十尺の間合い
和算学者から数学者に役割の冠を被り直した乙木三次郎は、お尋ね者の人斬り十尺を討てと、京都府の警察から直々の依頼が来た。
慶応末期から、十尺と呼ばれる剣客が、寝静まる夜中に街を歩く。市井は常にその話で持ちきりだった。
「さて、きゃつを探しに町の見回りに、ゆきましょうか」
それを聞いて警察数人のうち一人が舌打ちをし、鋭い目つきで乙木三次郎を見やる。
「貴様、侮るな。人斬り十尺はただ者ではない」
十尺という名前には由来がある。彼の「間合い」だ。彼の立ち位置から十尺に入った者は皆、虫も獣も一瞬で斬られ、刀刃の曇りとなる。人であればなおさらだ。
「十尺とは、たかだか半径三メートルでしょう」
目を細め、乙木三次郎は冬の月夜を望み、もはや「城下町」も古き良き言葉となった風景を、鷹揚に歩を進める。
「戯れ言はやめろ」
浅学を嘲るような物言いをする乙木に京都府警察は少々腹を立てた声をあげる。
「おや、メートル法を知らないのですか。日本も先進国になろうと単位から鉄道まで、ありとあらゆるものを手に入れようとしているというのに」
「貴様、調子に乗るな」
慶応末期から市井の話題にたびたびのぼる人斬り十尺。ただその人物像については不確かな点が多い。判別した齢もさまざま、顔かたちもさまざま。ありとあらゆる証言を総合すると、必ず矛盾が生じる。別の誰かを十尺と勘違いしているのでは。だが直接見た者は口を揃えて言う。あいつは間違いなく十尺だ、と。
幕末が終わり明治の御代となっても、この事件はいまだ解決しない。警察の面々もこのような態度だが、直々にこの事件解決の依頼をしたのは嘘ではない。頭だって下げた。しかし、警察にも面子はある。書面上の体裁としては「協力者」に過ぎない。だがこの一介の数学者に頭を下げに来たなど、書面にはいっさい書かれない。このように横柄な態度で接するのも当然面子を気にするがゆえ。
「ところで、メートル法もさもありながら、天文学的確率という言葉をそなたらは知っておりやしょうか」
「知らん」
ぶっきらぼうに返す警察、佩刀の鞘が月明かりで光る。
「刀には刀、銃には銃。そしてあやかしにはあやかし、と言ったところでしょうか。ですが、わたくしがあらかじめ言っておきやしょう。わたくしの力はあやかしではありませぬ」
「貴様の力はすべて知っているつもりだが」
ろうそくの火を手も触れずに消し、柳の枝を刃を使わず切断したり、果ては天道様に逆らうよう雨を呼び風を呼び、夏に雪を呼ぶ。まこと、あやかしにしか見えない。
「すべて天文学的確率ですわ。ご存じですん。蝶が羽ばたけば竜巻が起こるということを」
蝶のような些末な動きが――その時の空気のゆらぎ具合が、結果的に明日の天気を左右させることがある。だがそれは天文学的確率だ。本当に竜巻が起こるその場限りの蝶の羽ばたき方なんて知りようがないし、再現のしようもない。
「何が言いたいのだ」
論客の警察の瞳を突き抜けた、まるで心の奥底まで届いた乙木の視線。おどおどする警察に続けざまにこう答えた。
「お天道様もお月様もおいりやしませんよ。天文学的確率たる事象の生じ方をわたくしの指先が知っているのですよ、たとえばいまこんなふうに指を動かせば」
乙木が軽く指を動かす。直後、風が大気を巻く音で、後方で通りすがった篝火が消えた。
「そんなこと人にできるか、かようなことができる者すなわち人に非ず、だ」
「お次は首が飛びますよ」
「脅す気か」
乙木は警察に指を向ける。とっさのことに警察は彼ら自慢の佩刀に手を触れ、抜こうとする。
「刀を抜きんなさい」
「貴様、これ以上我々を愚弄する気か」
「いえ、ようやくおいでませ、でございますよ」
血の気が引く音がした気がしたのは、それが一陣の風と同じ音がしたからだろうか。
乙木に指差された方角に顔を向ける。
物々しく青白い妖気を身に纏いながら「そいつ」は、刀を携え、明確な敵意を剥き出しに、下駄を擦らせる音を立て、こちらに近づいてくる。
「人斬り十尺、だ……」
見聞ではどうこうだったという特徴など、即座にかなぐり捨てられる。よだつこれほどの恐怖が、何よりの特徴だった。
他の警察への合図に、呼び笛を吹こうとした警察に、人斬り十尺は迫る。
振り上げた刀が呼び笛を叩き割った。
「ひっ」
抜刀する瞬間、緊張に腕を絞られたかのごとく、筋肉が引き攣ったようだ。
結果、刀を抜くに遅く、すでに十尺の間合いを許した彼は顎から額にかけて刃傷を貰い、倒れて黙然と化した。
「う、撃て!」
何も武器は刀だけではない。当然、警察は銃器も周到に用意した。
一人が破裂音とともに弾を放つ。
