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第1話  異世界に転生した俺は、前世の記憶を捨てて生き延びる

異世界に転生した俺が最初に知ったのは、前世の記憶を捨てれば強くなれる、という事実だった。**


祝福でも奇跡でもない。

それは、息をするのと同じくらい冷たい“条件”だった。


目を開けた瞬間、鼻腔に土の匂いが刺さった。湿り気のある黒土に、腐葉土の甘い苦さ。空気は冷えていて、吸い込むたびに喉の奥がひりつく。見上げれば、枝葉の隙間から灰色の光が落ち、森全体が薄い霧に沈んでいた。


――ここは日本じゃない。


肌で分かった。

耳で分かった。

そして何より、胸の奥の「帰れない」という重さで分かった。


腰には剣が一本。鞘の革は硬く、掌に馴染まない。背中には小さな革袋。中身は乾いたパンと、金属の水筒と、布切れ程度。軽すぎる装備が、逆に現実味を増す。


「……詰んでないか、これ」


声がやけに乾いた。

出した言葉が、森に吸われて消えるのが怖かった。


歩き出してしばらく、森の音が変わった。

鳥のさえずりが遠のき、虫の羽音が途切れ、風の擦れる音だけが残る。静けさが“薄い膜”みたいに厚くなり、鼓動だけがやけに大きく聞こえた。


その膜を、ずる、と裂く音。


地面を擦るような、引きずるような音が一定の間隔で近づいてくる。獣の足音じゃない。土を削る音に近い。


――来る。


木々の間を縫うように、黒い影が滑った。


狼に似た輪郭。だが毛並みがない。黒い霧を無理やり固めたような体で、四肢の境界が曖昧だ。目があるはずの場所は揺らぎ、焦点が定まらない。口の裂け目だけが、濡れた革のように光っている。


「……影狼シャドウ・ウルフ


名前が口から出て、自分で驚いた。

知識が勝手に浮かぶ。理解が追いつく前に、結論だけが先に落ちてくる。


**勝てない。**


影狼は鳴かなかった。

代わりに、地面を蹴った。


速い――というより、距離感が狂う。視界の端から一瞬で懐に入ってくる。横から来た爪は振り下ろされず、横に“払われた”。その軌道がやけに低く、避けたはずの背中を掠める。


