第3話 誰かと出会った記憶は、まだ捨てない
森を抜けると、空気が変わった。
木の匂いに混じって、煙の匂いがある。
乾いた薪が燃える、生活の匂いだ。
――人がいる。
低い柵と、粗末な木造の建物がいくつか並んでいる。
どれも貧しいが、ちゃんと「生きている場所」だった。
俺は足を止める。
ここに近づけば、
人と関わる。
それは、モンスターよりも怖い。
足元で、幼いドラゴンが小さく鳴いた。
尾が、俺の足首に軽く触れる。
「……分かってる」
逃げるな、ということだ。
集落の入口で、一人の女がこちらを見ていた。
淡い色のローブ。
腰の小さな鞄。
落ち着いた目。
「そのドラゴン……野生?」
先に声をかけてきた。
「ああ……多分」
自分でも曖昧だと思う答え。
女は一瞬だけ幼体に視線を落とし、それから俺の背中を見る。
「怪我してる。血、滲んでる」
距離が、近い。
反射的に一歩引こうとして、止まる。
体が言うことを聞かない。
「私はセリア。ここの治療役」
名を名乗られた瞬間、
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
理由は分からない。
ただ、この名前は――
重くなりそうだ、と思った。
小屋の中は、薬草の匂いが濃かった。
乾いた葉の苦味。
煙の微かな刺激。
「動かないで」
背中に触れる指が冷たく、すぐに温もりに変わる。
幼体が、不安そうに鳴いた。
「大丈夫。痛くしない」
セリアは、幼体にもそう言った。
まるで、通じているかのように。
不思議だった。
俺はまだ、この女をほとんど知らない。
なのに、胸の奥で“覚えておきたい”と思っている。
それが、ひどく怖い。
「……あんた、旅人?」
「ああ」
今度は、少しだけはっきり答えた。
セリアは包帯を巻き終え、俺の目を見た。
「無理してる目をしてる」
その一言で、胸の奥がざわつく。
「生き延びようとして、
色んなものを置いてきた人の目」
――踏み込むな。
そう思ったのに、否定できなかった。
夜。
俺は集落の端で、空を見上げていた。
星が、やけに近い。
今日一日を思い返す。
人と話した。
名前を聞いた。
触れられた。
助けられた。
どれも、小さな出来事だ。
命の危機もない。
それなのに――
この記憶は、重い。
分かってしまう。
これは、
必要になったら捨てられる記憶だ。
幼体が、俺の隣で丸くなる。
その体温が、静かに伝わってくる。
「……今日は、捨てない」
そう呟いた。
今、強くなる必要はない。
ここで捨てたら、
この先が、もっと怖くなる。
幼体が、安心したように息を吐いた。
――こいつは、
俺が“捨てなかった”選択も、覚えている。
夜は、何事もなく過ぎた。
朝。
集落の中は、いつも通りの音に満ちていた。
「もう行くの?」
セリアが、そう聞いた。
「ああ。世話になった」
それだけ言って、背を向ける。
――覚えている。
彼女の名前も、声も、目も。
それが、今はまだ――
力に変わっていないだけだ。
足元で、幼体が小さく鳴いた。
この先、
守らなければならないものが増えていく。
そして、
いつかそれを“支払う日”が来る。
俺は森の奥へ、歩き出した。




