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最終話 追憶の翠とあの日置き去りにされた明日

 真銀の翼は、重力に抗うことをやめた。

 黒煙を引いて落下するバハムートのコックピット内で、ロイド・レグフォーツは、水底に沈んでいくような静寂の中にいた。

 網膜を焼き続けていた赤い警告灯が、意識の混濁と共に遠のいていく。脳を焼くような同調の余熱だけが、自分がまだ生きていることを皮肉に告げていた。


 墜ちていく感覚は、どこか懐かしかった。思考が断片化し、時間の概念が消失する。その意識の断絶――深淵の中で、彼は失ったはずの、あの「灰色の景色」を辿り始めた。


 *


 僕が生まれたのは、名前も思い出せないほど小さな町だった。

 何処にでもある、普通の町。陽だまりのような温かさがある普通の家庭。末っ子として可愛がられていた僕には、苗字なんてものはなかった。父さんも母さんも、五つ上の姉さんも、家族は皆、麦の穂のような温かな金髪をしていた。なのに、僕だけは何故か、雪のように真っ白な髪をして生まれてきた。


「不倫の子」「不吉の徴」。

 幼い僕に向けられる視線は、いつも氷のように冷たかった。大人たちのひそひそ話、理由のない蔑み。僕はいつしか、鏡に映る自分の髪色が嫌いになっていた。この白は、僕がこの世界に属していないことを突きつける拒絶の印のように思えたから。

