表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

第2話 異世界で得た一日も、代償になる

朝の森は、昨日よりも音が多かった。


ぽたり、と葉から雫が落ちる音。

さく、さく、と靴底が土を踏む音。

遠くで、鳥が短く鳴く。


それらすべてが、「生きている」という事実を突きつけてくる。


俺は、昨日と同じ場所に立っていた。

影狼を斬った地面はまだ黒く湿り、鉄錆と土が混じった匂いが鼻に残る。霧が足首に絡み、ひやりとした冷気が皮膚を撫でた。


勝った。

生き延びた。


――そのはずなのに。


胸の奥が落ち着かない。

昨日の戦いを思い出そうとすると、途中で意識が滑る。


「……」


“台所”という単語が浮かんで、消えた。

湯気の匂いが、喉元まで来て、形にならない。


理由は分かっている。


**俺は、もう記憶を一つ失っている。**


足元で、幼いドラゴンが小さく鳴いた。

昨日より、ほんのわずかに体が締まっている。鱗の色も、光を含んで深くなったように見えた。


俺はしゃがみ込み、そっと背を撫でる。

ざらり、とした鱗の感触。

内側から伝わる、確かな熱。


「……昨日は助かったな」


そう言いながら、胸がざわついた。


“昨日”という言葉が、どこか曖昧だ。

守ろうとした気持ちだけが残り、理由が抜け落ちている。


――嫌な感覚だ。


森を進む。

さく、さく。

靴底が湿った土を噛むたび、鼓動が一拍遅れて響く。


そのときだ。


**ぐちゃ。**


湿ったものを踏み潰すような音が、地面の下から伝わった。


次の瞬間、**ぼこり**と地面が盛り上がる。

土と根を押しのけて現れたのは、太い胴体。節くれだった輪が連なり、全身を覆う粘液が、ぬらりと光を反射している。


腐食蟲ロト・ワーム


鼻を突く刺激臭。

酸と腐敗が混じった匂いに、喉の奥がひくりと引きつる。


剣を抜く。

**しゃり**、と鞘走りの音。


だが――違う。


昨日ほど、体が言うことを聞かない。

視界は冴えているのに、判断が一拍遅れる。


腐食蟲が、**ずずっ**と地面を這う。

遅い。

だが、距離感が狂う。


粘液が**びちゃっ**と飛び、木の根に触れた瞬間、**じゅう**と音を立てて溶ける。

熱を帯びた空気が、頬を撫でた。


剣で弾く。

**ぎ、と**嫌な感触。

刃に触れた粘液が、**じわ、じわ**と金属を侵す感覚が、手首に伝わる。


――まずい。


昨日のように、見えない。

理解が追いつかない。


腐食蟲が突進してくる。

**どんっ**という衝撃。

体が弾かれ、背中から地面に叩きつけられる。


息が詰まり、視界が白くなる。

耳鳴り。


幼いドラゴンが、**きゃっ**と鳴いて俺の前に立つ。

だが、その小さな体では止められない。


「……逃げるぞ!」


腕で抱え、森を駆けた。


枝が頬を叩き、息が喉で鳴る。

酸の匂いが背後に迫り、**ぐちゃ、ぐちゃ**と地面を掻く音が追ってくる。


――勝てない。


昨日の力は、もうない。


気づけば、また夜だった。


俺は岩陰に身を寄せ、荒い息を整えた。

背中がじくじく痛み、服が冷えて張り付く。


幼体が、俺の胸元に潜り込む。

小さな心音が、直接伝わってくる。


「……今日も、ダメだったな」


声がかすれた。


そして、分かっている。

**今夜も、選ばなければならない。**


目を閉じると、今日一日の記憶が浮かんだ。


朝の森の匂い。

こいつの背を撫でた感触。

並んで歩いた時間。

「一緒に生きる」と、無意識に決めた感情。


短い。

たった一日だ。


それなのに、胸が締めつけられる。


「……冗談だろ」


前世の記憶だけじゃない。

**異世界で生きた“今日”も、もう代償にできる。**


捨てれば、明日は強くなる。

捨てなければ、たぶん――死ぬ。


幼体が、小さく鳴いた。

その声が、引き留めるみたいに聞こえる。


「……分かってる」


誰に言ったのか分からない。


これを捨てたら、

明日生き延びても――

**“一緒に生きたい”と思った理由だけが消える。**


それでも、生きたい。


歯を食いしばる。

指先が震える。


「……ごめん」


今日の俺に、謝った。


目を閉じる。


胸の奥で、何かが**すうっ**と冷える。

世界から、音が一つ抜け落ちた感覚。


幼体が、今度は強く鳴いた。

怒っているみたいに、悲しんでいるみたいに。


――こいつは、見ていた。

俺が、今日を捨てた瞬間を。


そして、闇が落ちた。


---


朝。


目を覚ました瞬間、体の感覚が変わっているのが分かった。

重さがない。

迷いがない。


森の奥で、地面が盛り上がる。


――腐食蟲。


同じ音。

同じ匂い。


なのに。


「……分かる」


動きが、線で見える。

突進の癖。

粘液が飛ぶ位置。

外殻の奥にある、柔らかい核。


**昨日、“今日”を捨てた代償として、

俺は恐怖の中でも思考を分解する力を得ている。**


踏み込む。


剣を振る。

力任せじゃない。


体重移動。

軌道。

刃を“滑らせる”。


――《裂剣・一文字》。


横一線の斬撃が、外殻を削る。


腐食蟲が、**ぐちゃっ**と音を立ててのたうつ。


だが、まだ足りない。


胸の奥が、熱を帯びる。


理解が、もう一段落ちてくる。


**魔力は、空気の流れだ。**


掌を地面に叩きつける。


――《微炎スパーク》。


**ぱちっ**と弾ける火花。

乾いた音とともに、粘液が一瞬だけ硬化する。


幼体が跳んだ。

その体温が、火花を増幅させる。


一拍。


踏み込む。


剣を突き立てる。

核。


**ぐしゃっ。**


腐食蟲は、**ずるり**と地面に沈んだ。


終わり。


勝った。

生きている。


なのに、胸が痛い。


今日の朝、こいつの背を撫でた感触を思い出そうとして、できない。

温度だけが残り、理由が消えている。


足元で幼体が俺を見上げた。

その目は、昨日よりもはっきりと感情を宿していた。


怒り。

悲しみ。

それでも、離れないという意思。


――こいつは覚えている。

俺が、今日を捨てたことを。


「……また、やったな」


答えはない。

それでも幼体は、**とん**と一歩、俺に近づいた。


強くなった。

剣も、技も、魔法も。


その代わりに、

**今日という一日を失った。**


そして俺は、はっきり理解した。


次に捨てるのは、

人との“関係”かもしれない。


森の奥を見据え、俺は剣を握り直した。


生きる。

戦う。

失う。


この世界では、

それが同時に進んでいく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
第1話の残酷なルールをさらに踏み込み、「前世の記憶」だけでなく異世界で積み上げた“今日”すら削れていく構造がはっきりしてきて、物語の怖さが一段深まりました。 成長と喪失が完全に等価交換になっていて、強…
前世だけでなく「今日」を捨てられると分かった瞬間、物語が一段深く沈み込む。 幼いドラゴンが“覚えている側”として描かれるのが切なく、彼の視線がずっと心に残ります。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