魔法2
小離宮の外で、雨が降り出す音がした。
それは瞬く間に強く、本降りの雨になっていき、風のうなりと共に部屋の窓に叩きつけられる。
また、嵐になりそうだった。
それはとりもなおさず、エルベレスが邪神として復活する予兆でもある。
わたしは両手の拳をぎゅっと握った。
「……エルベレスが邪神となったことはわかりました。ですが、聖祭について決めたのは後世の人間なのでしょう? どうしてそんなものに効果があるとわかるんです? 本当にエルベレスが邪神になってしまったのなら、たった一人の供儀で静まるとは思えません。もしもルーが供儀として捧げられ、それでも彼女が納得しなかったら、取り返しがつきません!」
落ち着いて喋ったつもりだったけど、口調が乱暴なものになってしまう。護衛の騎士たちがわたしを注視しているのがわかる。何か妙な動きをすれば、すぐに取り押さえられるだろう。
伯母さまが何か言いたげにルーを見た。
ルーは伯母さまに視線を返すと、わたしに向かって尋ねた。
「リネット、エルフが魔法を使えることは知ってる?」
「……? うん、知ってるけど……」
「イニス遺跡で、君はその場に残っていたエルベレスの理力に当てられて、倒れてしまった。それほど膨大な理力をエルベレスが使えた理由は、彼女が並行して魔法を使い、理力を増幅させていたからなんだ。だから君は気分が悪くなった。あのとき君は、理力ではなく、エルベレスの魔力の残滓に当てられて、呪いがかかったような状態になっていたんだ」
すとんと、そのときのことが腑に落ちた。
わたしは大聖女の理力があまりにも強くて気分が悪くなり、倒れたんだと思っていた。
だけど、違った。
あれは魔法の力の名残りだったんだ。だから魔力による呪いがかかったときと似た状態になり、ルーはわたしに聖水を振りかけてくれたんだ。
エルベレスがエルフだったという事実がまざまざと実感されて、わたしの背筋に冷たいものが走った。
窓に叩きつける雨粒が、余計に耳障りに感じられる。
言葉を失ったわたしに、ルーはさらに続けた。
「理力と魔力を並行して使うなんて、エルフなら誰でもそんな芸当ができるわけじゃない。エルフにも魔法を使えない者はいるし、神の理の力である理力は本来、魔力とは対となり、相克するものだ。
だけどエルベレスはそれができた。なぜならエルベレスは古代エルフであり、元々、半分は神のような存在……半神だったから」
まるで神話の世界の物語を聞いているようだった。
古代エルフ。半神。絵本の中でなら、見たことがある。
ルーは子どもに言い聞かせるように、やさしくわたしに告げた。
「……そして、私の母親も古代エルフの末裔だった。その血を引く私は少しだけ魔法が使えるし、私の血には、聖なる神を封じる魔力がある。それが邪神だとしても」
わたしは弾かれたようにルーを見た。
人並外れて美しい容貌。
まるで天使のような、目を奪われるような、信じられないほどの美男子。
イニス神殿でわたしが見たエルベレスの容貌も、恐ろしいほどに美しかったことを思い出す。
それは、エルフの中のエルフ―――古代エルフの血を引いているからだったんだ。
「……さすがにあなたにも、もうわかったでしょう。この者を、供儀に差し出さなければならない理由が」
伯母さまの声が聞こえ、わたしは我に返った。
「良いですか? この者一人を殺すか、わたくしたち全員が邪神によって殺されるか、そのどちらかしか無いのです。あなたもいやしくも公爵令嬢として生まれたならば、粛々とその役目を果たしなさい……いいえ、できないのならそれまでのこと。
他にも、憑代の女ならばいくらでも用意してあります。こちらには供儀さえいればそれでいい。殺すのは、あなたでなくとも」
わたしは耳を疑った。
他の人が、ルーを殺す?
