遠く離れていても
法術の一、《感応術》は、法術の中でも最もやさしい基本の技だ。
遠く離れた相手の心の中に、直接話しかけることができる。
だけど、シンプルかつダイレクトなコミュニケーション術だからこそ、使うことを躊躇ってしまうこともある。
わたしはイドリスとオーウェンに背を向け、壁に向かって悶々としていた。
ど、どうしよう……改めてルーに話しかけるとなると、すごく緊張してきた。
前世でも電話するのとか苦手だったっけ……相手が出てくれても、ごめん今無理、とか言われると心が折れたよね……。
しかも最後に会ったのは、地下牢の中で、寝起きの極悪なルーがわたしの頭にキスしたとき。
さらに、魔が差したわたしは、自分もルーの頭に同じことをしようとした。今考えると完全にセクハラだ。ルーは寝ぼけているだけだと知っていたのに。未遂で終わって本当に良かった。
それをノーカウントとしても、最後に言葉を交わしたのは王妃の部屋で、エルベレスが本当は古代エルフで邪神だと知り、ルーもまた古代エルフの血を引いていると聞いたときで。
彼はわたしに別れを告げた。
だから、わたしがまだ彼を助けようとしていると知ったら、しつこいと思われるかもしれない。
迷惑、かもしれない。
「……終わったか?」
オーウェンがわたしの顔をひょいとのぞき込んだ。
「……ええっと…………まだ、何も……」
「何も!? おいおい、どうした? あんたはいつだって好き勝手やってきたのに、何を年頃の女の子みたいにもじもじしてんだよ?」
……いや、わたしは年頃の女の子なんですが……!?
「で、でも、もしルーが着替えの途中だったら? 眠ってたら起こしちゃうかもしれないし……それに……」
「あーもう、どんなときだって、あいつはあんたから話しかけられたらちゃんと答えてただろ!? ほら、とにかく言いたいことをぶちまけて来い!」
バシッと背中を叩かれる。ものすごく痛い。でも、気合は入った。
「うん……そうだね。話してみる」
オーウェンの言う通りだ。
ルーなら、わたしが何を言ったとしても、きちんと受け止めて返事をくれる。
わたしは一度深呼吸をしてから、目を閉じた。
〈…………ルー、聞こえる?〉
緊張を鎮めるために手を伸ばして触れた、ざらざらした煉瓦の壁の感触と、閉ざされた視界の中で。
わたしは離れた場所にいるルーの思念を探して、話しかけた。
ルーは、すぐに気づいてくれた。
〈……リネット?〉
〈そう。話したいことがあるの。今、いいかな?〉
少しの沈黙の後で、ルーは答えた。
〈……いいよ。どうしたの?〉
鼓動が速くなるのがわかる。わたしは思い切って伝えた。
〈わたし、《黒雷》に会って、ルーのお母さんの話を聞いてきたの〉
〈……………………兄に、会った…………?〉
〈う、うん。勝手にごめん。でもどうしても他の方法を知りたくて……ルーが供儀にならなくて済む方法を〉
ルーは黙り込んでしまった。勝手に過去を暴いたことで、怒らせてしまったのだろうか。わたしはごくりと唾を飲んだ。
〈……ルーのお母さん……メルスタさんは、[浄化]の魔法を使えたんでしょう? 古代エルフの末裔は強い魔力を持っている。だから、アルバ島へ行ってエルフたちに頼めば、邪神となったエルベレスを[浄化]させられるんじゃないかと思って〉
〈…………………………それは……不可能ではないかもしれないが……〉
〈本当に!? それならすぐに……〉
〈だが、君がやる必要はない。危険すぎる〉
即座に否定された。
〈……危険でも行くよ。ルーを助けられるかもしれないなら〉
〈そんなことをしなくてもいい。君に迷惑をかけたくない。それに、言ったはずだ。私は死ぬことなど怖くはない〉
〈わたしは、怖い。ルーが死んだら嫌だ〉
ルーが言葉を失う。
わたしは祈るように話した。
〈……わたしたち、聖祭の前に話したことがあるよね? 憶えている? 大聖女になる前、別の人間だったわたしは、とても病弱で、何日も起き上がれないこともよくあった。段々体力がなくなっていって、周りの人にも迷惑ばっかりかけて、もういいや、死んじゃったほうがずっと楽になるって思って、夢の中で、ルーにもそう話したよね? もう終わりにしたい、って。だけど、そのときにルーは言ってくれた。『周囲の人は迷惑だなどと思っていません。きっとあなたが大切だから、大切にしたいのですよ』って〉
〈……リネット…………もちろん、憶えているが……〉
〈その言葉で、ルーは弱っていたわたしに、最後まで生きる力をくれたの。だから、わたしにもルーを助けさせてほしい。ルーのことが大切だから、大切にさせてほしい〉
〈…………〉
〈それに、わたしだけじゃなくて、オーウェンも一緒に来てくれるし、弟のイドリスもいるんだ。だから、心配しないで、大船に乗ったつもりで待っててね?〉
長い沈黙の後で、ルーが、ふっと息を吐いた気がした。
〈……わかった。ありがとう、リネット〉
〈! ……うん!!〉
やった!