 それでも、両親は僕を大切に育ててくれた。そして何より、姉さんだけは僕の髪を宝物のように愛してくれた。


「ロイド、その髪はね、神様が特別にくれた光の色なんだよ」

 彼女のその言葉だけが、僕が自分を許せる唯一の拠り所だった。

 戦争が始まる少し前、僕は貯めていた小遣いを握りしめ、町で一番小さな宝飾店へ行った。

 姉さんの誕生日に、どうしても贈りたいものがあった。透き通った緑の石がついた、小さな耳飾りだ。

 彼女の美しい瞳の色、そして、僕自身の瞳の色と同じ、鮮やかな翠。


「……ロイド、これ、私に?」

 プレゼントを渡した時、姉さんは信じられないものを見るように目を見開き、それから花が綻ぶような笑顔を見せた。


「ありがとう。一生大切にするね。これをつけていれば、いつでもロイドが守ってくれているみたい」

 夕暮れのキッチンで、嬉しそうに何度も鏡を覗き込む姉さんの姿。それこそが、僕にとって守るべき世界のすべてだった。


 だけど、世界はあまりに残酷だった。

 十歳の頃、アースの急激な環境変化が引き金となり、領土を奪い合う世界を巻き込む大戦争が始まった。

 関係ないはずなのに。僕たちは、ただ静かに暮らしていただけなのに。


 ある日、空が焼けた。


 爆弾が降り注ぎ、家を焼かれ、父さんも母さんも空襲に巻き込まれて瓦礫の下へと消えた。

 さっきまで笑っていた両親の手が、焼け焦げた柱の下から動かなくなるのを見たとき、僕の中で何かが死んだ。

 唯一生き残った僕と姉さんは、ただ必死に逃げた。

 何日も、何日も歩き、時には泥水をすすり、兵士の影に怯えて走り続けた。他国へ難民として逃れようとしたが、どこも僕たちを受け入れてはくれない。

 国境を閉ざされ、石を投げられ、僕たちは行き場のないゴミのように扱われた。

 道中、兵士に捕まった人々が暴力を受け、家畜のように射殺されるのを何度も見た。逃げ惑う人々を獲物のように撃って楽しむ悪魔たち。


 どうして同じ人間なのに、ここまで酷いことができるんだろう。その時の僕には、どうしても分からなかった。ただ、姉さんの震える手を握りしめることしかできなかった。


 そして、あの日。今でも、あの光景を忘れることはできない。

 たどり着いたのは、アースの死を象徴するような、枯れ果て、生命の気配すら絶えた荒れた森だった。

 木々は灰色の骨のように空を突き刺し、風は死臭を運んでくる。逃げる体力も尽き、灰色の荒野を彷徨っていた僕たちは、あっけなく兵士に見つかった。


「おい、こんな所にガキが二匹も紛れ込んでるぞ」

 取り押さえられた僕の横で、一人の男が姉さんの顔を覗き込み、下卑た笑みを浮かべた。


「ん? ちょっと待て。そっちの女、中々いい顔してんじゃねえか。これは楽しめそうだ」


 僕は叫ぼうとしたが、喉から音が出ない。ただ、兵士を睨みつけることしかできなかった。


「ちっ、生意気な顔しやがって」

 腹を蹴り飛ばされ、視界が火花を散らす。土埃に塗れた僕の頭に、冷たい銃口が突きつけられた。


「こっちのガキは殺すか」

 そう言った途端だった。


「があああ!」

 一人の兵士が叫び声を上げ、手に持っていた銃を手放した。姉さんが、ボロボロになった身体で、必死の形相でその腕に噛み付いていたんだ。


「ロイド、逃げて!」

「クソッ!」

 バン――!

 静かな死の森に、乾いた音が響いた。

 その瞬間、時間が止まった。

 僕を突き飛ばした姉さんの耳元で、あの日僕が贈った耳飾りが、月の光を浴びて一瞬だけ翠に煌めいた。


 熱かった。

 倒れ込んできた彼女の身体から、どくどくと溢れ出す鮮血。僕を庇って……僕が浴びたのは、僕を守った代償として失われていく、彼女の温かい体温だけだった。


「……あああああッ!!」

 僕の中で、何かが完全に壊れた。地面に落ちた兵士の銃に手を伸ばす。

 火事場の馬鹿力だったのかもしれない。それとも、絶望が僕の精神を塗り潰したのか。研ぎ澄まされた意識の中で、僕は震える手で引き金を引ききった。


 連続で発射された銃弾が、兵士二人の身体を打ち抜く。崩れ落ちる悪魔たち。僕はすぐに姉さんへと駆け寄った。


「姉さん! 嘘だ、起きてよ!」

 返事はなかった。彼女の耳元に残された耳飾りが、べっとりと赤い血に汚れ、その緑の輝きを失っていた。

 僕には、誰も守れなかった。

 この耳飾りを贈った時、姉さんはあんなに喜んでくれたのに。守ってくれているみたいだって、そう言ってくれたのに。守られていたのは、僕の方だったんだ。


 僕は泣きながら、彼女の耳からその飾りを外し、掌の中に握りしめた。石の角が皮膚に食い込み、血が滲んでも、放せなかった。

 銃声を聞きつけた別の兵士が集まってくるのが見える。けれど、もうどうでもよかった。やるせなさと、底知れない虚無感が僕を飲み込んでいたから。

 彼らが、一人の生き残りである僕を仕留めようと銃を向けた、その時だった。


 ――ドォォォォォォンッ!!

 鼓膜を突き破らんばかりの爆音が頭上で轟き、荒れ果てた空が瞬時に白く染まった。

 見上げれば、雲を割って二機の巨大な鉄の塊――アルマティス(人型戦闘兵器)が、互いの装甲を削り合いながら墜ちてくる。超高速で交錯する火線。金属が悲鳴を上げる衝突音。


 均衡は残酷な形で破られた。白銀の機体が敵機の懐へ潜り込み、その胸部を至近距離で撃ち抜く。バランスを崩した敵機が、僕たちのすぐ傍へと、大地の断末魔のような地響きを立てて墜落した。


「連合の、連合のアルマティスだッ! 逃げろ、逃げろぉぉッ!!」

 その悲鳴を合図に、統制は一瞬で崩壊した。

 僕を囲んでいた兵士たちは、もはや僕のことなど眼中にない。持っていた重火器を投げ捨て、ある者は枯れた木々の隙間へ、ある者は岩陰へと、まるで這い回る虫のように無様に逃げ惑う。


 勝利した連合のアルマティスが舞い降り、巨大な実体剣を抜き放つ。

 刹那、振り下ろされたブレードが敵機を真っ二つに切り裂いた。

 ギュリリリリィィッ!

