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アンドロイドL01i(仮題)  作者: Alan Ingres


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第10回

陽電子ヴォミッサ空間推論ネットワーク(PVN)

 PVNは、A・ヴォミッサ博士が提唱した「陽電子演算による高次推論理論」に基づく人工知能モデルである。PVNは、従来のニューラルネットワークとは異なり、多次元空間(ヴォミッサ空間)上での推論経路を動的に再構成する「空間推論マッピング」を特徴とする。この構造により、PVNは自己参照的な思考過程、長期的な人格一貫性、感情モデルの安定化を可能にした。PVNの登場は人工知能史における「第三の転換点」とされ、アンドロイドの人格表現は人間のそれと区別が困難なレベルに達した。

ーーー『陽電子ヴォミッサ空間推論ネットワーク』 - Omnipedia(最終更新2246年12月20日、閲覧2047年03月12日)



 タクシーを降りると、そこはフォンジー地区にいくつかあるビジネス向けホテルの入り口のそばだった。1階の壁全部がPVになっているらしく、動画やら文字やらが映されている隙間から、ロビーでくつろぐ人々や、カウンターの中で仕事をしているアンドロイドの姿がちらちらと見えた。ぼくがPVに手を近づけると、操作パネルがふわりと浮き上がった。「M」と書かれたボタンを押すと、目の前のPVの一部が半透明になり、鏡のようにぼくの姿全体を映し出した。ぼくは、それを見ながら曲がったネクタイの位置と数年ぶりに櫛を入れた髪を整えた。

(こうして見ると、意外とまともな人間に見えるね)

 再び「M」の文字を押すと、鏡は消えた。ぼくは、ホテルの入り口をくぐった…


「トミー…カルメン…」

 ぼくはメールのアドレスをもう一度確認した。それはたしかに認証済みのパシックのビジネス・メールアドレスだった。それでも本物だとはとても信じられなかった。ぼくはディスプレイから顔を離し、目を閉じて椅子の背にからだをあずけた。なんだか嫌な感じだ。

 トミー・カルメン。パシックのCEOで、世界屈指の大富豪で、数々の伝説の霧に包まれた変人。彼のためだけに「調整」されたアンドロイドたちと巨大な邸宅にひとりで暮らしている、らしい。ぼくのマンションの部屋と彼の『城』は直線距離で200㎞も離れていないが、ぼくからすれば、彼の存在は火星の植民都市の住人より遠かった。実際、火星の2番目の植民都市「ガリア」には、大学時代の友人が家族と住んでいるはずだ。あいつは釣りが趣味だったけど、火星に釣りのできるスポットはまだないんじゃないだろうか。トミー・カルメンの「趣味」については、ぼくはまったく知らなかったし、知りたいと思ったこともなかった。いや、ほんのちょっとは興味あるかな?

「アラン」

 目を開けると、ディアナの顔が目の前5㎝のところにあった。薄緑色のサマードレスの胸元から、ディアナの白い胸が覗いていた。ほとんど少年のように薄い胸からおなかのラインに、ぼくの視線は吸い込まれていった。

「アラン」

 ディアナが両手でぼくの頬を包み、ぼくの唇に軽くキスをした。ぼくはディアナをつかまえてようと手を動かしかけたけど、ディアナはすぐにからだを起こし、ぼくから離れてしまった。

「どうかした?ぼーっとして。ランチの時間なのにダイニングに来ないから…」

 ぼくは本棚の上の「ワラシ」を見た。「12:15」の表示が見えた。

「ほんとだ。そういえばおなかがすいたな」

 ぼくは立ち上がって、ディアナの肩に手を回した。ぼくは自分がまるでディアナに隠しごとができるようにふるまっていることを自覚していたけど、まあ、ちょっとした『恋人ごっこ』みたいな気分を味わいたかったのかもしれない。実際には、この家のDICEとディアナは常時接続されているから、ぼく宛てに届くメールに関する情報もすでに彼女のデータには格納済のはずだった。ディアナはほんの少し首をかしげてから、ぼくを見上げて言った。

「さっきのメール?トミー・カルメンからの」

「自称、だろ?」

 ディアナは首を振った。

「あれは本物よ。デイジーと私が12パターンのチェックプログラムを作って確かめたけど、偽物である確率は0.3%未満よ」

 ぼくはダイニング・テーブルのいつもの椅子に座り、ディアナは隣りに座った。テーブルにはいつものランチ・ボックスが置いてあった。

「トミーみたいな超大物がぼくに何の用だと思う?少々金を借りたいなんて言われても困るんだけど」

「いちばんありそうなのはお仕事のお話だと思うけど」

「しごと…」

 ぼくはディアナの顔を見たが、すぐに眼を逸らした。

「ぼくの仕事を知ってるのかな…その、トミー・カルメンが、だけど」

 ディアナは立ち上がって、テーブルの上のポットを取りあげると、ぼくの空のカップにその中身を注いだ。中には適温に保たれたコーヒーが入っている。ディアナはコーヒーの入ったカップをランチボックスのそばにそっと置いた。

「知っているでしょうね。彼は知りたいと思えばなんでも知ることができるはずでしょ」

 ぼくはなんだか尋問を受けているような気持ちになってきた。

「たしかにね。ぼくのことは何でも知っているだろうな。たとえばそう、君のことも」

 そう言ってぼくは彼女を見上げた。ディアナの表情は心配そうに見えた。人工皮膚と人工表情筋は完璧にその機能を果たしている。

「何が気がかりなの、アラン?」

 ぼくはまた彼女から目をそらし、だまってコーヒーを一口啜った。


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