アルバ島のエルフ2
大公の屋敷の客室は、どこか大修道院を思い出させるものだった。
必要最低限のものだけが備えられた、シンプルな部屋。快適ではあったけど、昨夜はほとんど眠れなかった。
『我々エルフは、君たちには、協力しない』
そうはっきりと、エルフの大公に断られてしまったからだ。
ルーに残された時間はどんどん少なくなっている。今日で、聖祭までは残りあと九日。生贄の儀式が行われる王都の大聖堂へは《転移術》で戻れるにしても、エルフたちの協力を取り付けないことには身動きが取れない。
最悪の場合、エルフの協力を得ないまま、ルーだけを聖祭からさらって逃げることになるかもしれない。もう一度。だけど、さすがに聖教会側もそんなことを二度も許したりはしないだろう。わたしへの対策は講じられているはずだし、それをかいくぐって強行突破なんてしたら、いよいよグレナ伯母さまだってわたしを庇いきれなくなり、メレディス家もおしまいだ。当局に逮捕される前に、わたしはイドリスに殺されるかもしれない。
そんな行き詰った状況だったから、昨日の夜、《感応術》でルーに話しかけるのも気が進まなかった。
ルーは口の重いわたしを気遣ってくれて、無理しないで、と言ってくれたけど……わたしが失敗すれば、ルーと話すことも、顔を見ることもできなくなるんだ。もう二度と。
「…………ああ、どうしてエルベレスは邪神になんてなっちゃったんだろう…………」
ベッドの上で仰向けになって天井を見ながら、わたしはつぶやいた。
千年前に彼女が人間に裏切られ、邪神なんていう恐ろしいものになってしまったから、今この国は大変な状況になっている。まだ彼女が蘇ってもいないのに、災害が頻発して、人々は大挙して外国へ逃げようとしている。
人間に裏切られたのは本当にかわいそうだけど、だからって大聖女からいきなり邪神にならなくても……。そりゃ恋人のアーレンディルにまで裏切られて、ものすごく傷ついたんだろうけど……。
エルベレスは聖典を書いて人々を導いたような、立派な人なのに。
聖典?
がばっと跳ね起きて、荷物の中から四角い包みを取り出す。
くるんだ布を解くと、中からエルベレスの書いた聖典の原書が現れた。
イニス遺跡から持ち出してきたものだ。
結局、王妃を説得する役には立たなかったけど、聖教会に寄進する気にもなれなかったし、なんとなくまだ持ち歩いている。
この聖典、最後のページを確認しただけで、あとはぱらぱらっとめくっただけなんだよね。
可能性は低いけど、もしかしたら、エルベレスの邪神化を解くヒントが、この中にあるかもしれない。
わたしは藁にもすがる思いで、一枚一枚、丁寧に聖典のページをめくり、内容を確認した。
大聖女の憑代になるために大修道院で修練をしていたとき、聖典は暗記するほど何度も読まされた。
だから、違う箇所があればすぐにわかるはずだ。
第一章、第二章、第三章……とめくっていって、第四章に、それはあった。
第四章は、聖戦後の王制の起こりについてと、愛と慈悲の必要性について書かれた章だ。
ページをめくる手が、ふと止まる。
文章に、下線が引いてあったからだ。
わたしはその部分を口に出して読んだ。
「『愛はすべての中で、一番尊いものである』」
この聖典内の一節は有名で、大聖女の教えの代名詞と言ってもいい位だ。あまりにも有名なために、逆になぜここに下線が引かれているのか理解に苦しむ。
下線のインクの色は、文字のインクの色と同じだ。筆圧も同じ。つまり、この下線はまぎれもなくエルベレスが引いたものだということになる。
「……ここを特に強調したかった? でも、そんな必要ないくらい、今でも再重要の教義だと認識されてる一節だけど……」
わたしは首をひねりながら、とりあえず最後まで確認することにした。
だけど、最後のページまでめくり終えても、他に下線が引かれている箇所も、書き込みがされている箇所も見つからなかった。
第四章の、あの一節だけ。
『愛はすべての中で、一番尊いものである』
わたしはため息を吐いて聖典を閉じ、また布でくるんだ。
やっぱり、千年前の大聖女はこの部分を特に重要だと人々に伝えたかっただけで、千年後の今へ、それは間違いなく伝わっている、ということなんだろう。
そのとき、ノックの音がした。
*****
「こっちよ、リネット」
ロータヤが先に立って迷路のような屋敷内を歩き、彼女の父自慢の絵画展示室へと案内してくれる。
朝食の席にいなかったわたしを心配して、わざわざ様子を見にきてくれ、部屋から連れ出してくれたのだ。
屋敷の一画にあるその部屋はとても広く、まるで美術館のように、たくさんの絵が飾られていた。
エルフの手によって描かれた絵もあれば、わたしも知っているような人間の有名な画家の描いた作品もある。大公が自慢するのも無理はないほどの見事なコレクションだ。大公はずいぶんと絵画蒐集に熱心なようだった。
「すごいでしょう? エルフは美しいものが好きなのだけど、父は特に絵画を愛しているの。最近はこの画家の絵がお気に入りみたいで」
「あ、知ってる。ペノイエでしょう? 最近王都でも人気の画家だよ」わたしは王妃の小離宮にもこの画家の作品が飾られていたことを思い出した。
「そう、ペノイエ。特に、去年描かれた『森の湖』という作品が、父は喉から手が出るほど欲しいみたいなの。絵画の雰囲気が、アルバ島にある湖を彷彿とさせるんですって。でもそんなお金はどこにも……」
ロータヤは、はっと言葉を飲み込んだ。言い過ぎたと思ったようだ。……うん、確かに絵画蒐集は、お金のかかる道楽だよね……家族にとっては頭が痛いのもわかる気がする。
彼女は声を小さくして言った。
「……この頃は、わたしたちの作る工芸品やアクセサリーも、あまり人間相手に売れなくなってきているの。古臭いとか、禍々しいとかで……それで、以前のようにはお金も入らなくて……」
「そっか……」
エルフも時代の流れには逆らえないということか……と、わたしはロータヤに同情した。
確かにわたしの記憶では、小さかった頃は貴族のあいだでも、もっとエルフの作ったものがもてはやされていたような気がする。恋の叶うアミュレットだとか、悪い男から身を守る指輪だとか。最近では、めっきり見かけなくなったけど……。
「ごめんなさいね、こんなことを聞かせてしまって」ロータヤが眉を寄せて無理に笑う。
「ううん、全然。また売れるようになるといいね」
「ええ……これでも、努力はしているのよ? デザインを明るく変えたり、今風な素材を使ったりして……」
「そうなんだ。ねえ、どんなのか見せてくれない?」
「えっ!?」
ロータヤは顔を真っ赤にして固まってしまった。かわいい。こんな反応をされると、是が非でも見たくなってしまう。
わたしはロータヤをつんつんしながら、畳み掛けた。
「見せて見せて。何かいいアドバイスができるかもしれないし。あっ、そういえばヘイディはとっても器用で、アクセサリーを作るのが上手なんだよ。それにイドリスもああ見えて結構オシャレには気を遣ってるし……そうだ! どうせならみんな呼んで、意見を聞かせてもらおう! 人間と獣人代表として! ねっ?」
「え……ええっ!!?」
真っ赤な頬を両手で覆って立ち尽くすロータヤから半ば強引に了承を取ると、わたしは早速みんなを呼びに行った。




