褒似
褒似の「似」は本当は「女へんの横に似」の字ですが、変換できないので似で通しています。
褒似は古代中国、褒国の公女であった。
しかし彼女には黒いうわさがあって、拾われてきた子だとか、古の夏王朝から伝わる災いの箱から産まれてきた子だとかいうものだった。
褒似は、父である褒公にこのことをたずねたことがあったが、もちろん褒公はきっぱり否定し、その噂を口にした者を罰した。
褒似は褒公に甘やかされて、何不自由なく育った。
おまけに成長するにつれ大変な美女になったので、結婚を望む者が多かったが、褒公は全て断っていた。
ある時、褒公の甥が褒似と家臣たちの前で結婚を申し込んだが、褒公は断り、褒似は言った。
「あなたと私とでは、とても釣り合わないわ。私は、天子様と結婚するのじゃなきゃ嫌よ!」
家臣たちは大笑いし、甥は耳まで赤くなって引き下がった。
褒公は言った。
「できれば、そなたを手元から離したくはない。しかしいずれはお前も嫁にいかなくてはならない。
お前が言ったように、お前は天子様と結ばれても良い程だ。
だが、今の王があれほど暗君でなければな・・・」
そう言って褒公は暗い顔をした。
ところで、この時代は周(西周)王朝の時代である。
周の王は天子とも呼ばれる。
天子とは天の子という意味で、建前上天下の全てを有する王である。
周の他にも褒国のような数百の小国があるが、それらは周によってその地位に「封じられて」いるのであり、つまり周の属国である。
そうした国の長は公と言い、彼らを諸侯という。
この時代、「王」は天子だけの称号だからだ。
そして、今の王は、幽王である。
この幽王は、大変な暗君だという噂であった。
政治をかえりみず、酒色に溺れ、諫める家臣を殺し、贅沢は止まる所を知らないというので、諸侯の内には離反する者が多かった。
褒似は言った。
「王がそのような暗君ならば、天が早く王を滅ぼして、新しい王を立ててくれるとよいのですが。」
「こら、滅多な事を言うものではない。仮にも天子なのだからな。
臣下たる者の務めは、王を助け良い方向に導くことだ。」
褒似は幼い頃から、褒公から幽王の悪行の数々を聞かされてきたので、まだ見たこともない幽王に対して、恐れと敵がい心を持っていた。
いったい幽王とは、どんな恐ろしい男だろうか。
どんな恐ろしい顔をしているのだろうか。
殷の紂王のように、虎を素手で打ち殺したりするのだろうか?
だが褒国にいる限り、全ては平和で、申し分なかった。
褒似自身も、天子と結婚するので無ければ嫌だとは言ったが、本気ではなく、できれば結婚などしたくないとも思うのだが、そういう訳にもいかないだろう。
こうして褒国で幸せに暮らせる日はいつまでだろうか・・・?
ところがある日、幽王の軍が褒国に攻め寄せてきたとの知らせに、褒国は騒然となった。
幽王は何か褒公の罪を責めるようなことを言っているが、それは建前で、本当は美人で名高い褒似を得るのが目的だともっぱらの噂である。
褒国内部では、褒似を差し出して許しを請おうという者達と、戦うべきだという者達とで論争になった。
褒似は恐ろしかった。褒公に言った。
「お父様、どうなるのでしょうか」
褒公は言った。
「心配するな。お前を渡したりはしない。」
そして家臣たちに言った。
「たとえ王だろうと、非道の相手に屈したりはしない。
わしには王に罪せられるような覚えはない。
褒似を差し出すなど、もってのほかだ。」
そう言って引き下がった。
家臣たちは騒然となった。
「公は娘惜しさに、国を滅ぼそうとしている」
と言う者もあった。
褒似はいたたまれず、奥の間に入った。
幼い頃から過ごしてきた部屋で、褒似は恐れ悩んだ。
決定権が無いのだから、自分が悩んだって仕方ないのだが、心配せずにはいられない。
そうだ、もし引き渡されるような事にでもなったら、自ら命を断ってしまおう。
それが私の務めというものだ。
しかし、父である褒公がああ言って断じたのだから、渡されたりはしないはずだ。
そうすれば戦争になろう。ならやはり、自分から出向いていくべきか・・・?
