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逃亡

「大聖女さま、もう良いでしょう! ひと思いに、《金獅子》の心臓を刺すのです!」


 静けさを、司祭の憤怒の叫び声が破った。

 わたしは自分が握っている、純金と宝石と繊細な彫刻で彩られた細身の剣を、まるで今初めて見るかのように見て―――。


 そして、唐突に思い出した。


 今が、このローレンシア王国の、千年に一度の聖祭のメインイベント、生贄の秘儀の真っ最中で。


 わたしはこの日のために聖教会によって選び抜かれた、《大聖女》の栄誉ある憑代(よりしろ)、五大公爵家の長女、リネット゠リーン・メレディスで。


 目の前に跪いている金色の髪の騎士は、ローレンシア王国が誇る十聖―――十人の聖騎士―――の筆頭、《金獅子》の異名を取る当代最強の聖騎士、ルー゠ギャレス・クラドックで。


 わたしは粛々と、この大聖堂に集まっている紳士淑女―――国王一家、聖教会のお偉方、その他高級貴族の方々―――当然わたしの家族も含む―――の眼前で、手に持っているこの宝剣で、《金獅子》ルー゠ギャレス・クラドックの心臓を刺し貫いて。




 殺さなければならない。




 なぜなら、それが大聖女の憑代として選ばれたわたしの正しい役目であり、そのためにこの数年間生家を離れて大修道院で必死に聖典を学び、身を清め、修練し、毎日何時間も聖女の祈りを唱えて準備してきたのだから。


 なぜなら、それが千年前の大聖女によって定められた極めて重要な儀式であり、ここローレンシア王国に安寧と発展をもたらすために欠かせない神事であり、この国では大聖女の御心を行うことが何よりの正義だから。


 わたし、「リネット゠リーン・メレディス」自身も、そう信じて、この祭壇に登った。

 今日、この手で筆頭聖騎士を供儀に捧げることに、疑問など少しも抱かなかった。

 大聖女を―――なぜそれがよりによって()()()()魂だったんだろう―――この身に降ろすまでは。


「何をしているのです、リネット゠リーン! あなたのするべきことをなさい!!」


 観客の中から、厳しい叱責が飛んだ。

 小さい頃から「リネット」が何度も聞いている声だから、見なくてもわかる。これは苛烈な性格のローレンシア王妃―――わたしの親戚でもある、グレナ伯母さまの声だ。

 それに呼応するように、ふたたび大聖堂の中がざわめき始める。


「……そうだ。何をぐずぐずしている!」

「王国のために、生贄の儀式を!」

「《金獅子》を殺せ!」

「聖騎士を殺せ!」

「殺せ!」

「殺せ!」


 神聖な大聖堂に、「殺せ」のシュプレヒコールが巻き起こる。


 それは「聖祭」と呼ぶにはあまりにぞっとする光景だったけど、消えかけていたわたしの使命感を呼び覚ました。

 間違いなく、彼らはわたしがこの聖騎士を生贄に捧げ終わるまでは、納得して帰ってくれたりはしない。


 それにこの秘儀の進行については、大修道院で何度も段取りを確認し、麻袋で作った人形で何度も練習した。いくらリネット(わたし)がまだ十六歳の公爵令嬢で、《金獅子》が二十歳にして十聖筆頭の屈強な聖騎士とはいえ、無抵抗の人間一人の心臓を刺すことなんて、簡単だ。


 この剣を突き刺してしまえば、みんなが満足する。

《金獅子》その人でさえも、それを望んでいると言ってたじゃないか。


 前世の記憶なんて、くだらない。ただの白昼夢だ。わたしがルー゠ギャレス・クラドックの声を夢の中で聞いたことがあるだなんて、そんなことがあるはずない。だいたい、この男を見たのも今日が初めてなのだから。そもそもわたしは見る必要も、目隠しを取る必要すらなかった。隣にいる司祭が腕の位置を調整してくれることになっていて、わたしは剣を振り下ろすだけでよかったんだから。


 生贄の儀式の前に、大聖女をわが身に降ろす儀式をしたから(すでにわたしは「大聖女」ということになっている)、くらくらして一時的に混乱していただけ。


 そう、必死に自分に言い聞かせていたのに。




 顔を上げていたルー゠ギャレス・クラドックが、「殺せ」の大合唱を聞くと、


 目隠しをしたまま、安心させるようにわたしにほほえみかけて、


 ―――そして、静かに頭を垂れた。




 その瞬間、わたしの中で何かが弾けた。




「………………無理」


「は?」


 わたしは剣を握る力をゆるめて、はぁーっ、と息を吐いた。司祭がピリピリした顔で睨んでくる。わたしははっきりと言った。


「無理です。できない。こんなの……間違ってる」


 気がついたら、大聖堂内はしんと静寂に包まれ、これ以上ないほど空気が張り詰めていた。

 当然だ。

 千年に一度の大聖女が、公然と、聖なる儀式を否定してしまったのだから。


「なっ、なっ……な、何を、血迷ったことを……!!」


 司祭が口から泡を吹きながら、顔をどす黒く変色させて激怒している。

 集まった貴賓たちの間にも、不穏な空気がどんどんふくれ上がる。

 銀と青の壮麗な甲冑姿で並ぶ聖騎士団の緊張が高まったのが、目に見えるようだった。


《金獅子》は驚いたように、わたしの方へ顔を向けた。

 わたしは少しかがんで彼の腕を取り、支えながら立たせた。

 並んでみると、《金獅子》は、ずいぶん背の高い人だった。


「リネット゠リーン!! あなたという人は…………いい加減になさい!!!!」


 グレナ伯母さまの絶叫が聞こえた。普段はとても上品な方だけど、今は怒りのあまり、青筋を立ててぶるぶる震えている。

 礼拝堂を埋め尽くす人々のブーイングも、徐々に大きくなっていく。


 だけど、ごめんなさい。

 やっぱりわたしにはできない。

 前世でわたしの命を支えてくれた、この人の命を奪うことなんて、絶対に。


 それに、どうしても確かめたいこともあった。


 わたしは少し強張った《金獅子》の腕を掴んだまま、一人残らずこちらを注視している高貴な人々を見渡して、ぺこりと頭を下げた。


「ごめんなさい。生贄の儀式は、中止にします」


 わたしが逃げそうだと見るや、聖騎士団の人たちが一斉に剣を抜いた。

 ジャキン、という硬質で物騒な音が堂内のあちこちに響き渡る。


 けれど、わたしが自分の宝剣をくるりと回す方が早かった。

 大聖女の理力をのせた剣で、宙を丸く切り取る。


「リネット」は理力をまったく持っていなかった。

 けれどわたしは体の底から湧き出るように理力を感じ、全部で六つある大聖女の法術の使い方を、なぜか呼吸をするように最初から知っていた。


 これは大聖女が使える法術の四、《転移術》。


 わたしは聖騎士ルー゠ギャレス・クラドックを連れ、二人でそのオーロラがゆらめくような転移空間の中へ飛びこみ、大聖堂から逃げ出した。

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