん。老害だけで盛り上がっちゃって」
凪先輩が話しかけてきてくれた。
凪七海先輩。私を惑わせている張本人だった。
「老害って。先輩はまだまだお若いじゃないですか」
意識的に視線を合わせるよう努めながら話す。
「こんな環境でもう五年も働いてるからね。私も随分年をとったように感じるよ」
そういって笑う凪先輩の声は少女のようだ。整った顔立ちに不釣り合いなその声色が、彼女の魅力だと思う。
油にまみれたこの居酒屋と妙にマッチするこの女性は、意外にも下戸だったりする。
早口にならないように気をつけながら話す私に、凪先輩は律儀に頷きながら色々と切り返してくる。この部署に二人しか女性社員がいないということもあってか、凪先輩は入社当初から何かと私のことを気にかけてくれていた。
そうして過ごしていると、意外なほど時間が経過していたようで、男性陣はお酒が回ってきているようだった。あまり飲まないはずの野坂が珍しく潰れている様子が見える。
そろそろお開きかなぁなどと考えていると、
「優ちゃん。好きな人でもできたりした?」
一呼吸置いて、手のひらをひらひらとさせながら言い返す。
「そんなことないですって」
「嘘。最近話しかけても上の空のことが多いじゃない」
先輩が私の顔を覗き込んでくる。ちらりと覗く白い首元が眩しい。
「だからって何でもかんでも恋愛に結びつけるというのは安直すぎはしませんか?」
「じゃあ、他のことが原因ってこと?」
返答に苦しむ。こういう時にうまく切り返すことができないところが、私の悪いところだった。
やっぱり怪しいな、と疑ぐる凪先輩。じゃあさ、と先輩は目を輝かせて聞いてくる。
「じゃあもし仮に恋愛関係の話だったらってことでいいんだけど。三つだけ質問するからイエスかノーで答えてくれない?」
思わずわかりました、と答えてから、質問を受けること自体がそう言った悩みを抱えている、と自白するようなものだと気がついた。いつの間にか私も酔ってしまっていたのかもしれない。猛省する。
先輩はまんまと引っかかった私を見て本当に楽しそうに笑い、
「じゃあ一つ目ね。お相手は年下だったりする?」
いいえ、と即答する。こういった二択なら私でも上手く切り抜けられるかもしれない。少し安心してグラスに残っていたハイボールを飲み干した。理科室の無機質な香りが通り抜ける。
店内では、様々な大人たちが週末の夜を謳歌していた。深みのあるテノールの笑い声が遠くに響いていた。
「優ちゃんは年下好きじゃなかったか」
と先輩は頭を掻く。子供のような仕草だが、なぜか私にはすごく大人びて見える。
「じゃあ二つ目。その人は家庭的なタイプかな?」
はい、と今度も即答する。その人が毎日実家の家族の分のお弁当を作り、退勤後は夕食の買い出しをし、そこから一通り家事をしていることを私は知っていた。
追記すると、その人の卵焼きはとても甘い味だったりする。
そっかそっか、とにやつく先輩。テーブルから身を乗り出してきているので、彼女の息遣いがダイレクトに届いてくる。
少し、頭がぼうっとしてしまう。お酒には結構強いはずだったんだけど。
今まで感じたことのない緊張感で、熱くなった指先をテーブルの下に隠した。
じゃあ、最後の質問ね、と先輩がさらにずいっとにじり寄ってくる。周囲の音はいつの間にかほとんど聞こえなくなっていた。
「えっとね、人に言えないような恋だったりするのかな?」
ぬるい夜風が私の頬を撫でる。結局あの後野坂は完全に潰れ、先輩がたに担がれながら家まで搬送されていった。
最終電車を降り、家までの長い帰路を歩く。人気のない微妙な田舎道を弱々しい月光が照らしていた。
私は酔いが完全に冷め、自分の足音だけを冷静に聞いていた。
