(8-11)
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織田家が駿河を手に入れた翌八月、甲斐国から武田信玄の名代として弟の信繁が清洲に来訪した。
越後の上杉を牽制するために武田信玄は北信濃に兵を進め、その途中で信繁が使者として伊那街道を通ってやってきたのだ。
甲斐の虎が最も信頼すると言われる三十六歳の堂々とした風格をたたえた男の登場に、清洲城の広間は緊張した空気に包まれた。
「このたびの戦における勝利、まことにおめでとうございます」
「武田家の加勢について、織田家からも篤く御礼申し上げる」
儀礼的な挨拶の後、信長が俺を呼び出した。
「光秀、その方自慢の銃を信繁殿にご覧に入れるが良い」
「かしこまりました」
俺は『月手繰り』を武田信繁に披露した。
「おお、これでござるか。馬場殿から話を伺っておりましたが、見事でございますな」
信長が思いがけないことを言い始めた。
「我ら織田と武田の盟約の証として、この銃を進呈しようと思うがいかがかな」
「ほう、この銃を、でございますか」と、信繁が俺に視線を送った。「しかしながら、これは使いこなすには相当な熟練を要するものでございましょう。やはりこれは使い手が持ってこその名器であると存じますゆえ、ありがたきことなれど辞退申し上げまする」
武田信繁は丁重に銃を掲げ、俺に返却した。
「そうか、それであるならば、我が織田家の宝を信繁殿に進呈することとしよう」
信長は小姓に命じて何かを取りに行かせた。
甲斐国の様子や北信濃の情勢など、しばらくの雑談の後、奥御殿の侍女が廊下に現れた。
「姫様がお越しになりました」
――ん?
お市様が?
侍女たちの間から光り輝くようなお市様が姿を現し、広間に入ってくる。
その後ろには心結も控えていた。
広間の空気が一気に華やかになった。
「おう、市、参ったか」
「兄上、お呼びだそうで。何事でございますか」
「こちらは武田家名代の信繁殿である」
「お初にお目にかかります。市でございます」
丁重に頭を下げてあいさつをすると、武田信繁は額を赤くしながらあいさつを返した。
「武田家当主晴信の弟で信繁でございます。噂に名高い麗しい御方にお目にかかれて清洲まで来た甲斐があったというものでございます」
「のう、信繁殿」と、信長は事もなげに告げた。「この市を貴殿に嫁がせようと思うがいかがかな」
――はあ?
ちょ、おい、待てよ。
ほぐれていた座が一瞬で凍りつく。
柴田勝家、羽柴秀吉、池田恒興、河尻秀隆、退き佐久間もみな息をのんだまま失神したように固まっていた。
お市様は表情を変えず、ただうつむいている。
――嘘だろ。
そりゃたしかに史実では浅井長政に嫁ぐことになっているわけだけど、このシナリオでは、俺と結婚することになっているんだぞ。
俺はすべてを捧げると誓ったんだ。
すべては本能寺のために。
なのに、信長はすべてをぶち壊しにかかったのだ。
信長は満足げに扇子を振るう。
「これまで手元に温めてきた切り札を使う時が来た」
戦国の世の習いとはいえ、大事な妹を政略結婚の駒として扱う信長に怒りを覚えるが、だが、逆に、シスコンの信長にとって一番価値のある宝を差し出そうという誠意の表れなのだろう。
申し出を受けた武田信繁も恐縮しつつ、まんざらでもないようだ。
耳まで赤くしながら平伏している。
「織田家の信頼の証、しかとこの信繁受け止めました。信濃に戻りしだい、兄に伝えまする」
「うむ、輿入れについては、また改めて信玄殿とも詰めてからといたそう」
ああ、なんということだ。
なんのために俺はこの同盟を成立させたのだろう。
こうなったのもすべて俺のせいだ。
お市様は俺に視線を送ることすらしてくださらない。
後ろに控えた心結もわざとらしく俺から顔を背けている。
武田信繁は信長と会見を終えるとすぐに信濃へ帰って行った。
――お市様と話をしなければ。
だが、焦るばかりで、俺にできることはなかった。
こちらからお市様に面会を願い出ることはできない。
個人的に接触を試みたことが知られたら、シスコンの信長に疑われる。
俺は心結の連絡を待つしかなかった。
今川氏真とのいきさつもまだ問いただしてはいない。
無為な時間が過ぎていく日々の中で、能登屋からの手紙が届いた。
《でいぶすみしいなる南蛮人が輪島に来訪。その後、越後へ向かったとの噂でございます》
あいつめ、今度は北陸へ姿を現したのか。
何を企んでいるというのだろうか。
越後と言えば、上杉だ。
その上杉の動きも当然気になる。
なにしろ、この一五六一年の九月は第四次川中島の戦いが起きるのだ。
武田信玄と上杉謙信が一騎打ちで激突したとされ、史実では山本勘助と武田信繁が討ち死にした戦国史上有数の激戦だ。
俺の腹の底にどす黒い奈落が口を開いた。
日の本の歴史に名を刻む最悪の裏切り者、明智光秀。
その本領を発揮するべき時は今だ。
奈落の底へとすべてを引きずり込んでやる。
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