久我冬士郎は写したい
ああ、眠い。昨日は柊の弟の涼太と夜遅くまでゲームをしていたせいで眠くて眠くて仕方がない。
春花に叩き起こされなかったら遅刻していたところだった。危ない危ない。
今日の一時限目は数学だった。中二の頃辺りから俺はずっと思っていたことがある。
数学って人生において何の役にも立たなくね?
サインやらコサインやらタンジェントなんて覚えてどうすんだ? 三角形の細かいとこまで知ってどうする? そもそも、エックスだのワイだのなんで出てくるんだよ。英語やってんじゃねえんだよ。何で点Pは動くんだよ。点ならじっとしてろや。
理知的な俺はそんな数学に失望し、勉強することをやめた。そして今この様である。いや、まあ受験の時は死ぬほど頑張ったから何とかなったけど。
寝よ寝よ。ただでさえ眠いのにさらに授業内容がラリホーとか耐えられるわけねえだろ。
授業終わりのチャイムと共に目が覚めた。
「あーよく寝たぜ、なあ冬士郎、今の授業のノート見せてくれよ。授業中にさいみんじゅつくらっちまってさ」
「俺もとってない」
「んだよしゃあねえな。誰かノートとってる奴いねえのかな」
「うきょー君、とーしろー君、どっちかノート見せてー」
俺の右隣のにいたセミロングの女生徒が話しかけてくる。彼女の名前は葉山奏美、いわゆる女友達だ。
大きなあくびをしてる事から葉山も寝てたんだろう。
「残念だったな葉山、俺らもとってねえ。つーか涎拭け涎」
「しょうがないなあ……だったら私は綾乃ちゃんに教えてもーらお!」
柊の名前が出てきて俺は顔を歪ませる。確かに優等生のあいつなら寝ずに授業ノートをとっているのだろう。
チラリと柊の顔を見ないように後ろを見ると、柊の席周辺に人だかりが出来ていた。どんだけ寝てたんだよ。やれやれ、不真面目な連中だぜ。
「じゃあ俺らも見せてもらうか、行こうぜ冬士郎」
「あー……俺はいいからお前らだけで行ってくれ」
「お前……まだ例の黒歴史だのなんだので悩んでんの? 情けねえな」
「放っとけ」
「いや、放っとかねえ。来いよ。克服させてやるぜ。友達のトラウマを克服させんのは友達の役目だからな」
右京は俺の腕を無理矢理引っ張って机から立たせた。俺のトラウマの克服のためにそこまでしてくれるなんていい友達を持ったもんだな!
そんなこと微塵も思っていない。こいつは俺のためとかほざきながら、自分が楽しみたいだけだ。
「柊、俺らにもノート見せてくんねー?」
「お願い綾乃ちゃん!」
すぐに目線を逸らして極力柊を視界に入れないようにする。視界の外から柊の声が聞こえてきた。
「あなた達も? いいわ、見せてあげる」
***
ど、どうしよう! 冬士郎が私の席に来た! 二年生になってからは一度もそんなことなかったのに!
落ち着け私! これは好感度を上げるチャンスじゃない!
「まず私から写すね!」
奏美が私のノートを手に取り、授業内容を写し始めた。
……ノートのページがぐっしょりと濡れている。きっと涎ね。まったく、中学の頃から変わらないんだから。
……それにしても、相変わらず胸大きいわねこの子。いつの間にかまた大きくなったような気がするわ。
この子の隣は冬士郎だけど、もしかしたら横目でチラチラ見ていたりするのかしら? な、なんて子! 冬士郎を誘惑するなんて!
「終わったよ。ありがとう綾乃ちゃん!」
「どういたしまして、またいつでも貸して上げる」
屈託のない笑顔も相変わらず。人間の誰もが持つ悪意を全く感じさせない。こんな子が冬士郎を誘惑しようだなんて考えるわけないか。
「よし、じゃあ次は俺だな!」
二宮君が奏美からノートを受け取り、書き写し始めた。彼は人当たりがとてもよく、交友関係も広く、周りから慕われている。冬士郎ともよく話しているのを見るけど実に羨ましい。
「よし終わったぜ、サンキューな柊!」
奏美よりも数段早く書き終えたみたいだ。見ていた限り、かなりの走り書きっぷりだったけど、あとで見返す時に困らないのかな?