五月の心地いいはずの気候は、火照った体には暑すぎるようだ。
いまだにしっくりとこないスーツに包まれた肺が痛い。高揚感は完全に冷え切り、締め付けられるような暑さに苛まれている感覚。
イノシシに気をつけろという馬鹿みたいなイラストのついた看板が憎らしい。
遠くに光る民家の橙の光たちが、私を嘲っている。
もうどうだっていいという思考に身を預けてしまいたくなる。
最後の答えはイエスだろう。
二、秋
一ノ瀬遥に会うのは実に四ヶ月ぶりだった。スカスカのスケジュール帳を躍起になって埋めようとしていた大学時代から一転、何かと忙しくなってしまい、顔をつき合わす機会を逃し続けていたのだった。
都市のはずれにひっそりとたただずむ我が母校。そのさらに隅っこの喫茶スペースが彼女が指定した待ち合わせ場所だった。学生が談笑できるように、との期待から設けられたであろうこの施設は、日当たりの悪さと全ての教室からも微妙に離れているという立地、そして提供される飲み物の不味さからうら若き女子大の生徒たちから完全に見放されていた。
この静かな空間を占領し、華のない会話を延々と繰り広げることに私と遥は四年間を費やしたものだった。
彼女との出会いは私が一回生の頃だった。いつもの喫茶スペースでちょくちょく彼女を見かけていた私は、彼女のいかにも深窓の令嬢といった容貌と一人静かに学術書を読み耽るその姿に、強い憧れを感じていた。
そしてその年の冬。調べ物を終え、夜も遅くに大学を出た私は、正門の前で浮浪者よろしく眠りこけている彼女を発見。彼女に抱いていた淑やかなイメージは一瞬で消え去ってしまった。恐る恐る声をかけたところ、呂律の回っていない彼女に捕まってしまい無理やり連行され、気がつけば彼女の住むアパートで酌をさせられていたのだった。その日以来、彼女との腐れ縁は何かと続いている。
すすぼけたコーヒーメーカーに目をやりながら待つこと一五分。時間きっかりに現れた彼女はすたすたと近づいてくると、おはようさん、と言いながら私の頭を撫でてきた。
その雑な挨拶がまったく変わっていないことや、相変わらずの薄化粧を目にしてなんとなく安心した気持ちになった。
遥との再会から十時間。初秋の清潔な空気が心地いい夜の道を歩いている。
彼女が潰れて私が介抱するというのはお決まりのパターンとも言え、こちらもある程度想定はしていたのだが、今回はそれを上回る事態になってしまった。
駅に着きさあ帰るぞという段階になり、遥が鞄を忘れてきたことが判明。千鳥足で酒場まで戻り回収に成功したもの、タッチの差で終電を逃してしまった。
私が絶望していると、遥は悪びれずに「海に行きたい」などと提案してきた。
私も大概酔いが回っていたのか、非常にその提案が素敵なものに思えてしまい、頷いてしまったのが運の尽きだった。
もう歩き始めて二時間にもなる。ようやく潮の雰囲気が感じ取れるようになってきた。久しぶりに酷使した膝が限界を訴えている。せめてタクシーという手段を思いついておきたかった。
「優に介抱されるのも久しぶりだね」
などと遥は非常に上機嫌な様子である。酔いも冷めてきたのか、元気に足音を響かせている。
「社会人になっても一切成長していない遥を見て、大人への幻想が崩れたんだけど」
てきびしいなー、と頬をかく遥。少女のような動作と大人びた造形が不釣り合いだった。
「遥はあんまり変わらないね」
思わず口を衝いて出た私の言葉に、非常に不服そうな顔を見せる。
「いや、結構変わったと思うよ。それなりに頑張ってるし、色々経験してるとこだし」
色々経験、と復唱してみる。別に深い意味はないけど、と慌てる遥。ちなみに彼女は春から大阪の商社で勤務している。
「実際、やっと職場の雰囲気にも慣れてきたとこだし。色々悩むことも多かったけど、目標も出てきたし」
