恋に落ちる
※うっかり一人称になっていた部分と、下調べが不十分な状態の思い込みで書いた部分を修正しました。……後者は単語ひとつですが。10/14
電車がホームに滑り込んでくる。
いつもの場所からいつものように乗り込んだ――つもりだった。
「!?」
車両の床を踏んだ筈の右足。しかし、その下には何もない。
(落ちる――)
左足に力を入れようとするが間に合わず、ホームと電車の間に右足から吸い込まれていく。
「危ないッ!」
左腕を誰かが掴み、ぐいっと引っ張り上げてくれる。漸く力の入った左足の踏ん張りもあり、辛くも落下は免れた。
「大丈夫ですか?」
掴んでいた手が離れていく。追いかけるように持ち主を見遣ると、それは自分と同年代くらいの男のもので。精悍な顔に浮かぶ表情は酷く心配そうだった。
「ええ、お陰様で。どうも有難うございました」
「怪我が無くて何よりです」
感謝の気持ちを込めて頭を下げると、男はホッとしたように笑った。
目の前でドアが静かに閉まってゆく。ゴトン、と音を立てて、何事もなかったかのように動き出す電車。
次の駅で自分は乗り換える。男にもう一度会釈をして、今度は無事ホームに降り立った。
終業式が終わるなり、保健室に向かう。ホームや車両に打ち付けたらしく、膝の少し下に痛みを覚えていた。
「ありゃ、珍しい。どしたん?」
「いや、最寄り駅で片足だけホームから落ちまして」
「は!?」
保健室の主が驚いた顔をする。簡単に事情を説明しながら湿布を取り出し、スラックスの裾を捲り上げた。
「あー、少し腫れてるね。けど骨には問題なさそうだし、また帰りに取り替えにおいで」
「はい」
膝の少し下が腫れている。手早く湿布をし、ネット包帯をかぶせて処置は終了。
普段は立ち仕事だけれど、幸い今日は事務処理だけで済む。先に着替えれば良かったと思いながら、更衣室で普段の服装――ジャージに着替えた。
今日ばかりはまとわりつく飯の種を「怪我してるんだ」と躱し、なるべく動かず座ったままで必要なことを済ませ迎えた放課後。
退勤前に保健室で湿布を換えさせて貰い、強くなってきた痛みに足を引きずりながら帰宅した。
土日を挟み、月曜。痛みはまだ続いている。今朝起きたら多少マシにはなっていたが、週末はさんざんだった。
夏休みに入った為、飯の種と接したり長時間立ちっ放しということはないのが非常に助かる。
ホームに滑り込んでくる電車。痛む足を引きずりながら細心の注意を払って乗り込むと、くすりと小さく笑う声が聞こえた。
「あ……」
「おはようございます。足の具合はどうですか?」
治ってはいないようですが、と云う目が心配そうな色を浮かべていて。
「ああ、はい。暫くは痛みが残るだろうって、医者に云われました」
「そうですか……デスクワーク?」
「いえ、どちらかといえば立ち仕事ですが、幸い9月まではデスクワークみたいなもんです」
片付けと、書類仕事と、教材研究と、自己を高める為の研修。9月までの予定は日々そんなものだ。
「それなら無理せず、ゆっくり養生して下さいね」
良かったです、と優しく笑う目元に、同じように笑みを返していた。
そのとき。
「うわッ!」
「お、……っと」
電車が大きく揺れ、足を痛めた所為で踏ん張りの利かない躰は揺れるがまま――
「大丈夫ですか?」
「ッ! え、ええ」
気づけば、男の胸元に倒れ込んでいた。支えるように背中へと回された腕、それと淡いフレグランスの匂いに、何故か耳まで熱くなる。
慌てて支えから離れても、顔を上げられないでいると、男が小さく笑った。
電車が駅に着いた。たった数分なのに、もう何十分も乗っていたように感じる。
「それじゃ、気をつけて。またね」
男の手が頭をさらりと撫でて、自分の背中を押す。人波に呑まれるように、けれど足元だけは細心の注意を払ってホームへ降りると、閉まったドアの向こうで男はひらひらと手を振っていた。
(……)
あの手が、自分に触れた。撫でられた髪に思わず手を遣る。
吊り橋理論だと冷静に判ずる自分が居る一方で、こう思う自分が居る。
落ちるはずがないと思っていたホームから落ちたように呆気なく――恋に、落ちたのだと。
よりによって終業式の朝に、冗談抜きで片足だけホームから落ちまして。
普段の通勤時は邪魔としか思えないお嬢様学校に通うお嬢さんの助けを得て、どうにか生還できた作者で御座います。
最近漸く違和感が無くなりましたが、久々に死を覚悟した瞬間でありました。
……即座に「小説のネタになる」と思いこそすれ、自分の身にそういった美味しい(?)話が転がるような妄想はこれっぽっちもしない辺りが、自分でも発酵が進んでいるなと。ええ、誇らしいですとも。(笑)