おキツネ様
「いりちゃん、大丈夫だったの?」
俺と梨依里が教室に戻ったのは一時間目の授業中だった。その瞬間に教室がざわついたのは言うまでもないが、さすがに騒ぎになることはなかった。代わりに休み時間になった途端に宮崎をはじめとする女子たちが梨依里を取り囲んだというわけである。
「はい、何ともないですよ」
誰よりも身を乗り出して話しかける宮崎に苦笑いしながら、梨依里は皆と楽しそうにしている。今回の一件については馬頭教頭から、関係のない者には詳細を語らないようにと指示されていたのだ。俺は握り潰すんじゃないかと詰め寄ったが、教頭は絶対にそんなことはしないと約束してくれた。そんなわけでとりあえずここは学校側の出方を見ることにしたのである。
「災難でしたね」
隣のおっぱい、もとい、倉持が小さな声で話しかけてきた。おそらくコイツらは事の成り行きを知っているのだろう。壬生も顔こそ正面を向いたままだが、俺にはその耳がダンボのように見える。
「何もしてねえんだから迷惑な話ってだけだ」
「都会と違ってこっちにはあまり娯楽もありませんものね。人の噂ほど楽しいものはないんでしょう」
「お前の言う通りかもな。だがだからと言って俺はこのまま黙っているつもりはない」
演劇部の連中にはそれ相応の痛い目を見てもらわなければ気が済まない。関係ないやつもいるだろうが、俺としては演劇部そのものに連帯責任を負ってもらうつもりだった。ところがそんな俺の気持ちを知ってか知らずか、この後馬頭教頭が納得せざるを得ない裁定を下すことになる。
まず堀田オヤジは梨依里への暴行未遂ということだったが、梨依里が警察沙汰にはしないということで停職一カ月と六カ月間の減給となったらしい。家族もいるみたいだし、あれは梨依里が仕組んだことだから妥当な処分だと思う。何故なら堀田オヤジの本来の罪は俺に対する冤罪の助長だったからだ。
ちなみにその冤罪の元となった演劇部の連中が流した噂については、その後の教頭による事情聴取で当事者である大滝先輩が事実を語ったため、俺への疑いはこれで完全に晴れたというわけだ。ところで堀田オヤジが俺だけではなく梨依里まで生徒指導室に呼んだ理由が分からなかったのだが、あのバカ教師は噂の中に俺が梨依里を力ずくで言うことを聞かせているというのもあって、それを信じていたらしい。ついでに梨依里にも証言させて俺を停学か退学にする腹だったようだ。正義感は認めるが、教師自らが噂を鵜呑みにするのはどうかと思うぞ。
「これ、普通の生徒がやられたら堀田オヤジに陥れられて、最悪自殺までありうるよな」
「そうですね。でもあのお陰で堀田先生、ご家族とは別居することになったみたいですよ」
家族にしてみれば女子生徒への暴行未遂という事実に耐えられなかったのだろう。堀田オヤジには災難だろうが、まかり間違えば一人の生徒を自殺にまで追い込む危険性もあったのだから、これで冤罪の恐ろしさをその身に刻めばいいのだ。さすがにざまあとまでは思わないが、いい薬になっただろうとは思う。
「それにしてもくだらない噂を流した演劇部の連中は許せん」
「元は大滝先輩の話を部員の人たちが面白おかしく触れ回ったのが原因みたいです」
梨依里は友達が多いせいか色んな情報を集めてくる。それによると大滝先輩には悪気はなかったようだが、馬頭教頭が事の重大さを鑑みて演劇部にも一カ月間の活動停止処分を下したそうだ。教師が一人停職になっているのだし、俺としては永久に活動停止でもよかったと思うが、噂話に加担していない部員もいるのだからこれで良しとしておこう。クリパでの出し物も出来なくなったことだしな。
「馬頭教頭は仕事が早いな」
「だってあの教頭先生はおキツネさんですよ」
「なるほ……はあ?」
あの教頭、あやかしなのか。道理であの体格で堀田オヤジの巨体を簡単に蹴り飛ばしたわけだ。
「まだ百歳ちょっとの地狐だそうですが、いずれは天狐になる方かも知れませんね。白ですし」
白だからどうだって言うんだ。妖狐の位とかはよく知らねえが天狐っていうのは相当上の位だよな。
「お、おい、それでお前と教頭だとどっちが強いんだ?」
「さあ、それはやってみないと分かりませんが、多分私ではあのおキツネさんには敵わないでしょうね」
「マジか……あやかし同士で縄張り争いとかにはならないのか?」
「なりませんよ。だいたいそんなことになったらこの辺り全部がなくなりますから」
梨依里はクスクス笑ってやがるが、それは全然笑えねえ話だっての。前に戦った熊の頭は、あやかしというよりどちらかというと悪霊だったからな。あやかし同士のケンカはあれとは比べものにならないくらいに凄まじいってことなのだろう。
「おい、間違ってもあの教頭にはケンカ売るなよ」
「おキツネさんの望みはただ一つ、自分が妖狐であることを黙っていろ、だそうです」
「別に言いふらすつもりはねえよ。助けられたんだしな」
その後馬頭教頭が俺や梨依里に干渉してくることはなかった。