「次、冬士郎書けよ」
「……ん、あ、おう」
さっきからずっと目を逸らしていた冬士郎が視線をそのままにノートを受け取った。
はわわ……! 私のノートが冬士郎の手に! 使い終わっても捨てずに保管し続けよう!
そのまま黙って黙々とノートを写し始める。これはレアだわ! ノートをとる冬士郎を正面から見れるだなんて!
それに相変わらず顔がかっこいい! キャー!
「ん、終わった」
そのまま顔を上げずにノートをこちらに差し出してくる。何でここ最近、こっちをしっかりと見ないんだろ? やっぱり私の事を異性として意識してるから? キャーどうしよう!
……理由は置いといて、目を合わせずにノート返されちゃったのは少しショックだったな。本当に距離取られている感じがして。
「コラとーしろー君! ノート貸してもらったんだから、しっかり顔見てありがとうって言わなきゃ駄目でしょ!」
「え……それはその」
ナイスアシストよ奏美!
奏美に便乗して二宮君も続く。
「まったくだぜ冬士郎! 人の顔をしっかり見て話さねえなんて人としてどうかと思うぜ!」
「右京……てめえ俺の事情を知ってる癖に……」
二宮君は何かを言いかけた冬士郎の頭をつかんで無理矢理私の方向まで顔を向けさせた。
と、冬士郎が私に顔を向けている!
いや、正確には見ていない。目を閉じていた。そこまで私の顔を見るのが恥ずかしいの? もー可愛いんだから!
「葉山、瞼開かせろ! こいつが俺を振りほどく前に早く!」
「わかった! とーしろー君覚悟!」
奏美が楽しそうに冬士郎の瞼をつまんで無理矢理開かせた。え、いいなそれ。私もやってみたい!
「わかった! わかったから離せお前ら!」
冬士郎は抵抗して容易に二人の拘束を振りほどいた。
そのまま、私の顔を見つめて言った。
「……ノートありがとな柊、助かった」
「気にしないで冬士郎、これからいつでも頼って欲しいわ」
むしろ、授業が終わる度に借りに来ても全然いい!
それよりも……! それよりも……! 冬士郎が私にありがとうって言った! 録音しとけばよかった!
冬士郎はそれだけ言うとすぐに自分の席に戻っていった。
これで好感度アップ間違いなし!
と、言いたい所だけど、ひとつ気にかかることがあった。
冬士郎、まだ私の事“柊”って呼んでる。どうして? 昔は綾乃って呼んでくれてたのに……他のクラスメイトの目があるから?
昔と比べて距離を感じるのはやっぱり寂しいな。
***
死にたい。
柊の顔を見たことにより、またも思い出したくない過去を鮮明に思い出してしまった。
死にたい。誰か俺を殺してくれ……!
いてもたってもいられずに机に自分の頭を何度も何度も叩き付ける。超痛い。これで俺死なねえかな。
「こりゃ、一筋縄じゃ治りそうにねえな。見てる分にはおもしれえけどな」
いつものように反論する気すら起きない。
「とーしろー君さっきから何してんの? 痛くないの?」
こんなもん心の痛みに比べればとうってことない。俺の代わりに右京が答える。
「俺はよく知らねえんだけどよ、柊の顔を見ると、中学の時の黒歴史を思い出しちまうらしいんだ」
「中学の時……あ、もしかしてあの時の!?」
しまった! 俺と葉山は同中だった! 当然、中学の時の俺を知っている!
「葉山知ってんの!? 何があったんだよ!」
「えーっとねー」
「やめろ葉山!」
制止の声を上げるが、葉山は一切動じずにスマホをいじり出した。
「あったあった。見て、これ中学の時のとーしろー君の写真!」
遅かった。右京は葉山のスマホに写った写真を凝視している。
「え? 誰これ?」
葉山のスマホに写っていたのは髪を金髪に染め、眉間にシワを寄せながら机に足を上げて座っている頭の悪そうな男の姿が写っていた。
「この金髪……まさかお前?」
黙秘する。認めてたまるか。
しかし、俺の黙秘も意味をなさなかった。
「そうです! 何を隠そうとーしろー君は中学の時はバリッバリのヤンキーだったんです!」
容赦の欠片もない葉山のカミングアウト。
舌って噛めば自殺出来るんだっけ? そんなことしか頭になかった。