千年聖女の邂逅
薄暗いイニス神殿の内部へ、わたしはルーとエルベレスと共に転移をした。
小さな礼拝堂には、明り取りの窓から薄く陽が差している。
エルベレスは、相変わらずうずくまったままで、小さく呟いた。
「アーレンディルはどこ……?」
「……待っててね。きっと、ここにいるはずだから」
わたしはあの重い石の扉の前に立った。ルーも隣に立つ。
「……ここにアーレンディルが?」
「うん。前にルーとここに来たときに幽霊を見たの。赤毛で、古めかしい甲冑を着てた。あれはアーレンディルだったと思う。エルベレスはアーレンディルに裏切られたけど、ここでずっと彼を待っていたの。きっと、ずっと愛していた。それはたぶん今も変わらない。だから、彼に会えたら、エルベレスの無念も消えるんじゃないかと思ったの」
聖典の写本の『愛はすべての中で、一番尊いものである』という一節に、彼女自身が下線を引いたくらいだ。彼女は自分自身の愛も、心の中に大事に持っていたんだろう。
それに、彼女は復活してからもずっと、アーレンディルのことしか口にしていない。
それだけ彼への想いが強いということだ。
―――だけど、いくら目を凝らしても、陰気な礼拝堂の中にアーレンディルらしき姿は見当たらなかった。
床を這いつくばり、目を皿のようにして探すわたしに、ルーが声をかける。
「……床のタイルの隙間にはいないと思うが……」
「そっ、そうだね!!?」
「千年前の魂だから、もうほとんど消えかけているのかもしれないな」
「そんな……」
「大丈夫。私は[招魂]の魔法も使えるから」
「え?」
ルーはにこっとほほえむと、扉の前に立ち、両手を合わせた。
そして、歌うように、呪文を唱える。
「[この地で命を落としたアーレンディルの魂を招きたまえ]」
仄かな光と風が起こり、ルーの金色の髪を巻き上げる。
それがおさまったとき、その人は、そこに立っていた。
鮮やかな赤い髪に、鋭い灰色の瞳。
古めかしい甲冑には、いくつもの傷が付いている。
堂々と立つその姿は―――まさに、聖戦の勇者といった貫禄があった。
「…………ここは…………」
彼は少し驚いたように周囲を見回し、うずくまる女性に目を留めた。
「エルベレス……?」
エルベレスはゆっくりと顔を上げて、騎士の姿を見た。
「……アーレンディル!!」
火が灯ったように、エメラルドの瞳がぱっと輝く。
彼女は立ち上がり、アーレンディルの方へ走った。
アーレンディルが大きく両腕を広げて、彼女をしっかりと抱き止める。
その瞬間、すべてが消失した。
*****
気がつくと、紫から橙に移ろうグラデーションの空の中にいた。
降るような星が輝き、そのいくつかが尾を引いて流れていく。
雲が金や銀に光りたなびいていた。
わたしの足も、ふわふわの金の雲の上に乗っている。
ここには何の音もしなくて、暑さも寒さも感じない。
わたしはハッとして、周囲を見た。
「……ルー! どこ?」
「リネット、ここにいる」
霞がかかったような場所からルーが現れた。
わたしを見ると安心した表情を浮かべて、そばに来てくれる。
どちらともなく、手を繋ぐ。
「ここはどこだろう? わたしたち、イニス神殿にいたよね?」
「ああ…………もしかしたら、ここは……」
「ここは《世界のはざま》よ」
不思議な声域の、女の人の声がした。
そちらを見ると、アーレンディルにぴったりと寄り添うようにして、エルベレスが立っていた。
邪神だったときの虚ろな漆黒の瞳が嘘のように、エメラルドの瞳は、清々しさで満ちている。
「エルベレス……」
「久しぶりね、リネット。あなたをずっと待っていたわ」
ぽかんとするわたしに、エルベレスは微笑した。
「あなたはイニス神殿でわたしを見た。だけどあのとき、わたしもあなたを見ていた。気がつかなかった?
