第2話 異世界で得た一日も、代償になる
朝の森は、昨日よりも音が多かった。
ぽたり、と葉から雫が落ちる音。
さく、さく、と靴底が土を踏む音。
遠くで、鳥が短く鳴く。
それらすべてが、「生きている」という事実を突きつけてくる。
俺は、昨日と同じ場所に立っていた。
影狼を斬った地面はまだ黒く湿り、鉄錆と土が混じった匂いが鼻に残る。霧が足首に絡み、ひやりとした冷気が皮膚を撫でた。
勝った。
生き延びた。
――そのはずなのに。
胸の奥が落ち着かない。
昨日の戦いを思い出そうとすると、途中で意識が滑る。
「……」
“台所”という単語が浮かんで、消えた。
湯気の匂いが、喉元まで来て、形にならない。
理由は分かっている。
**俺は、もう記憶を一つ失っている。**
足元で、幼いドラゴンが小さく鳴いた。
昨日より、ほんのわずかに体が締まっている。鱗の色も、光を含んで深くなったように見えた。
俺はしゃがみ込み、そっと背を撫でる。
ざらり、とした鱗の感触。
内側から伝わる、確かな熱。
「……昨日は助かったな」
そう言いながら、胸がざわついた。
“昨日”という言葉が、どこか曖昧だ。
守ろうとした気持ちだけが残り、理由が抜け落ちている。
――嫌な感覚だ。
森を進む。
さく、さく。
靴底が湿った土を噛むたび、鼓動が一拍遅れて響く。
そのときだ。
**ぐちゃ。**
湿ったものを踏み潰すような音が、地面の下から伝わった。
次の瞬間、**ぼこり**と地面が盛り上がる。
土と根を押しのけて現れたのは、太い胴体。節くれだった輪が連なり、全身を覆う粘液が、ぬらりと光を反射している。
腐食蟲。
鼻を突く刺激臭。
酸と腐敗が混じった匂いに、喉の奥がひくりと引きつる。
剣を抜く。
**しゃり**、と鞘走りの音。
だが――違う。
昨日ほど、体が言うことを聞かない。
視界は冴えているのに、判断が一拍遅れる。
腐食蟲が、**ずずっ**と地面を這う。
遅い。
だが、距離感が狂う。
粘液が**びちゃっ**と飛び、木の根に触れた瞬間、**じゅう**と音を立てて溶ける。
熱を帯びた空気が、頬を撫でた。
剣で弾く。
**ぎ、と**嫌な感触。
刃に触れた粘液が、**じわ、じわ**と金属を侵す感覚が、手首に伝わる。
――まずい。
昨日のように、見えない。
理解が追いつかない。
腐食蟲が突進してくる。
**どんっ**という衝撃。
体が弾かれ、背中から地面に叩きつけられる。
息が詰まり、視界が白くなる。
耳鳴り。
幼いドラゴンが、**きゃっ**と鳴いて俺の前に立つ。
だが、その小さな体では止められない。
「……逃げるぞ!」
腕で抱え、森を駆けた。
枝が頬を叩き、息が喉で鳴る。
酸の匂いが背後に迫り、**ぐちゃ、ぐちゃ**と地面を掻く音が追ってくる。
――勝てない。
昨日の力は、もうない。
気づけば、また夜だった。
俺は岩陰に身を寄せ、荒い息を整えた。
背中がじくじく痛み、服が冷えて張り付く。
幼体が、俺の胸元に潜り込む。
小さな心音が、直接伝わってくる。
「……今日も、ダメだったな」
声がかすれた。
そして、分かっている。
**今夜も、選ばなければならない。**
目を閉じると、今日一日の記憶が浮かんだ。
朝の森の匂い。
こいつの背を撫でた感触。
並んで歩いた時間。
「一緒に生きる」と、無意識に決めた感情。
短い。
たった一日だ。
それなのに、胸が締めつけられる。
「……冗談だろ」
前世の記憶だけじゃない。
**異世界で生きた“今日”も、もう代償にできる。**
捨てれば、明日は強くなる。
捨てなければ、たぶん――死ぬ。
幼体が、小さく鳴いた。
その声が、引き留めるみたいに聞こえる。
「……分かってる」
誰に言ったのか分からない。
これを捨てたら、
明日生き延びても――
**“一緒に生きたい”と思った理由だけが消える。**
それでも、生きたい。
歯を食いしばる。
指先が震える。
「……ごめん」
今日の俺に、謝った。
目を閉じる。
胸の奥で、何かが**すうっ**と冷える。
世界から、音が一つ抜け落ちた感覚。
幼体が、今度は強く鳴いた。
怒っているみたいに、悲しんでいるみたいに。
――こいつは、見ていた。
俺が、今日を捨てた瞬間を。
そして、闇が落ちた。
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朝。
目を覚ました瞬間、体の感覚が変わっているのが分かった。
重さがない。
迷いがない。
森の奥で、地面が盛り上がる。
――腐食蟲。
同じ音。
同じ匂い。
なのに。
「……分かる」
動きが、線で見える。
突進の癖。
粘液が飛ぶ位置。
外殻の奥にある、柔らかい核。
**昨日、“今日”を捨てた代償として、
俺は恐怖の中でも思考を分解する力を得ている。**
踏み込む。
剣を振る。
力任せじゃない。
体重移動。
軌道。
刃を“滑らせる”。
――《裂剣・一文字》。
横一線の斬撃が、外殻を削る。
腐食蟲が、**ぐちゃっ**と音を立ててのたうつ。
だが、まだ足りない。
胸の奥が、熱を帯びる。
理解が、もう一段落ちてくる。
**魔力は、空気の流れだ。**
掌を地面に叩きつける。
――《微炎》。
**ぱちっ**と弾ける火花。
乾いた音とともに、粘液が一瞬だけ硬化する。
幼体が跳んだ。
その体温が、火花を増幅させる。
一拍。
踏み込む。
剣を突き立てる。
核。
**ぐしゃっ。**
腐食蟲は、**ずるり**と地面に沈んだ。
終わり。
勝った。
生きている。
なのに、胸が痛い。
今日の朝、こいつの背を撫でた感触を思い出そうとして、できない。
温度だけが残り、理由が消えている。
足元で幼体が俺を見上げた。
その目は、昨日よりもはっきりと感情を宿していた。
怒り。
悲しみ。
それでも、離れないという意思。
――こいつは覚えている。
俺が、今日を捨てたことを。
「……また、やったな」
答えはない。
それでも幼体は、**とん**と一歩、俺に近づいた。
強くなった。
剣も、技も、魔法も。
その代わりに、
**今日という一日を失った。**
そして俺は、はっきり理解した。
次に捨てるのは、
人との“関係”かもしれない。
森の奥を見据え、俺は剣を握り直した。
生きる。
戦う。
失う。
この世界では、
それが同時に進んでいく。




