王宮の朝2
「ルー、起きて」
ルーのそばへ行って体を揺すり、耳元で呼びかける。
体は温かくて、心からほっとした。
かがんで顔を覗き込むと、ルーは目を閉じ、安らかな寝息を立てていた。
「…………なんだ、寝てたのか…………」
わたしは脱力した。
寝台で寝ればいいのに、とそちらを見ると、天井近くにある明り取りの窓から、雨の吹き込んだ跡が見えた。今は弱まっているけど、雨風の強かった昨夜は、これではおちおち眠れなかっただろう。だから、こんな風に壁にもたれて眠っていたんだ。
……そういえば、ルーは朝は遅い方だったな。
と、思い出してくすっと笑った途端。
「……あ、ルー。起きたの?」
さっきまで寝ていたルーが、顔を上げ、わたしをじっと見ていた。
じっと……あまりに長く見つめられて、なんだかドキドキしてしまう。
「……ルー、あのね、」
「どこに行ってたの?」
「へっ?」
いきなりの質問に、わたしは困惑した。
どこに行ってた? ……うーん、小離宮にいたけど……?
ルーは視線をまっすぐにわたしに向けたまま、かがんでいるわたしの腕を引っ張って、自分の足の間に座らせた。
さらに、逃げないように、ぎゅっと両腕で抱きしめる。
「ル……ルー? あの、これは……どういった状況なの……?」
後ろからルーに羽交い絞めにされているような体勢だ。
どこもかしこもぴったりと密着しているせいで、わたしの体温と心拍数は急上昇している。
だけどルーは普段通りの声で、わたしの耳に囁いた。
「もう、俺を置いていかないで」
せつなそうな、心から訴えるような、そんな声だった。
胸が締めつけられるような言葉に、わたしはルーの手を強く握った。
「……うん。大丈夫。必ず迎えに来るから、待ってて」
「だめ」
「え」
「行かせない」
思わずルーの方を見ると、近い距離で目が合った。
熱のこもった眼差しで、わたしを見ている。
自分が動けなかったのか、動きたくなかったのか、よくわからない。
だけど、このままどこにも行かず、ずっとこうしているのもいいかもしれない―――なんて思ってしまう。
ルーの寝起きは、そういえばとても悪かったっけ。今もたぶん寝ぼけているだけだ。普段は絶対に、こんな風に甘えるようなことは言わないから。
それでも今だけは、甘えて、縋ってくれることが嬉しかった。
目覚める前の一瞬の間だけでも、誰かがそばにいるんだと、安心してほしかった。
わたしは体の力を抜き、ルーの金色の頭を撫でて言った。
「じゃあ、わたしもいるよ。ルーと一緒にいるからね?」
ぎゅっと、強く抱き寄せられる。
顔がルーの胸に押しつけられて、身動きが取れない。
しばらくその体勢でいると、わたしの頭のてっぺんに、何か温かい感触があった。
それが何かに思い当たると、私の全身の血が沸騰しそうになった。
ルーに、キスされている。
頭の上に。
今もまだそこに唇が触れていて―――長い時間、ルーはそうしていた。
ようやく離れたと思ったら、今度はずしっと体重がかかってきた。
再び眠ってしまったのだ。
わたしは彼を起こさないように離れようと悪戦苦闘した。ルーの体は予想以上に筋肉質で重量があるから、それは容易ではなかった。
ごろん、とわたしの肩に乗った金色の頭を見て、ふと、よからぬ考えが浮かぶ。
ルーは寝ているんだし、わたしもされたんだし。頭になら。
―――キスをしても、いいかな。
そっと顔を近づけて、なめらかな金糸のようなルーの髪に、わたしの鼻先が触れそうになったとき。
カツン、と足音が聞こえて。
鉄格子の向こうにいる看守と目が合った。
「「!!!!!????」」
ななななな、なんで!? なんで今来ちゃうの!? もっと飲んでてくださいよ!!?
「きっ、きっ、貴様、そこで何をっ!!??」
看守の声も裏返っている。頬が赤い。牢の中で抱き合っている男女という思いがけない場面を見てしまい、気が動転しているんだろう。しかもわたしは眠っているルーの頭にキスをしようとしていた。かなり恥ずかしい。わたしはつい逸らしたくなる目を、グッと看守に向ける。
「ええーっとですね、これはあの、その、のっぴきならない、とても複雑な事情がありまして……あ、待って!!」
看守は応援を呼ぼうと一目散に逃げだして―――突然、ぴたりと足を止めた。
そして、くるりと回れ右をして、わたしに向かって敬礼をした。
「地下牢の中は、異常なしであります!」
わたしはルーの腕の中から、敬礼を返した。
「お疲れさまです。階段の方も見回りをお願いします」
「はっ!」
看守はきびきびと歩いて去って行った。
わたしは大きく息を吐いた。
―――目を見て五秒。
それでわたしは、相手の精神を意のままに操る《傀儡術》をかけられる。
間に合って、色々な意味で、本当によかった。
*****
地下牢から転移して控えの間に戻り、乱れた髪とドレスを直して、壮麗な正殿の中をしゃなりしゃなりと歩く。
わたしの思いは、決意に変わっていた。
絶対にルーを助ける。
大丈夫だと、怖くないと、口ではそう言っていても、ルーは本心から供儀になりたいわけじゃない。
本当はさっきの言葉のように、誰かと一緒にいて、誰かと一緒に生きたいはずだ。
だけど、そのためにトロッコ問題の五人を見殺しにすることも、違うように感じる。
わたしの中の何かが、どこかに解決策が潜んでいるはずだと告げていた。
ルーの命を守り、みんなの命を守るような、そんな方法が。
「……そもそもルーが古代エルフの血を引いているせいで供儀になったんだから、古代エルフの末裔に詳しい話を聞きに行けばいいんじゃないかな。ルーのお母さん……に会えれば、一番いいんだけど…………」
考え事にふけり、ぶつぶつ言いながら広い廊下を歩いていたせいで、誰かにぶつかってしまった。
「きゃっ! すみません、わたくしったら……」
公爵令嬢らしい台詞を吐きながら顔を上げ、それを瞬時に後悔した。
険しい顔でわたしを見下ろしていたのは、わたしがイニスの泉に叩き落した、あの《黒雷》ブラッド゠ヴァラ・クラドックだったからだ。