わたしに見られていることを」
「……ぜ、全然……」
「あなたがあの場所へ来たとき、半神であった千年前のわたしは、千年後のあなたを感知した。神は時空を超越し、理力は共鳴し合うものだから。だからわたしは未来へ向かって《共振術》をおこない、あなたを通して未来を視た」
わたしは絶句した。
未来のわたしに術をかけ、わたしを通して未来を視た? なんて無茶苦茶な《共振術》の使い方だ。神さまってすごい。
その半神さまは続けた。
「初代ローレンシア国王が約束を違えてわたしを殺そうとすることも、人間たちがわたしが死んだと嘘をつきアーレンディルと国王の娘を結婚させることも、絶望したわたしが邪神となることも、それを知ったアーレンディルがイニス神殿へ駆けつけ、追ってきた人間たちに殺されてわたしへの生贄にされることも、わたしはあのときに全部知った。一度視た未来は変えることができない。だからわたしは、あなたを待っていたの」
頭がくらくらした。
エルベレスは、自分が邪神となることも、恋人のアーレンディルが人間によって殺されることも、予め知っていたんだ。
知っていて、変えられない未来を受け入れた。
千年の後に、わたしが見つけられるように、下線を引いた聖典の写本を石の寝台に隠しておいて。
千年の後に、自分とアーレンディルがこうして再び出会えるように。
「で、でも、どうしてわたしだったんですか? わたしはあなたとも、ルーとも、全然違う世界にいたはずなのに……」
それはずっと疑問に思っていたことだった。
どうしてわたしが大聖女の憑代に転生したのか?
それに、どうして転生する前から、ルーと夢の中で会話ができたのか?
エルベレスは目を細めて、わたしとルーを交互に見た。
もう邪神じゃないのに、あの美しいエメラルドの瞳を見つめると、魂ごと魅了されてしまいそうになる。でも彼女にはまったくそんなつもりはないのだろう。わたしがぼうっと見とれていることなどお構いなしに答えた。
「それは、わたしがあなたがたの祈りを聞いたからよ。まったく同じ、二つの祈りを」
「……祈り?」
ルーが呟いて、わたしと目を見交わす。
だけどわたしも、何のことか見当もつかない。
エルベレスは正解を教えるように、微笑して言った。
「『誰も傷つかない世界になりますように』……あなたがた二人は、同時にこう祈っていたの。それを、わたしは聞いた。よく似た魂の形をした二人だと思ったわ。そういう二人は、強い絆で結ばれるものなの。だからわたしはあなたがた二人の思念を繋げ、あなたの魂を大聖女の憑代へ転生させるよう、《運命の書》に書き加えた」
もう一度、ルーと視線を交わす。
確かに、そんなことを祈ったような気もする。
結構切実に。
そのとき、前世のわたしは一向に良くならない病気にうんざりしていた。精神的にも追い詰められていて、いつも優しくしてくれる両親にも、医師や看護師さんにも八つ当たりをしてしまうことがあった。
だけどその後はいつもひどい自己嫌悪に襲われていた。こんなの、誰のせいでもないのに、それはわかっているのに、でもいくらがんばってもどうしようもなくて、わたしがもうすぐいなくなることも、それで傷つく人がいるのもわかっていて、あまりにも辛くて悲しくていたたまれなくて、こんなのはもう嫌だから、神さまに祈ったんだ。
誰も傷つかない世界になりますように―――と。
だけど、ルーも違う世界のどこかで同じことを祈っていて、それゆえに出会えたなんて、とても不思議だ。時系列も超越し過ぎていて、もはや始まりがどこだったのかよくわからない。
ルーが悪戯っぽくわたしに囁いた。
「『一日三祈祷』という聖教会の規則を守っていて良かった。そのおかげで君と出会えた」
……ルーって結構しれっとそういうこと言うよね!? こっちは恋愛経験ゼロなので手加減してもらいたいのですが!!?
