意地悪
わたしは放心したように立ち尽くした。
―――理解できない。なぜこんなひどいことを言えるんだろう。
「……もうよろしいですか? それでは失礼して、拘束させていただきます。トラハーン、メレディス殿を後ろ手に縛れ。両手に何も触れさせるな。《変異術》に注意しろ」
「はっ」
青鎧の一人がこちらへ駆けてくる。
まずい。掌で触れないと変異術は使えない。逃げ出せずにこのまま王都に連行され、生贄の儀式のやり直しをさせられたなら、今度こそルーを連れて逃げたりはできないだろう。
ブラッドは相変わらず強くわたしの手を掴んだまま、離さない。
青鎧が縄を取り出した。
そのとき、ぐらっ、と足元が揺れた。
たちまち大きな揺れがわたしたちを襲う。
―――地震だ。また。
長身のブラッドが、バランスを崩してよろめく。
その一瞬の隙を、わたしは見逃さなかった。
宝剣を抜き、ブラッド゠ヴァラ・クラドックの周囲に、素早く大きな楕円を描いて、法術の四、《転移術》を発動させる。
オーロラがゆらめき始め―――。
その光が、驚きの表情を浮かべたブラッドに降りかかる!
思い浮かべたのは、イニス遺跡を取り囲む泉。
家が大きく揺れ続けている。
揺れながらもその場の全員が驚きの表情でこちらを見つめる中で。
わたしは宝剣をブラッドに突きつけて叫んだ。
「あなたみたいな意地悪な兄は、泉で頭を冷やしてきなさいっ!!!!」
ブラッドの体がオーロラに呑み込まれる。
長い手足が、じたばたと藻掻くように逃れ出ようとしている。
さすがに手強い。
だけど、無駄だ。
発動した《転移術》からは逃れられない。
かすかな、花火の残滓のような小さな光が、花びらのように舞う。
そして一秒後、《黒雷》ブラッド゠ヴァラ・クラドックの姿は、もうどこにもなかった。
立っていられないほどの地震も、いつの間にかおさまっていた。
みんなが呆然とわたしを見ている。
あれ……なんか、引かれている?
し、しまった、怖がらせちゃったのかな!!?
兄が消えた場所を真剣に凝視していたルーと目が合い、わたしは言い訳がましく説明した。
「ええと……ごめん。お兄さん、イニス遺跡の泉の上に転移させちゃった。でも浅めの場所にしたから、たぶん溺れてはいないはず……」
そこまで言って、そういえば《黒雷》は明らかに重そうな銀と青の鎧を身に着けていたことを思い出し、血の気が引いた。……ルーはわたしを背負って泳げると言ったけれど、《黒雷》はあの鎧を身に着けて泳げるだろうか……。
はははははっ! と、オーウェンが笑った。
「《黒雷》に頭を冷やせとは、さすが大聖女さまだな!」
気がつくと、オーウェンはその大きな体で、ヘイディたちを自身の揺れから守るように覆い被さっていた。
ゆっくりとオーウェンが体をどかす。
ヘイディは泣きそうな顔をしていた。
「怖かったよう、オーウェン! もう地震来ない?」
「たぶんな。もう大丈夫だ」
「早く縄を切ってよう!!」
「おう、待たせてすまなかったな」
「へっ?」
ぽかんとするわたしの目の前で、オーウェンは手に持った短剣で次々にヘイディ、ヘッレさん、ティモさんを縛っていた縄を切っていった。
おそるおそる青鎧の人たちを見ると、三人ともルーから離れ、手持ち無沙汰にぶらぶらしている。
ルーも拘束を解かれて起き上がり、手の甲で口の血を拭っていた。
な、なにこれ? どういう状況?
オーウェンはヘッレさんたちを解放すると立ち上がり、青鎧の三人に言った。
「この場で一番職位の高い者は俺だ。よって、従騎士のお前らに命じる。今すぐイニス遺跡へ《黒雷》の救助へ向かえ。あの二人は、俺が責任を持って王都へ連れて行く」
「「「はっ」」」
なんと、青鎧たちは本当に、整列して駆け足で部屋を出て行った!
「ええっ……? オーウェン、これはどういうこと!?」
オーウェンはにやりと笑った。
「言っただろう? 聖騎士は服従がすべてだ。大司教といるときは大司教の、枢機卿といるときは枢機卿の、十聖といるときは十聖の命令を聞く。今はお偉い枢機卿である《黒雷》が戦線離脱したから、この場にいる一番偉い俺の命令を聞いたってことだ」
「そ、そんな……オーウェンはさっきは《黒雷》がいたから《黒雷》の命令を聞いただけ、ってこと?」
「その通りだ」
「ひど……!」
「何がひどいんだよ? この程度の機転も利かないようじゃ、俺はここまでのし上がれなかったぜ?」呆れたようにオーウェンが頭の後ろで腕を組む。「それにどうせ、あんたは聖典の原書とやらを見せに、王都へ行くつもりだったんだろう? ま、どっちみち同じことかと思ったから、あえて逆らわなかったんだよ。下手に抵抗すると、ティモの兄貴たちにも迷惑かけるしな」
「まったく、本当にいい迷惑だわ……まだ夕飯の途中だったのに……」
ヘッレさんがぶつぶつ言いながら髪を直し、立ち上がる。
「ごめんなさい、ヘッレさん、ティモさん、それにヘイディ……」
わたしが頭を下げると、ヘッレさんは苦笑した。
「あら、やめてよ。あんたのせいじゃないでしょ? それより、夕飯食べましょうよ。ねえ、ティモ?」
「ああ。食べて温まるといい」
「そうだよ! あたしお腹ペコペコ。リネット、あたしの隣の席に座って!」
森を照らすランタンのような温かい言葉に、涙が出そうだった。
残念だけど夕飯のシチューは遠慮して、すぐにティモさんの家を出ることにした。ぐずぐずしていたら、また《黒雷》たちがやって来ないとも限らない。
迷惑料として(そして二階の壁の穴の修理代として)聖祭で身に着ていたドレスと宝冠を差し出したんだけど、ヘッレさんは「こんなにいらないわよ」と言って、ドレスだけを受け取った。
ティモさんの家を出る前に、わたしは《治癒術》でルーの怪我を治そうとしたけれど、断られてしまった。
何か話しかけてもまともな返事もしてくれず、どこか、わたしを避けているようにも見える。
気になったけど、ゆっくり話している時間はなかったので、慌ただしく出発の用意をするしかなかった。
そして、わたしとルーとオーウェンはティモさん一家に別れを告げると、真夜中、森のランタンの明かりの下で、転移をした。
王都コルヌアイユへ。