なんせ自分は公女だから、国のために自分を犠牲にする義務があるのだ。
父もいつも、君主たる者の務めを説いていたではないか・・・
思い悩んでいると、突然戸が開けられた。
驚いた褒似が振り返ってみると、昔自分に結婚を申し込んだあの甥が、兵士を従えて立っている。
彼は言った。
「褒似よ、立て。立って天子のもとに行くのだ。」
褒似は、
「え?でも父上は渡さないと・・・」
すると彼は、褒似の足元に何かを投げ出した。
褒似は絶叫した。
父の首だった。
甥は続けて、
「今日から、俺が褒公だ。天子様に認めてもらったんだから、誰にも文句は言わせない。伯父上には、国のために犠牲になってもらった。
お前も犠牲になりに行け。」
褒似は金切り声を上げ、そばにあった燭台をつかんで打ちかかっていったが、たちまち兵士達に押さえ込まれた。
甥はにやりと笑って、
「思い上がるなよ褒似。
俺は伯父上とは違って、お前一人のために国を売ったりはしない。お前などいなくても、褒公になったからには、褒国中の女を自分のものにできるのだ。
良かったじゃないか褒似。お前が言った通り、天子と結婚できるのだ。まあせいぜい側室程度かもしれんが、どうでもいい。
お前は今まで散々いい目を見てきたのだから、今度は国に恩返しする番だぞ。」
甥の悪意に満ちた顔を見て、褒似は愕然とした。
彼はずっと、以前のことを根に持っていたのだ。自分はとっくに忘れていたのに・・・
甥は言った。
「そいつを縛り上げて、周軍の所に連れていけ!!」
周へ行くまでの間、褒似は散々暴れ、自殺を計ったりしたので、護衛の兵士達はいろいろ折檻を加えた。
胴や首を気絶するまで締めあげたり、氷を浴びせたり、食事をあげずに水ばかり無理やり大量に飲ませ続けたりした。
直接殴ったりしないのは、もちろん、体に傷が付くと商品価値が下がるからである。
しかもこの護衛の兵士達は、褒国から派遣された兵士達だった。今まで自分の家来だとばかり思っていたが、兵士達は心から自分に従っていた訳ではなかったのだ。
道中はずっとこんな調子だったので、周に付いたときの褒似は、すっかり無気力無感動になっていて脱け殻のようであった。
幽王は喜んで褒似を迎えた。
「聞きしに勝る美しさだ。」
と言った。
彼の服装はずいぶん派手だったが、特に異様な外見をしている訳でもない。見た目普通の細男だった。
だがもちろん、褒似には好きになれるはずもない。
幽王は褒似を大変寵愛して、すでに后に立てていた申后を廃して、褒似を正式に后にした。
このため申后とその一族は褒似を恨んでいるようだったが、褒似にはどうでもよかった。
褒似は何も言わず、何もせずに無気力にその日その日を過ごした。
そして、全く笑わなかった。
やがて息子が産まれた。幽王の子である。
苦しんで産んだ子も全くかわいいと思えず、むしろ憎しみさえ感じた。
息子は生まれるとすぐ侍女達の手で育てられ、褒似はほとんど会いもしなかった。
幽王は、すでに産まれていた申后の子を廃して褒似の子を太子にしたので、申后の一族からは更に恨まれたようだ。
それに諸侯たちも不満のようだが、褒似の知ったことではなかった。
幽王は噂通りの暗君であったが、要するにただ単純なだけだと言えないこともない。
幽王は派手好きで虚栄心が強く、人々が自分に従えば喜び、逆らえば怒った。
狩りが好きで、よく褒似を連れて狩りに出て、自分の勇壮な所を見せようとするのだが、褒似が無感動なので残念がっていた。そして言うのだった。
「そなたはいつでも美しいが、笑えばもっと美しいのだがな。それに、何か話してくれればな。」
しかし幽王は褒似の無気力さが妙に気に入ったようで、褒似の気を引こうとしてあの手この手を尽くすのだった。
ある時、褒似の侍女の絹の服が、物に引っ掛かって裂けた。
その音は、女の悲鳴のように聞こえる。褒似はふと昔を思い出した。
燭台を取って、あの甥に打ちかかっていった時の自分の声・・・
ああ、あの頃は全てが思い通りになるような、そんな気がしていた・・・
褒似はふっと笑った。
自虐的な笑みだった。ところがこれを見た幽王は喜んだ。
「おお、褒似が笑ったぞ!やはり、そなたは笑った方が美しい!」
そして何と、国中の絹を集めてきて、褒似の前で裂かせたのだった。