赤くなってあわあわするわたしを見ながら、エルベレスは構わず説明を続ける。
「このように、似た魂の持ち主は、強い絆で結ばれるの。ああ、それからあなたが転生するときには、この《世界のはざま》に漂う理力を引き出して使えるように、そして法術のスキルも最初から全てを使用できるように、《運命の書》に記した。あなたがたが、確実に互いを守り合えるように。あなたがた二人が出会い、反逆者となり、邪神となったわたしを救うことは既に決まっていたことだから」
「……なるほど。私たちは最初からあなたの掌の上で踊らされていたというわけですね」
言っちゃった! わたしも思っていたけど口に出さなかったことを、ルーがさらっと言っちゃった!
「ええ。予定調和の通り踊ってくれて助かったわ。二人とも、本当にありがとう」
エルベレスもいい笑顔で答えてるし!!
「…………とにかく、うまくいってよかったです!」
わたしは深く考えないことにして、そうまとめた。
ずっとエルベレスを愛おしげに見つめていたアーレンディルが、こちらを向いた。
「私からも、君たちに感謝を言わせてくれ。私たちを解き放ってくれてありがとう。エルベレスが生きていると知ってイニス神殿に駆けつけた私は、同胞からの騙し討ちに遭った。そして魂となってもその地に縛り付けられ、そこから動くことができなかった。エルベレスも私の魂がどこにいるのかまでは知ることができなかった。だがようやく、こうして再会することができたんだ……千年振りに」
「お役に立てて何よりです」
「よかったですね、アーレンディルさん!」
ルーが聖騎士の大先輩にお辞儀をする。
わたしもにっこりと笑って言った。
アーレンディルは、無骨だけどとても温かな笑顔を、ルーとわたしに向けた。
―――ふと、殺気のこもった視線を感じてそちらを見る。
エルベレスが、縊り殺さんばかりにわたしをにらみつけている!
わたしはヘビににらまれたカエルのように立ちすくんだ。
……こ、怖い……!
神さまの恋人になんか死んでも手を出したりしませんから、そんな風ににらまないで……!!
ていうか、おかげさまでわたしにも素敵な恋人がいますので……!!!!
その後しばらく、ルーとアーレンディルが楽しそうに聖騎士トークをしている横で、わたしはエルベレスに圧をかけられたまま生きた心地もしなかった。
でも、そんな時間も終わりを告げようとしていた。
「……そろそろ、あなたがたの世界へ帰るべき時間ね」エルベレスが普通の顔に戻って、わたしに言った。「最後にあなたに言いたいことがあるの」
「は、はい……」
最後に何を言われるのだろうとドキドキしながら彼女の言葉を待つ。
まさかここで、アーレンディルをめぐって何かが勃発することはないだろう。ないだろうけど、エルベレスはわたしの予想を軽く超えてくる人だ。いや、神だ。
だけど思いのほか優しく、エルベレスがわたしに告げた。
「あなたは新しい大聖女として、人々にあがめられることとなるでしょう。でも、それに縛られる必要はないわ。あなたはあなたの心のままに生きなさい」
「……はい。ありがとうございました、大聖女エルベレスさま」
わたしは深く頭を下げた。
エルベレスがしてくれたことがとても貴重な、奇跡のようなことだったと、このときになってまざまざと実感されたからだ。
彼女がいたから、わたしはリネットに転生して、ルーと出会えた。
ローレンシアの色々な場所へ行って、色々な人に出会えた。
そして、いまだに夢のようだけど、ルーと恋をすることができた。
この宝物のような時間を経験できたのは、わたしの祈りを聞いてくれた、エルベレスがいたからなんだ。
隣にいるルーが、わたしの手をぎゅっと握ってくれる。
わたしも手を握り返した。
この《世界のはざま》では温度は感じないけれど、ルーが隣にいて手を握ってくれていることだけは、確かに感じることができる。
エルベレスがわたしたちを、慈愛のこもった眼差しで見つめる。
「それでは、あなたがたの世界へお帰りなさい。さあ、目を閉じて……」
歌うような声を聞きながら、目を閉じる。
すぐに意識が遠のいていった。
*****
再び目を開けたとき、わたしとルーは元のイニス遺跡にいて、エルベレスとアーレンディルの姿はもうどこにもなかった。