そういって笑う遥。彼女の足取りは力強い。後ろで縛った黒髪が左右に飛び跳ねている。そんな彼女の横顔が、ひどく遠いものに感じられた。
海の音が聞こえ始めている。私の町の岬と同じ匂いがする。
「私から見れば優こそようやく大人になったなって思うよ」
大学生なんてガキだという意味だろうか。それとも、私も少しは変わったという意味か。
「まあ、人って毎日変化し続けていく生き物だし。そういった意味では、久しぶりの優をみるのは楽しいかな」
そういって静かに微笑む遥。それは私がかつて憧れていた彼女のものだった。
この友人は私の些細な変化も絶対に見逃していないんだろうなと思う。
最後の分かれ道を右折すると、懐かしい海岸の景色が広がっていた。
舗装された階段を降り、砂浜の上に腰掛けた。九月の砂浜には、私たち以外の人影はない。周囲には朽ち果てた煙草の吸殻や手持ち花火にライター、サングラスや焼きそばの容器など、夏の死骸が広がっている。
この浜辺は学生時代に何度か遥と訪れた場所だった。勿論徒歩なんて無謀な手段を用いたのは今回が初めてだけど。
黒と灰の海は、遠い向こうからの波を送り続けてくる。まるで乱雑に編み込まれたレースのようだ、と思う。
港町に生まれた私からすれば、夜の海とは恐ろしくも落ち着く場所だった。
「ごめんごめん、お待たせ」
遥が隣に腰掛ける。彼女の両手には缶チューハイが握られていた。
本気かよ、という私の視線を受け、平気平気、とはにかむ遥。
無理やり握らされた缶を彼女のものとぶつける。乾杯、と彼女の声が届く。彼女は乾杯を欠かさない女だった。
遥は心底美味しそうに酒をあおっている。色の薄い唇と白い首がこくこくと動いていた。
あっという間に全てを飲み干し、私の方をじっと見つめてくる。
この暗くて広い世界に二人きり。永遠に続きそうな静寂に包まれる。
隣の遥から体温が伝わってくる。裸足の足先に触れた波は、思ったよりずっと温かかった。
なんとなく、遥に隠し事をしたくない気分になった。単なる深夜の気の迷いなのかもしれないけど。
檸檬っぽい味がする安酒をえいっと流し込み、
「私、好きな人ができたんだ」
そっと彼女に打ち明けた。
一瞬の沈黙の後、そっかそっかと遥はとても嬉しそうな顔を浮かべた。
「すごく綺麗になってるし、表情が増えたしで何かあるなとは思ってたけど、ついに優にも想い人か」
自分のことのように喜んでくれる遥。じゃぶじゃぶと足で水面を叩く。そんな仕草から、彼女の優しい人柄が感じられる。
「それで、相手はどんな人なのか聞きたい」
そっと話を促してくる遥に、凪先輩のことを話した。彼女の癖や、好きな歌手のことまで。しどろもどろで全く要領を得ない私の話を、遥はじっと聞いてくれた。
月は煌々と冴え渡り、波間で不規則に反射している。腕時計の針は三時を指していた。
私は一通り話し終え、再びアルミ缶に口をつけた。遥は素敵な人だね、と口にした。
「うん。優は生真面目な分危なっかしいところがあるからね。その先輩みたいな年上の優しい人と、相性いいと思う」
その言葉はとても優しいものだった。
私は凪先輩と過ごす中で、だんだん膨れ上がる想いにずっと悩んでいたのだった。夏の間中考え込んで、やはりこれは恋だ。周囲にどう思われようと、この気持ちに嘘はつかないでいよう、と私なりの結論をようやく出せたのはごく最近である。
そしてその思いを、肯定されることがこんなにも嬉しいなんて知らなかった。不覚にも涙が溢れそうになる。
「初恋が女の人なんて、なかなか前途多難かもしれないけれど」
照れ隠しのようにいう私を、遥は何二十世紀的なこと言ってんの、と一蹴する。
