王宮の朝1
嵐はひどくなっていた。
先に王妃が退室した後、わたしは従僕に促されるままに小離宮の一室に泊まった。
オーウェンは何も言われなかったので、大雨の中、馬車に乗って帰っていった。彼も泊まれるように掛け合った方がよかったのかもしれないけど、わたしは放心状態で何も考えることができなかった。
ルーが王宮の地下牢へ連れて行かれたから。
王妃は二週間後に聖祭をやり直すと言っていた。
もう逃れることはできない。
最初からきっと、ルーにはこうなることがわかっていたんだ。
わかっていて、わたしの気の済むようにさせてくれた。
誰かに挑発的な言葉を―――たとえば王妃へ、不敬罪と取られるような言葉を―――言い放ち、わたしに危険が及ばないように、わたしの口を塞ぐ魔法までかけて。
徹底的に子ども扱いされたことを、怒ることはできなかった。
実際にわたしは子どもだからだ。
何も知らず、事態を楽観視して、結局守りたい人を守ることもできなかった子どもだ。
王妃にも、何も言い返すことができなかった。
ルーの魔法のせいだけじゃない。
わたしにはどうすればいいのか、具体的な策なんて何もなかった。
ただ感情に任せて彼女を非難しようとしただけで。
『この者一人を殺すか、わたくしたち全員が邪神によって殺されるか、そのどちらかしか無いのです』
そんな難問をいきなり突きつけられたって、答えようがない。
よく眠れないまま夜が明け、小離宮の客室で、雨の朝を迎えた。
寝台に横たわったまま、わたしはトロッコ問題のことを思い出していた。
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線路を走るトロッコが暴走した。
このまま暴走を続ければ、線路の先で作業している五人が轢かれて死ぬ。
けれど、たまたま居合わせたAが線路を分岐させるスイッチを押せば、トロッコは別の路線へ入り、その路線上で作業しているB一人だけが轢かれて死ぬことになる。
何もしなければ五人が死ぬ。
Aがスイッチを押せば、一人が死ぬ。
このとき、Aはスイッチを押すべきか、否か?
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そんな問題だ。
前世でこの思考実験の存在を知ったとき、なんて意地悪な問題だろうと憤慨したのを憶えている。どちらにしても誰かが死ぬことになる。それを選ばせるなんて、と。
―――まさか、自分がこれと似たような選択を迫られることになるなんて、そのときは思いもしなかったけど。
ルーが供儀として死ぬなんて、絶対に嫌だ。
それで他の全員が助かるとしても。
だけど、ルーは最初からその運命を受け入れているようにしか見えない。
オーウェンがルーを喩えて言った『禁断の果実』という言葉の意味が、今になってようやくわかった。
ルーは古代エルフの血を引く供儀で、死すべき運命だから。それを受け入れているから。
だから、誰も決して手に入れることはできない。
そういう意味だったんだ。
寝台の上で膝を抱え、どんなに考えても、やっぱりわたしのたどり着く答えは一つしかなかった。
ルーを助けたい。
だからわたしは寝台から降りて寝間着から昨日のドレスに着替え、王宮の地下牢へ向かった。
*****
「何人たりとも、《金獅子》への面会はまかりなりません」
小離宮から雨の中を歩いて正殿へ向かい、侍女もエスコートの男性も引き連れていないことを衛兵にうさん臭がられながら正殿の中を歩いて階段を下り、じめじめした地下牢を守る看守にルーへの面会を申し込み、にべもなく断られた。
でもわたしは気落ちしていなかった。
とにかく、地下牢のある場所まで下りていくことができたからだ。
一度行ったことのある場所ならば、わたしは《転移術》で行ける。
看守の背後の廊下もしっかり目に焼き付けたから、あそこをイメージして転移すればいい。
わたしはしおらしく引き下がり、意気揚々と階段を上った。
王宮のメインの建物であるだだっ広い正殿には、使われていない部屋がたくさんある。
昔、「リネット」が王妃主催の舞踏会に来たとき、控え室として入ったことのある部屋に忍び込み、中から鍵をかけた。
ちょっとお行儀が悪いけれど、ドレスのスカートをたくし上げ、中に隠していた宝剣を抜き出す。
剣をくるりと回してオーロラ色の転移空間を出現させると、わたしはその中に飛びこんだ。
予想通り、看守は牢の方を向いていなかった。椅子に座って机に足を乗せ、隠した酒をちびちびと飲んでいる。朝っぱらからずいぶん怠慢だけど、そのおかげで安心して侵入できる。今飲んでいるのが、できるだけ強い酒であってほしい。
わたしは足音を忍ばせて奥へ向かった。
地下牢の廊下は薄暗く、じめじめして、嫌な臭いが充満していた。
―――こんなところに、あと二週間も閉じ込められるだなんて。ルーは何も悪いことなんてしていないのに。
知らず知らずの内に早足になり、足音がこだました。
わたしはぎくりとして動きを止めた。
看守は、来そうにない。
ほっとして、また忍び足で奥へ進む。
地下牢に、他の囚人はいないようだった。よかった。牢の中から声をかけられたらどうしようかと思っていたんだ。
一番奥の牢に、ルーはいた。
壁にもたれて座っている。
……ううん、眠っている?
片方の膝を立てて腕と頭を乗せ、なんだかぐったりとしているみたいだ。
「ルー? どうしたの? ルー?」
わたしは牢の鉄格子に顔をくっつけるようにして、小声で呼びかけた。
ルーは返事をしない。
「ルー、返事をして。具合が悪いの? ルー……」
ぴくりとも動かない姿に、心配が増す。
本当は鉄格子ごしでもいいから、「絶対に助けるから待ってて」と伝えるつもりだった。
ルーが供儀として死ぬつもりでも、わたしは助けるつもりだと、大聖女を鎮める他の方法を必ず見つけると、そう伝えたかった。
だけど、この状況ではそんなことは言っていられない。
見つかったら、今度こそわたしもただじゃ済まないだろうけど―――わたしは宝剣を抜き、牢の中へ自分を転移させた。




