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旧都市研究部部室から発見された怪談集  作者: 梶ノ葉 カジカ
下書きフォルダ(投稿怪談アーカイブ)
19/31

竹島小太郎伝説に関連する榊津地区の怪談・2

 投稿者:一年G組 洗場歩笑


(すみません。容量制限に気づかず画像とともに送信してしまいましたので、未達となっていた部分を三〇〇〇字ずつ分割してお送りします。お手数ですが前段とつなげてお読みください。)



おけるこの作法は、長崎県対馬・龍良山たてらさんの〈オソロシドコロ〉と呼ばれる禁足地でのそれと酷似している。


 オソロシドコロといえば、多少土着宗教やオカルトに興味のある人であれば既知の通り天道信仰の聖地であるが、『竹島弁天と小太郎伝説』(賀光鐵兵/蒲郡歴史民俗研究会・著/ポロロ出版)によれば、小太郎山周辺の一部地域では、本来大陸から渡来者が流れ着く地域ではなく成立の過程こそ異とするものの、“亜流天道信仰と呼んで差し支えない”習俗の痕跡が残っているという。


(※くだんの一部地域はかつて山中に存在したとされており、現在では下山した末裔の人々によって細々と継承されている限りであるが、郷土史家が収集する資料ではしばしばユニークな“河童の集団”として描かれ、その史跡は竹島小太郎ゆかりの地として大切に保存されている。)


 一方で榊津には低山こそ存在するものの、先述の石碑は街を挟んで対角に位置し、また山岳信仰に類似した風習も確認されていない。


 ここで小太郎山と榊津を繋ぐのも、やはり小太郎伝説である。


 小太郎が河童を家来にしたのち、うまし姫の舞によって生えたみかんを食べて力をつけるという一節は時に冗長とされ、物語上のヒロインであるくちな姫との混同を避けるため、子供向けの絵本では割愛されることも珍しくない。


 しかしこのうまし姫こと甘実比売(うまし/かんみひめ)は藤原定家が記した『毎月記』にもその名が登場し、“てけてけてんてん”の海坊主などはもとより、小太郎自身よりもよほど実在した可能性が高い人物である。


 毎月記によれば、甘実比売はその舞と祈祷によって凶作に見舞われた五井地方のみかん畑を復活せしめた流浪の巫女であり、藤原俊成あるいは盛頼が尾張西部に社を建てこれを褒美として賜ったとされている。


(※藤原俊成が小太郎のモデルであるとする説と同様に、盛頼の実子で俊成の養女である藤原俊成女(しゅんぜいのむすめ)と甘実比売を同一視する説もあるが、俊成女が祈祷ないし作物に関する働きをしたり尾張国に滞在したという有力な記録は現在のところ確認されていない。)


 地域の口伝を中心にまとめられた『竹島小太郎と二人の姫』(橘うまし踊り保存会・編/剣呑社)によれば、この社が建てられたのが現在の供米田地域にあたるという。


(※甘実比売の通る後にはみかんの木がみるみる生えたという伝説があり、その足跡の一部が今日にもみかん畑に囲まれた〈音羽蒲郡道路(三河湾オレンジロード)〉として残存している。)


 社そのものは現存していないが、『竹島小太郎と二人の姫』の中では地理的に隆起もしくは堆積する要素の薄い地域に出現した低山こそが甘実比売の墳墓である可能性が示唆されている。


 以上は公家の日記と関連する民間説話の紹介であるが、怪談と呼ぶべき傍流も存在する。


 当該の説は次のようなものである。


 甘実比売とされる女は甲斐から流れてきたみすぼらしい出で立ちの歩き巫女であり、凶作の田畑で行われたのは巫女を人身御供とする雨乞いであった。


(※蒲郡では同時期に藤原俊成によって近江の竹生島から弁財天(市杵島姫命)が勧請され、今日まで雨乞いの神として祀られているが関連は不明。)


 儀式の内容は巫女を数日間延々と舞わせ、命が尽きた巫女の身体をその場で捌き、体液を余すことなく地に吸わせるという凄惨なものであった。


(※小太郎まつりで奉納される橘うまし踊りの振り付けに見られる袖を絞る動きは、この儀式の様相に起因するという説もある。)