「恋愛の規範なんて刻一刻と変わるものでしょ。遥がその人のことを本気で思っているんだったら、それが正解なんだよ」
なんてことないような顔でそう言ってくれた。
遥のような恋愛観を持つ人は二十一世紀初頭の今ではそう多くないかも知れないけれど、彼女が応援してくれるだけでも、本当に救われると思った。
感謝の念を込め、遥の手をぎゅっと握る。細い彼女の手の感触と、潮と蜜柑の香りが脳裏にプリントされていく。
早速浮気か、とからかう遥の声を聞きながら、この夜のことはずっと忘れないんだろうな、と感じていた。
初秋のぬるい浜風では、火照った体は冷めそうになかった。
三、冬
本格的な寒波が西日本に到来し、毎朝凍えながら通勤する日々が続いた。例年うちの会社は年明けから冬の間はあまり忙しくないのだが、今年は新しい商品の売り込みや新規取引先の開拓など、気を抜けない業務が目白押しだった。
そんな大変な日々もようやく落ち着き、やっと一息つけるかという状況になったのは、二月も終わりに近づいてからだった。
そんな訳で本日は二月の第三日曜日。まだ太陽が出る少し前。私は白い息を吐きながら公園のベンチに腰掛けていた。
別に早朝ジョギングや散歩を日課としているわけではない私からすると、この時間帯の外の景色というのはとても新鮮だった。清潔な空気が心地いい。
そして私の左肩にそっと体を預けているのは、凪先輩だ。
こんな時間が訪れるなんて想像できなかった。まさか本当に自分が報われるだなんて、思ってもみなかった。
あの遥と過ごした秋の夜の数日後。意を決した私は凪先輩に自分の思いを告げた。突然の告白に対して先輩はかつてみた事が無いほど取り乱していた。
そしてすぐには考えられないから、返事はしばらく待ってほしい、と言ってくれた。
即座に断られるか、気味悪がられるかも知れないと思っていた私にとって、その先輩らしい返事はとても眩しいものだった。
それからの数ヶ月間、私は必死で先輩に少しでも好いてもらえるよう努力した。今まで恋愛経験のなかった私は相手の気をひく方法なんて知らなかったため、手探りの状態でだったけれど。
かつてないくらい誠実に仕事に取り組んだ。先輩が困った時は全力で尽くした。少しでも彼女といられる時間を増やすようにした。そして、私の思いを先輩に伝え続けた。
そんな拙い方法だったけれど、毎日毎日続けた。先輩が真摯に返事してくれた分、私も真摯に努力しようと思った。
そしてちょうどひと月前。私でよければ、と凪先輩に言われた時、不覚にも先輩の目の前で泣いてしまった。体の中心が火をくべた様に熱くなり、何かしらの感情が湧き上がる前に涙が溢れてしまった。
人前で泣くなんて粗相をしたのは初めてだったと思う。そしてそんな私をそっと抱き締めてくれた先輩の手の感触は私の世界の全てを変えてくれるほどの力を持っていた。
そして昨日は、初めて先輩のお家に泊めていただいたのだった。恋人と何かをするというのは私にとって初めての体験ばかりで、ここのところ心が休まる暇がない。でも、その全てが幸せなものであることは自明だ。
今日も、なんとなく目が覚めた先輩と私で朝日を見に出てきたのだ。
先輩と目があう。寒いね、と笑いかける先輩に対してはい、と笑いかえす。そんな静かな時がゆっくりと流れていく。
ふと、この街のどこかでも、同じように好きな人と尊い時間を過ごしている人々がたくさんいるんだな、と思う。少し前の私のように、恋に悩み、ためらい、傷ついてしまっている人も大勢いるかも知れない。
今までただ過ごしていただけの時間に、色々な人の色々な営みが起こっていたとすると、ここにいることが奇跡のようなものに感じられる。
そうして私は、漸く顔を出した朝日を見ながら、先輩の熱量を左頬に感じているのだった。
N君に捧げます。