目を閉じていても、思わず顔がほころんでしまう。
これで大手を振ってルーを助けられる!
〈リネット、いくつか頼みがあるんだが……〉
〈うん! いいよ、何?〉
気が大きくなっていたわたしは、二つ返事で頷いた。
ルーはきっぱりと言った。
〈兄には金輪際会わないでほしい〉
〈えっ!?? ……あ、うん。わかった。できるだけ会わないようにする〉
いきなり何を言い出すのかとびっくりしたけど、わたしがブラッドを泉に叩き落したことで、何か意趣返しをされるんじゃないかと心配しているのかもしれない。
ルーは落ち着いて見えて、結構心配性なところがあるんだよね。この間もわたしが挑発的な言葉を言えないように、魔法をかけられたし……。
〈それと、もう一つ〉
〈う、うん。何?〉
〈できれば、これから毎日、少しの時間でいいから、こうして話しかけてくれないか?〉
〈毎日?〉
〈ああ。君が無事でいるか、心配だから〉
〈もちろんいいよ! 毎日、連絡するね〉
〈ありがとう〉
ほっとしたように言われたけど、わたしの方が嬉しかった。これから毎日、ルーの声が聞けるんだ。
だけど同時に彼の置かれた状況を思い出して、胸が痛んだ。地下牢はお世辞にも快適な環境とは言えない。しかも独房だ。外界との接触が絶たれたルーにとっては、こうしてわたしと話していることも重要な気晴らしなんだろう。
遠く離れていても、ルーとこんな風に会話をして繋がれるということが、とても貴重なことに思えてくる。
〈ルー、そんな場所でつらいと思うけど、きっと迎えに行くから……〉
〈……? ああ、君もエドニェット家に来たことがあるのか? メレディス家よりは狭いのかもしれないが、快適に過ごさせてもらっているから大丈夫だ〉
〈…………エドニェット……? それは、どういうこと……? ルーは地下牢にいるんじゃ……〉
聞き覚えのある名に、わたしの心が急速に冷えていく。
〈いや、地下牢からエドニェット家に移されたんだ。イソルデ゠ケリ・エドニェット嬢のご厚意だと聞いている〉
〈……………………ふぅん………………〉
イソルデ゠ケリ・エドニェット。
忘れもしない名だ。「リネット」と同じく、五大公爵家の令嬢にして、大聖女の憑代に立候補した少女。
彼女が、ルーの身柄を預かっているということは―――。
〈新しい憑代は、イソルデになったんだね?〉
〈……そうだ〉
〈それで、今、ルーはエドニェット家の客人として、王都にある彼女の家に滞在している?〉
〈ああ。私が逃亡する恐れは少ないとして、彼女が王妃に掛け合ってくれたらしい。さすがに供儀であるわたしと顔を合わせることはないが〉
〈そっか…………ルーが居心地のいい場所にいるなら良かった。これで安心してアルバ島に行ける〉
〈……リネット、くれぐれも無理をしないで……〉
〈うん、大丈夫。それじゃ、また明日〉
〈ああ、また明日〉
ルーとの話を終えたわたしは、即座に顔を上げ、オーウェンとイドリスに言った。
「ルーの了解は取った。すぐにアルバ島へ行こう」
二人は呆れたようにわたしを見ていた。
オーウェンが生ぬるい笑みを浮かべ、通路の壁を指さす。
「……その前にこれをどうにかしないと、もっと寄付金をふんだくられることになるぜ?」
「え?」
壁を見たわたしは、思わずあとずさった。
《感応術》でルーと話している間、わたしは無意識に《変異術》を使い、手で壁をこねくり回していたらしい。
聖騎士団本部の煉瓦の壁は、子どもが泥遊びをした後のようにぐちゃぐちゃの、無惨な姿になっていた……。




