図書館にて
個人的にはホラー
手に取った本を、やはり棚に戻そうとして、すんなり差し込めず、揺れた本の裏から、それが這い出る。視線が知らずそれを追い、釘付けにされる。本棚の内壁を這う、手のひらほどの大きさの、それは、壁に張り付いて止まっている。丁度、今手にしている本より前に取った本のあったところの上で、音もなく停止している。日常目にしうるものよりはるかに大きく、また、大きいだけに体の各部がどうなっているかもよく見て取れる。産毛の生えた体は二節に分かれており、前方には複数の目と、モールのような八本の脚が付いている。
本を戻して逃げるべきか、否、その為にはほんの数㎝という位置まで手を近づけることになるし、それで本が揺れればそれはまた動くだろう。それに、いつも見るその棚にそれが住み着くなんてことになったら困る。
周囲を見回す。一番近くにいるのは、他の利用者だ。助けを求めるには不適切だろう。しかし、幸いにもここはカウンターに近い位置であり、カウンターに職員の姿がある。ほんの数m、数mだ。動悸のする胸を押さえつつ、ゆっくりと、それから後ずさるようにして離れ、立ち上がり、職員に助けを求める。泣きそうになる己を内心で叱咤し、声を、言葉を絞り出す。
不明瞭な、単語を拙く並べたような形にはなったが、どうにか職員には伝わったようだった。あれのいた棚まで誘導し、指をさす。大きなそれは、職員にもすぐ見つかり、職員は道具を取りに行った。手にしていた本を元あった場所の近くに置き、それから少し距離を取って、見張るように見る。
職員は、蓋の付いた塵取りを持って戻って来た。更に、それから離れ、それとなく様子を伺いながら、心を落ち着けるために他に意識を移す。いつものように、検索機で気になる本が入荷してないか調べる。特になし。
職員たちが本を退かして、あれをどうにか捕まえようとしているのが見える。つつかれて、這い出したそれがうぞうぞと動いて、通路を渡った。棚を回り込むようにして、距離を取りながら、様子をうかがう。本棚を這い上っているあれを、職員が箒で払い落として塵取りの中に入れようとしている。
逃げたそれがこちら方面に向かってくるのが見えて、思わず後ずさる。
固唾を飲んで見守っていると、職員は何とかそれを塵取りの中に捕まえた。外に放すらしい。通り過ぎる職員に会釈して、なんとか呼吸を落ち着ける。ひとまず、あれの脅威は去った。
手にしていた本の貸出手続きを他の職員に頼みながら思う。あれはどのような経緯であんなところにいたのかと。形と動きからして、あれは巣を張るタイプではない。毒のあるものかは、知識がないからよくわからないが、おそらく、不快害虫ではあっても、一応は益虫に分類されるタイプであろう。あれらは大体そうだ。一般的に、大きなものの方が害が少なく、小さいものほど毒が強かったりする。朝のあれは殺してはいけないとか言われたりする。理由は知らない。
あれは、嫌いだ。肝胆寒からしめる、というやつである。何故と問われても困る。気が付けば、そうなっていた。ほんの幼い頃はそこまででもなかった気がする。悲鳴が出なかったのは場に配慮したり、抑えたりした結果ではない。自分の性格的なものだ。己には悲鳴を上げる、という行動が身に備わっていない。落ち着いているとかそういうことではなく、そういう機能がない。まったく、落ち着いていない。泣きたいくらいだった。本当無理。だめ。
本当に、あれは何故あそこにいたのか。どうにかして入り込んだのか。誰かが持ち込んだのか。あそこまで、館内で育ったのか。まさか、繁殖はしていないだろうか。あれは確か、脱皮をして大きくなるのだ。油虫と違って、一匹見たら何十匹、などと言われたりはしないが、一度に何十何百と生まれるタイプの虫である。その全てが成長しきることはまずないが、逆に一匹たりとも成長しきることなく終わることもまた滅多にない。そもそもあれは、この辺りに自然に生息している虫なのか。もっと熱帯とかに生息する類ではないのか。
フラッシュバックのように思い出したイメージ。数日前の、おそらく夢。まさにあのような姿のあれが、眠っていた己の目の前に、するりと降りてきた。触れたわけではなく、何をされたわけでもなく、自分はただ、半ばパニックを起こしてその場から飛び退いた。まさか一種の予知夢だったのか。そんなものは知らせなくていい。