幽王のあまりの単純さに、褒似はまた笑ってしまったが、当然ながらそのうちまた笑わなくなった。
幽王は残念がった。
またある時、周で誤って烽火をあげてしまった時があった。この烽火は、本来は戦時など周に危険があった時、
諸侯の軍を集めるための合図なのだが、何も用がないのにあげてしまったので、集まった諸侯の軍は文句を言いながら帰っていき、ケンカが起こったりもした。
これを見ていた褒似はまた笑った。
この軍、この周の軍事力が、昔自分を連れ去って、あらゆる苦痛を味わわせたのだ。
その軍が困っているのを見て、褒似は愉快だった。
それは悪意の笑いだった。
だが単純な幽王はまた喜んで、それ以来用事もないのにたびたび烽火をあげた。
こうした行為のため、諸侯はもとより、宮廷でも不穏な空気が漂っていたが、褒似はどうでもよかった。
ある朝、褒似は寝床でまどろみながら物思いにふけっていた。
自分はもう何年、心から笑っていないだろうか。
自嘲や悪意の笑いが少しばかりで、昔、心から、何の屈託もなく笑えていたのは、いつの日のことか・・・
それは今までのあらゆる苦痛の向こうで、かすみのようにおぼろげな日々の記憶・・・
褒国の宮廷で、父と、家臣たちに連れられて、庭園を歩いていた日々・・・
ああ、あの頃は、こんな将来の自分の姿など、想像もしなかった・・・
思いながらまどろんでいると、どうやら気のせいではない。
さっきから遠くで叫び声が断続的に響いてくる。それに、何やら煙の匂いもする。ハッとして飛び起きると、そこへ侍女があわてふためいて駆け込んできた。
「た、大変でございます!蛮族の兵が、押し寄せて参りました!!」
褒似がぽかんとしていると、何やら引きずるような音がして、兵士が一人、這うようにして入ってきた。
兵士は全身に矢を受けて、這ったあとに血の道ができている。
侍女は、絹を裂くような悲鳴をあげた。
兵士は言った。
「ほ、褒似様・・・反乱です。
申后の父の一族が、犬戎族と結んで、攻めて参りました・・・
ここはもう落ちます・・・早くお逃げください!」
褒似は言った。
「諸侯は、助けに来ないのですか?」
「烽火をあげましたが・・・
またイタズラかと思われたようで・・・誰も来ません。」
「・・・」
「王も殺されてしまいました。
は、早くお逃げを・・・!」
そう言うと兵士は、血を吐いて死んだ。
窓の外を見てみると、宮殿のあちこちで火の手があがっている。
煙の向こうで、犬戎族の兵が、弓を射て周軍の兵を射殺し、宮殿に火を放っているのがちらりと見えた。
侍女は、がたがた震えながら言う。
「ほ、褒似様、早く逃げましょう。」
褒似は言った。
「あなたは、一人で逃げなさい。」
「え?で、でも・・・」
「あなたが付いてきては、私が王妃とわかって、狙われますからね。」
「そ、そうですか?そうですね。で、では逃げます。」
そう言うと侍女は逃げていった。
褒似は、倒れている兵士の剣を抜き取った。
自殺するつもりだった。
でもその前に、この宮殿の燃えるところを見てみよう。褒似は剣をもったまま歩きだした。
宮殿は至るところで燃え盛っていた。
所々で、兵士が死んでいるのが見える。
褒似はあてもなく歩き回って、玉座の間に着いた。
ここも燃えている。天井を見上げると、天井も燃えていた。
かつて自分はここで、幽王の隣に無表情なまま並んでいた。そして、幽王はなんとか自分を笑わせようと・・・
自殺しようと思って剣に目を落とすと、この剣を持っていた兵士の言葉を思い出した。
彼は、烽火をあげたが諸侯が来ずに、王は殺されたと言っていた。
そうだ、幽王は死んだのだ。
自分を笑わせようとしたばかりに・・・
そう、昔自分は何と言ったっけ?
『王がそのような暗君ならば、天が早く王を滅ぼして、新しい王を立ててくれるとよいのですが・・・』
まさか、こんな形で実現するとは。
そうだ、王を滅ぼしたのは、何と自分だったのだ!
しかも、王だけでなく、周も、我が身も滅びそうである。
褒似は天を仰いで笑った。
大いに笑った。
今までこんなに笑った事はなかった。
笑っていると涙が流れてきた。涙が止まらない…
褒似は笑い続け、
そして天井が焼け落ちてきて全てを圧し潰し、宮殿は燃え続けて、全てが灰塵に帰した。
こうして西周は滅んだ。
紀元前771年のことだった。
完
いろいろ創作入ってます。