淡々と、伯母さまが言葉を重ねる。
「元々、大聖女の憑代などというものはただのお飾りなのです。大聖女を降ろす儀式というのも、あくまで形式上のもの。あなたが本当に大聖女の理力を得るなど、誰も想定も期待もしていなかった。
ですが、そんなことはどうでもいい。こちらとしては、供犠であるあの古代エルフの血が流れさえすれば、それで。剣を刺すだけなら理力など不要。赤子にだってできることだわ」
伯母さまはわたしの表情を見ると満足したようで、護衛の騎士たちへ命じた。
「ああ、疲れた。やはり、エルフだの獣人だのと長く同席すると気分が悪くなるわ。換気したくてもこの天候ではできないし……おまえたち、早くそこの供儀を地下牢へ連れてお行き」
これ見よがしに扇で顔を隠して立ち上がる。
護衛の騎士たちが動き出した。
「伯母さまっ!! お待ちください、まだ話は……」
「もう済んだわ。これ以上わたくしを煩わせないで。王妃であるわたくしが、そのような下郎どもとの謁見を許可してあげただけでも感謝なさい?」
その言葉で、わたしの中の何かが切れた。
この人の何が、エルフや獣人よりも偉いというのだろう。
血筋? 夫の地位? そんなのはただの外的要因で、伯母さま個人とは何の関係もないものだ。他人を蔑んでいい理由にはならない。
そもそも彼女は最初から一度もルーとオーウェンの名前を呼ばなかったし、尋ねもしなかった。まるで、彼らの名前を尋ねたら、自分の威光に傷がつくとでも言わんばかりに。
そんな高慢なだけの伯母さまに、王妃の資格なんて、ない!!
わたしは王妃の腕をぐっと掴んだ。
そして、大きく口を開いて―――。
「……っ!! …………、……っっ!!」
言葉が何も出てこない。
わたしは何度も言おうとした。
王妃を責め、非難する言葉を。
だけど、ただ口をぱくぱくさせるだけで、いくらがんばっても、喉からは何の音も出せない。
「……お離しなさい。いくら姪でも、不敬罪で投獄しますよ?」
王妃がひどく不快そうにわたしをにらむ。
ルーを捕えようとしていた護衛騎士たちが動きを止めて、こちらを窺っている。
ルーはわたしと目が合うと、自分の唇に指を当てた。
……「しー」? 言うな? 何を?
わたしはハッと思い当たった。
『だから、約束して。私の兄に言ったような、あんな挑発的な台詞は、もう他の誰にも言わないと』
『……私だけに、言ってほしい』
昨夜、宿屋で、確かにルーはそんなことを言い、わたしは『うん』と答えた。
あのとき。
わたしは魔法にかかったように、ルーから目が離せなかった。
……ちょっと待って。
ルーは今さっき、『少しだけ魔法が使える』と言ったよね?
わたしは今、王妃を罵るような言葉を言おうとして、何も言えなかったよね?
…………つまりルーは、「わたしがルー以外に挑発的な台詞を言えないような魔法」をかけたということ!!??
愕然としていると、ルーがわたしの方へ近づいてきた。
そして王妃に「少しだけ彼女と話をさせてください」と頼んだ。
わたしの手を振り払った王妃が、そっけなく許可を出す。
ルーはわたしの前に来ると、わたしの手を両手で取り、まるで求婚でもするときのように、恭しく跪いた。
そして、わたしに言った。
「ありがとう、リネット。私のために心を痛めてくれて」
わたしの好きな声で、美しい翡翠色の瞳で、そう告げる。
「君と話すと、いつも私の心は温かくなり、勇気づけられる。君に会う前からそうだったし、今もそうだ。だから、私は死ぬことは少しも怖くない」
わたしは何も言えないまま、それを聞いていた。
また魔法をかけられるんじゃないかと少し思ったけど、たぶん違う。
彼の表情も声もとても真剣だった。
まるで、今生の別れを告げるときのように。
わたしを安心させるように、ルーがほほえんだ。
「約束するよ。私が死んでも、魂になって君のそばへ行き、君を守る」
わたしには、大人のつく嘘がわかる。
だけど、その言葉はきっと、嘘ではないような気がした。