「っ……!」


布が裂け、皮膚が熱く焼ける。鉄錆の匂い。血の匂いが一拍遅れて鼻に来た。爪はそのまま背後の木を薙ぎ、乾いた破裂音とともに幹が裂ける。樹液の青臭い匂いが立ち上る。


一撃で、木を。

じゃあ、人間はどうなる。


剣を構える手が震えた。

金属の冷たさが掌に刺さる。肩が上がり、呼吸が浅くなる。視界が狭くなる。音が遠くなる。


「無理だ……」


その言葉が口を出た瞬間、影がさらに近づいた。

反射で剣を振り上げた――が、遅い。


衝撃が肋骨を叩き、肺の空気が一気に抜けた。地面が顔の横を滑り、口の中に砂の粒が入る。息ができない。胃の奥が冷える。


死ぬ。


本気で、そう思った。


そのときだった。


甲高い鳴き声。

熱を帯びた、幼い声。


足元に、小さな影が跳ね出た。


赤銅色の鱗。短い翼。丸い胴体。爪はまだ柔らかく、牙も小さい。けれど目だけは、妙に澄んでいる。獣の目じゃない――誰かを見ている目だ。


**ドラゴンの幼体**。


震えながら、それでも俺と影狼の間に立った。

まるで「逃げろ」と言うみたいに、尾で地面を叩く。


「……来るな!」


叫んだが、影狼は躊躇なく跳んだ。


考えるより先に体が動いた。

剣を捨て、幼体を抱えて横に転がる。背中に二度目の熱が走り、視界が白く弾ける。痛みで涙が滲む。それでも、致命傷は避けられた。


逃げるしかない。


走った。

枝が頬を叩き、息が喉で鳴り、肺が焼ける。靴底が泥に取られて転びかけ、口の中に血が広がる。どこかで、影狼が土を擦る音がした。近い。遠い。分からない。


気づけば、森が少し明るくなっていた。

夕暮れの紫が霧を薄く染め、影狼の気配は消えていた。


夜だった。


俺は木にもたれて座り込んだ。背中がじくじくする。服が貼り付いて冷たい。幼体は俺の膝の上で丸くなり、体温だけがやけに高かった。小さな心音が掌に伝わる。


「……生き延びた、のか」


言った瞬間、胸の奥に“理解”が落ちてきた。


――眠る前に、記憶を一つ捨てろ。


誰の声でもない。命令でもない。

ただの**仕様**。この世界の、死と生の境界線。


捨てなければ、明日は来ない。

捨てれば、生きられる。


「……記憶……」


目を閉じると、前世の光景が勝手に浮かんだ。


実家の台所。

夜遅く、蛍光灯の白い光。冷蔵庫のモーター音。湯気の立つ味噌汁の匂い。

母が、ふう、と息を吐いて言う。


「遅い」


怒っているみたいで、でも声は柔らかい。

湯呑みを置く、陶器の小さな音。


「体、壊すよ」


その一言の温度が、胸の奥をほどく。


――捨てたくない。


喉の奥が詰まる。

これを失ったら、もう二度と「帰る」という言葉に意味がなくなる。

“帰りたい”という感情すら、持てなくなるかもしれない。


「……やめろ、俺」


自分に言い聞かせる。

でも指が震えている。

選ばなければ死ぬ。選べば、何かが二度と戻らない。


膝の上の幼体が、俺の袖を小さな爪で引いた。

まるで「分かってる」とでも言うように、じっと見上げてくる。


――こいつ、なんでそんな目をする?


まだ会ったばかりのはずなのに。

なのに、こいつは俺より先に“喪失”を理解しているように見える。


「……ごめん」


母に、というより――俺の人生に、謝った。


最後にもう一度、台所の匂いを深く吸い込む真似をした。

味噌汁の湯気。洗剤の匂い。母の手の温度。


捨てたくない。

でも、生きる。


目を閉じる。


胸の奥の温度が、すっと下がった。

世界から、色が一つ抜け落ちた気がした。

耳鳴りがして、指先が冷たくなる。


幼体が、悲しそうに鳴いた。

その鳴き声が、なぜか俺の喉の奥を掻きむしった。


そして、意識が落ちた。


---


朝。


目を覚ました瞬間、体が軽すぎて怖かった。

背中の傷は痛い。けれど痛みが“遠い”。

剣を拾う。握った感触が、昨日とは別物だ。重さがない。金属が掌に馴染む。


森の奥で、影が動く。


――影狼。


同じ輪郭。

同じ匂い。湿った土と、鉄錆と、霧の冷たさ。


なのに、今日は――見える。


爪が来る角度。

踏み込みの癖。

次にどこへ滑るか。


理由は分からない。

でも、知っている。


半身でかわす。

一歩踏み込む。刃を横に走らせる。

金属が何かを断つ感触が、手首に短く返ってくる。


影狼は、霧に戻るように崩れた。

地面に残るのは、ひやりとした湿気だけだった。


終わり。


勝った。

確かに、勝った。


なのに――胸が痛い。


なぜか、あの台所の匂いを思い出そうとして、思い出せない。

湯気の匂いが、口の中まで来ているのに、輪郭だけが掴めない。


「……誰、だっけ」


名前が出ない。顔も出ない。

でも、**大切だった**という事実だけが残っている。

理由のない痛みが、胸の奥を押す。


足元で幼体が俺を見上げた。

その目が、ほんの少しだけ怒っているように見えた。


――こいつは覚えている。

俺が今、何を失ったのかを。


「……お前、なんで分かるんだ」


答えはない。

それでも幼体は、俺の足に頭を擦りつけた。

まるで「次も生きろ」と言うみたいに。


強くなった。

その代わりに、俺は確かに何かを捨てた。


そして――たぶん、気づいてしまった。


次に捨てる記憶が、前世のものとは限らないことを。


今日、俺がこの幼体を抱えて転がったこと。

この体温。

この視線。

この“助かった”という感情。


それすら、いつか――力に変わる。


俺は剣を握り直し、森の奥を見た。


生きる。

強くなる。

失う。


この世界では、その順番が逆になっている。

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― 新着の感想 ―
「強くなる=記憶を捨てる」という設定が冷酷で美しく、特に母の台所の記憶を代償にする選択が感情的な芯になっていて印象的でした。 戦闘描写は過剰じゃないのに緊張感が高く、ドラゴン幼体の存在が“失う痛み”を…
導入から圧倒的。 影狼との戦闘が派手なのに、恐怖の焦点は常に「選択」にある。 母の台所の匂いを捨てる場面は、異世界転生でありながら現実に直結していて胸が締めつけられました。
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