 この時、巫女の身体からはとめどなく透明ながら腐臭のする膿が流れ続け、雨を待つまでもなく畑は潤った。


 しかしその後も巫女の身体から断続的に膿が湧き、ついに一帯の畑が冠水してしまうほどだったので、高名な僧侶の指南によって尾張の地に埋葬するべく移送された。


 三河から尾張への旅程は、比売の足で歩んだものではなかった。


 巫女の身体はバラバラの状態で棺桶に納まって担がれた。


 はるばる尾張を目指す道中にも桶の蓋からは水のような膿が流れ続け、行く先々の木々や田畑を潤したという。


 その後巫女は榊津の低山の中腹、石造りの大仰な墳墓に封じられた。


 墳墓からも依然として膿が湧き続けるため、高名な僧侶によって長期間の供養を行うとついに巫女は鎮まった。


 僧侶の行った祭儀は地域の限られた二、三の家のみに継承された。


 現代に至っても数年に一度泉のように膿が湧き、そのたび榊津の山中では一般の町民の目に触れぬまま供養が続けられているという。


(※民間説話に登場する高名な僧侶といえば弘法大師であることが通例であるが、『冨田の歩み』(冨田の歩み編集委員会・編/冨田地区合併三十周年記念事業実行委員会)によれば西方からやってきた“薬研師やげんし”もしくは“薬缶やかん法師”と呼ばれる僧侶であったとされる。榊津の御芋おいも祭りでは町の中心部にある三返さんぺん神社で篝火を焚き、大釜で沸かした湯を各家庭の薬缶に配る風習があるが関連は不明。)


 祭儀の内容は固く秘匿されており、昭和六〇年ごろから継続して蒲郡歴史民俗研究会によるフィールドワークが行われたが、地域外の人間に対する警戒心は強く、具体的な成果は得られなかった。


 そんな中でも〈三河のうわばみ〉の異名を取るほどの酒豪であった研究会メンバーの彫刻家・箭内やない朝雄氏は比較的榊津住民に受け入れられており、「各家がそれぞれ巫女と従者、何らかの祭具職人の役割を担っている」「因縁、手無し娘の類型」「よのきづ→よんのぎつ→よりのぎ」と読める不明瞭な手記を遺している。


(※高齢の住民は榊津を“よのきづ”と呼ぶ傾向があり、一部の地図やデータベース等でもそのように読み仮名が振られている。これは尾張誌によれば文和元年(一三五二年)時点でこの地域を“榎津えなつ村”と呼称していたことに起因するという説もあるが、詳細は不明。)


 箭内氏は昭和六四年六月に小太郎山中で単独ピクニック中に消息を絶っており、メンバーの高齢化から後任の選定に時間を要したため、調査の進捗は一時断絶した。


 氏の失踪以前に口承文芸から着想を得た考察がまとめられたノート『竹島雑記』には次のような記述がある。



 第三章 箱入り娘とうつろ舟


 竹島小太郎の物語のバリエーションを収集していた箭内氏は『竹島雑記』の中で、確認された最古のものから現代にかけていかに変遷したのか、また原点はどのような展開だったのかを氏の主観を含めて考察を綴っている。


 小太郎が竹島に陣取る大蛸を退治し、海中の牢に囚われていたくちな姫を救出するシーンが物語のクライマックスである。


 一体どのようにして海中に沈んだ牢に入れられて溺死せずに済んでいたのか。


 原典に近いところではくちな姫は大釜に入れられ海中に沈められたことで絶命しており、小太郎は河童と海坊主の協力を得て姫の遺体を現在の竹島園地のある岸に引き揚げた。


 これは平安期に描かれたとされる『竹島子伝記』(作者不詳/Tanzania Cultural Centre蔵)と江戸中期に描かれた『昔噺シ小太郎絵巻』(餓鋼信雁/蒲郡歴史民俗資料館蔵)に見られる絵図から氏が解釈したもので、姫の遺体の入った大釜は蓋つきの巨大な茶釜のような形状となっている。


 現代の感覚からすれば昔話の不可解な展開はありがちとはいえ、そもそもなぜ小太郎はくちな姫を助けに行ったのか?


 なぜ救出するまでもなく絶命している姫を引き揚げたのか?


 箭内氏はこの不条理に一つの仮説を見出した。


 蒲郡開拓の祖、竹島八百富神社を創建した藤原俊成像が建っている竹島園地では、天

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