 高硬度の装甲が激突し、真昼のような眩い火花が枯れ木を焼き尽くす。

 飛び張る鉄の破片。さっきまで僕を笑っていた悪魔たちが、蟻のように踏み潰され、火だるまになって転げ回っている。

 圧倒的な、力。

 恐怖よりも先に、僕はその美しさに目を奪われていた。弱ければ蹂躙され、強ければ世界を塗り替える。その真実を、僕は血と火花の匂いと共に脳へ刻み込んだ。


 ハッチから現れた一人の男――ラディウスは、血に塗れた僕を見て、静かに問うた。


「お前が、その兵士を殺したのか?」

 僕は頷いた。男は僕の瞳の奥にある「空洞」を見透かしたように、究極の選択を提示した。


「今ここでお前の抱えてる者と同じように死ぬか、連合につき、兵士として戦い、復讐のチャンスを得るか」

「……ついて……いきます」

 復讐なんてしたところで、何も戻らない。分かっているのに、僕はその手を取った。


 それから僕は、エルリド連合国の軍部を統べる名門、レグフォーツ一族の養子として迎えられた。

 苗字なんて持たなかった僕に与えられたのは、血筋ではなく、戦うための誇りと「レグフォーツ」という名の重い鉄の仮面だった。


 白髪を蔑まれることのない日々。そこで受けた苛烈な訓練は、僕の心を麻痺させるには十分だった。

 けれど、そこには一時の「幸せ」もあったんだ。

 軍に入って出会った仲間たち。不器用で、真っ直ぐで、本当にお節介な奴ら。

 出撃前のハンガーで、軍帽を脱いだ僕の頭を乱暴に撫でて笑ってくれた。

「おいロイド、その白髪は戦場じゃあ目立ちすぎるんだよ。いいか、お前は後ろで狙撃してろ。前線は俺たちが守ってやるからよ」


 戦場へ向かう機体の中で交わしたくだらない冗談。訓練の後に一緒に食べた、砂の混じったような味の薄いレーション。

 姉さんを失って開いた心の穴が、彼らと過ごす時間で、少しずつ埋まっていく気がした。彼らを守るためなら、僕はいくらでも「死神」になれた。


 だけど、世界はそれさえも許さなかった。

 一人、また一人。僕が背中を預けた仲間たちは、空の塵に変わっていった。

 失うたびに、掌の中の耳飾りを握りしめた。冷たい石の感触だけが、僕に「生きている罪」を思い出させた。


 戦いは楽しかったのかもしれない。

 そう思わなければ、独りで立ち続けることなんて、到底できなかったから。


「……姉さん。僕を救ったこと……後悔してないかな。……僕は、君がくれたこの命を、ちゃんと使い切れたかな」


 墜落しゆくバハムートの中で、ロイドは力なく微笑んだ。

 意識の混濁、加速する熱。これは、死の間際に見る幻想か。


 ――ああ、そうだね。

 もし、叶うなら。


 血の匂いのしない、緑が揺れる静かな森で。

 白髪の僕を、誰も蔑まない穏やかな町で。

 復讐なんて知らない、ただの「ロイド」として。


 戦死した仲間たちが、あの日みたいに僕の背中を叩いて「飯にしようぜ」と笑いかける。

 その奥で、姉さんが、父さんと母さんが、洗濯物を干しながら僕を呼んでいる。


(……ああ、次は、僕がそっちへ行く番だね)


 現実のコックピットでは、鼻から血を流し、満身創痍の少年が涙を浮かべていた。掌には、長年持ち歩き続け、角が丸くなった翠色の耳飾りが握りしめられている。


「死んだら、どうなるんだろう……。また家族に……みんなに、あ……える……かな……」

 *

 ロイド・レグフォーツは、静かに瞳を閉じた。

 傲慢な「死神」の仮面を脱ぎ捨て、一人の少年に戻った彼の機体は、マーティル・ナビスが残した虚無の大穴へと、吸い込まれるように墜ちていった。

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