だが破裂した音を立てたのと、人斬りが刀を振り上げたのは間違いなく同時だった。
警察が発砲した弾丸が砕けたその証拠が、民家の壁に小さな穴を作っていた。
「こいつ、弾を刀で……」
人斬り十尺、間合いに入ったものはすべて斬る。人も、そして銃弾も。
警察の一人が佩刀を抜き、人斬りに投げつけた。
下手な鉄砲も数撃てば当たると言うが、下手な鉄砲も数撃てばその人の愚かさがわかる。
投擲した刀は人斬りに当たらない、その十尺余り横を擦り抜けた。皮肉にもそいつは手を出すことなく、佩刀は民家の壁に刺さった。
「やめておくんなさい、わたくしがお相手いたしますよ」
乙木が前へ歩み出た。
「と、とっととやってくれ!」
乙木は人差し指を口に当て、すぅと涼しい息を吸い吹きかけた。
しばらく間の後、風が強まる。袖が乾いた音を立て、激しくはためく。人斬り十尺の白い妖気が風下に向かい、棚引く青白い光が伸びていった。
怯まず十尺は刀を振り上げ、一歩前に進んで直後、跳躍して乙木に斬りかかる。
済んで避ける。十尺の間合いが触れて、死線が鼻の頭を掠める。乙木の血が――つつっ、と鼻筋に沿って流れるのみ。
青白い妖気の残像が、限りなく直線を描いていた。斬殺の軌跡。運が悪ければ、刀の餌食になっていたところ。だが、
「偶然などありゃしませんよ、この世は必然で成り立っているのです」
まるでこうやって避けたのが自分の計画通りと言わんばかり。
だが及び腰で、人斬りからも乙木からも距離を取っていた警察は、何ひとつ反論もできなかった。
人斬りの眼が乙木のほうを覗く。
「目がとてもいいのでありんますね」
唸り声を漏らし、その両眼で睥睨する。妖気の光がいまだ身体中から漏れたままだ。
乙木が石つぶてを握り込める。十尺の横っ面、向かって左に投擲する。人斬りの眼が動き、十尺の間合いで破砕する。眼が間違いなく石の動きを捕らえていた。
「本当に、目がよろしゅうありんますね」
「……」
「なるほど」
すると乙木はまわりの空気を集めるように、頭上で指を旋回させる。
そのとき、耳をつんざくほど高い音が鳴り響く。
汽笛だ。
京都で走らす汽車の音。
次の瞬間、風とともに周囲を脅かすほどの黒い霧が周囲を覆い尽くした。
汽車の煤煙が流れてきたのだ。
「貴様、何を、うわっ」
警察の者どもが悪態を垂れる。
そして、人斬りが身体に帯びる妖気が見えなくなる。
さぁ黒煙が晴れた。
静かな間を与えるに相応しい好転。乙木が不気味な笑みを浮かべる。
「本当に、目がよろしゅうございますね、闇の中にある黒が見えるぐらいに……」
十尺の間合いの中で、そう乙木は右腕を押さえ、左手を人斬りの首筋に添えていた。
「動くと、鎌鼬があなたの首を斬りますよ」
この指は、強風も鎌鼬を呼ぶのにも自由自在だ。そのことを人斬り十尺も承知していることだろう。
十尺の間合いで、乙木は間違いなく生きていた。どこから見ても状況は乙木のほうに傾いている。
だが明らかな悪足掻きに、人斬りは牙を剥いて口を大きく開ける。
指を噛みちぎられるか。推察よりも直感が先に働いてか、乙木は人差し指をすっと動かし、人斬り十尺の喉元がぱっくりと開き、出血した。
傷口から白い光が漏れ出て、周囲が数秒、目を開けられぬほど明るくなる。
気づくと、人斬り十尺がいなくなっていた。
そこにあったのは、動物の遺体、狐が一匹倒れていた。
「これだけ皆々様が鳴動して狐一匹でありますか」
それを言うならネズミだが、言うのも野暮だ。
「い、いったいどういうことだ」
「この御代にあやかしも異形も時代遅れでありますよ、きっとこの狐もこの過ごしにくい御代までずっと生き続けていたんでありましょう」
人斬り十尺の正体がこの狐だったのか。なんと常軌の逸する事件であろう。
「そんなバカなことが」
「おや、あやかしにはあやかしと、わたくしを呼んだのはあなたたちではないですか。あやかしがあやかしとわかって、いまさら何を言うのでしょうか」
貴様、と言いかけたが警察は、二の句が継げないとわかってか、直前で押し黙る。
「褒賞は袖に入るくらいでお願いいたしますよ」
「おい貴様……」
警察は去り際の乙木の背中を呼びかける。
「貴様は本当にあやかしのたぐいではないのか」
「こん」
その声を聞いて、警察たちは背筋がぴんと跳ね上がる。
「今夜は涼しいでございますこと。風邪など引かぬよう」
唖然と警察たちは何も声をかけられず、そのまま乙木三次郎の姿を見送った。
「こん」ともう一度咳払い。彼の口から漏れた吐息がほんのり青白く輝いていたのは、おそらく今宵が寒すぎるせいだったからと、もうひとつ、月が特別に白かったせいに違いない。